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史上最強のアッシー君

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 宿題も終わっていないのに、今朝は映画『マリア』を観に梅田へ。昨年11月に前売り券買ってて、ずっと観にいく時間がなかった。いよいよ上映が明日まで、ってことで急遽慌てて観にいった。
 イエス様の両親であるマリアとヨセフの物語。
 『パッション』のように大々的な宣伝もされてなくて興行的に期待されていない映画なんだろう。観客のほとんどは、その筋の人(キリスト教関係者)と思われる(^^ゞ。まあ、でも悪くない映画だった。

 上映が日に一回で、しかも小さな劇場だったので、立ち見の人もたくさんいた。かくいう私も立ち見組。チケット持って並んでいたら、場内とトランシーバで連絡とっていた受付の人が私に
「申し訳ありません。ちょうど<お客様から>お席がございません。<お客様から>立ち見となりますが、よろしいでしょうか?」
と告げられる。よろしいでしょうか?っていわれたって、もうここまで来て帰るわけにも行かず、そのまま会場へ。
 正月から立ち見、しかも、よりによって<お客様から>っていうのが、先日のボット感染と並んで今年一年の多難さを暗示しているようで、なんかヤな感じ(^^ゞ。

 マリアを演じた女優さんは、まだ10代で、可愛らしいほんとに少女の感じのある初々しさがマリアに合ってはいたけど、わたしは、表情がどうも好きでなかった。彼女のもともとの眉の形がそうなのかよくわからないけど、いっつも眉間に皺がよっているような悩んだような表情をしていた。イエス様出産直後の笑顔の場面以外は、なんかずっーと眉間に皺。
 そういえば『パッション』のときもマリア役の女性は、いっつもびっくりしたような悲しいような表情をしていた。マリア役になると、なぜか表情が固定されるのかな?

 出産後、天使の啓示をうけた羊飼いたちがやってきたとき、マリアが
「この子はみんなへの贈り物よ」
とか、ぺらぺら喋っているのも、なんだかなあと思った。聖書ではマリアの言葉はなく、むしろ「これらの出来事をすべて心に納めて」いたとあるわけで、身に起こった不可思議なことをそのままじっと受け取り、心の中で思い巡らすところにマリアの良さがあると思うのだけど。。。

 しかし、映画をみて、なにより感心したのはヨセフである。聖書の中では、とっても存在感が薄くて、いつのまにかフェードアウトしている人なんであるが。
 「聖霊によって神の子を身ごもった」
なんてことを、突然、未婚の若い女性が言い出したら、そりゃ、2000年前のイスラエルでなくても、まわりの人は混乱をする。なにより、言っているマリア自身が自分の身に起こったことに対し困惑し、神を信じつつも、不安のなかにいる。当初はそのマリアを疑い絶望しながら、やがてしっかりとマリアを受け入れ、守っていくヨセフ。
 当時のイスラエルを占領統治していたローマの強制でナザレの町からベツレヘムまで、ヨセフは身重のマリアを守り、200キロを旅する。砂漠あり、荒野あり、険しい山あり、川では流されそうになるマリアを助け、空腹でも自分はほとんど食べず、マリアとロバに食べ物をあげるヨセフ(それも自分も食べたふりしてこっそりと、というのが実に男らしい)。マリアはロバに乗っているけど、ヨセフは徒歩でロバを曳いてマリアを導いていく。なにがなんでもマリアを守り抜いていく。雅子さんを「お守りします」と言った皇太子も偉かったが、ヨセフはその何千倍もすごい。
 まったくもって人類史上最強のアッシー君である。
 わたしはこの映画は『マリア』ではなく『ヨセフ』って題にして欲しかった。(じゃあ、ヨセフの内面が良く描けていたかっていうとそうでもなかったけど・・・(^^ゞ)
 
 神様、どうかわたしにもヨセフを一人ください。

写真は映画と何の関係もなく、映画の帰りに梅田で見た獅子舞。この獅子はもう酔っ払ってへたっているところだそうです(*_*;獅子よ、そんな情けないことではマリアは守れんぞっ。

イブは「夜」

 昨日のクリスマス説教冒頭、枕での牧師先生の説明を聞くまでは「クリスマス・イブ」の意味を知らなかった。わたしだけでなく、知らない人は多いのではないか。
 「クリスマス・イブ」の「イブ」は夜のことだそうだ。イブニング。
 クリスマスの前日じゃあ、ないそうだ。聖書の時代(今はどうかよく知らない)、イスラエルの民にとって、一日は日の暮れから始まった。だから、「クリスマスイブ」つまり「クリスマスの夜」はクリスマスの一日の始まりなのだ。クリスマスはイブから始まっている。だから、最近よく聞く「クリスマス・イブイブ」なんて言い方もおかしいのだ。
 もっとも、クリスマスが12/25になったのは、イエス様が亡くなってからずいぶんたったのちのローマ時代。イエス様の誕生日は誰も知らないので、当時、その地方で行われていた太陽祭みたいなお祭りの時期に合わせて便宜的に日程は決められたらしい(←いちおう、これは以前から知っていた(^^ゞ)。「クリスマスはイエス様の誕生日を祝うのではなく、イエス様が降誕されたことをお祝いする」というのが正しい。

 以上、聞きかじりのクリスマス豆知識。

わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。(ヨハネ1-16)

 今日から年末まで、原稿と大掃除、ダッシュであります。

二日酔いで礼拝に・・・(-"-)

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 昨日が教会のクリスマスコンサート。今日はクリスマス礼拝。
 ともに聖歌隊として賛美する。
 し、しかし・・・実は今朝はやんごとない諸般の事情により二日酔いだった(-"-)。二日酔いで礼拝に出るなんて受洗後はじめて(-"-)(-"-)。しかもよりによってクリスマス礼拝に二日酔い!、なんてことでありましょうか(-"-)(-"-)(-"-)。原稿もあるというのに。。。
 うーむ、短歌のみならず、クリスチャンとしても真人間にならんとあかんです。

 でも(以前に書いたかもしれないけど)、二日酔い礼拝には思い出がある。それはまだ受洗前、クリスチャンになる気はさらさらなく、なんとなく興味があって礼拝に2度ほど出た頃のこと。3度目の礼拝の日の朝、前日、飲みすぎで二日酔い。それも滅多にない強烈な二日酔い。クリスチャンでもなかったので、当然、礼拝に行く必要もなかったのだけど、家の中でごろごろしてても余計気分が悪そうで、「外の空気を吸おう」と思って外に出る。その日は冬休みの最終日で翌日が仕事始めだった。仕事が始まったら、わざわざ日曜に教会に行くこともなくなるだろうし、二日酔いで気分が悪くても座っていればいいだけだから、と、なんとなく不純な動機で、かつ教会への行き納めという気分で礼拝へ。

 ところが、礼拝中もやはり具合が悪くて(今考えると、それはやってはいけないことなのだけど)祈りの最中とか説教の最中に、なんどか席を立って礼拝堂の外に出た。ああ、やはり来なけりゃ良かったと、どうにか礼拝が終わるまで我慢して、外に出た。
 しかし・・・帰路歩きながら、あれ?と思った。具合が良くなっていた。
 当時の教会から駅までの道はしずかな住宅街で、小春日和の良い天気。なんだかほこほこ気分が良く、足取りも軽い。
 で、歩きながら思った。
 礼拝に行くのはなんだか気持ちが良い、と。なんだかわからないけど気持ちがよい。礼拝ってのは良いもんだ。来週も礼拝に行こう~と。
 まじめなクリスチャンの前ではとても話ができないけど、あの日のあの二日酔いのおかげで私は礼拝に導かれたと言っても過言ではない(^^ゞ
 受洗を決めたとき以上にあの日「来週からも礼拝に行こう」と決意したあのときの弾むような心を今でも印象的に思い出す。(二日酔いのせいってのが、重ね重ねナニですが・・・(^^ゞ)
 あの日、すでに受洗までの道はすっかり整えられていたのだ。二日酔いでも何でも、すっかり神様は私を捕獲しておられた(^^ゞ

「あなたがたがわたしを選んだのではない。
 わたしがあなたがたを選んだ。
 ヨハネ16-16」

 それが四年前のことで、なーんの進歩もないわたしで、神様もさぞ呆れておられるであろう。。。とほほ・・・。受洗後のいま、いくらなんでも二日酔いで礼拝はあきません~。

 写真は今日の礼拝帰りの神崎川。やけに水鳥乱舞。

不調だけど

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 今日は、体調不良で年休。朝、病院に行くのもしんどい感じで、かなり遅めの午前に、病院に行き、薬を貰ってくる。午後は薬がきいたのか、よく眠れた。
 夜になって、まだ万全という感じではないけど、だいぶ回復。とりあえず、これからキムチ鍋風のもの食べて(どうも辛すぎにできたみたいだが(^^ゞ)、元気出そう。

 昨日から、アドベンド(クリスマス前の4週のこと)。昨日、私は、昼間、用事があって、いつもの朝の礼拝に行けなかった。で、はじめて夜の礼拝に行った。朝の礼拝のあとに設営されたクリスマスツリーが、教会の庭で、初点火されていた。教会の入り口付近の背の高い木に飾られたツリー。その初点火を見れたので、昨日、夜の礼拝に行ったのは、ちょっとラッキー。
 いま、もう一年中、街はきれいに電飾されていて、オーソドックスなツリーというのはむしろ地味でさえあるけれど、やはりきれいなものだなあと思った。庭で見てもきれいだったけど、礼拝堂のなかから、窓のむこうに見えるツリーも感慨深かった。

 人間は愚かだから、ほんとうに美しいものや豊かなものを、眼で見えるもの、あるいは耳で聞こえるもの・・・そんな外界から知覚できるものとしてしか認識することができない。ほんとうは、きれいなツリーなどなくても、もっと美しいもの豊かなものを感じることができるはずなのに。
 でも、やはり人間はツリーを飾り、美しい歌を歌う。そうすることによって、内なる美しいもの豊かなものに近づいていくのだろう。そういう人間の営みは切々としててはかない。はかないけれど、神様はしずかにやさしく見ていてくださる。

 夜の礼拝は、昼間の礼拝とはメンバーも違い、規模もとても小さく(参加者10名くらい)、雰囲気も違った。障害を持っておられる方が多く参加されていた。礼拝後、お茶を飲みながら、短時間、雑談をした。特に話が盛り上がるとかそういうのはないのだけど、なんとなく不思議に心満たされるような感じを持った。素朴で小さな礼拝の集まり。神様がほんとうに祝福されるのはこのような集いかもしれない。
 
 少し前に、礼拝が嫌、とか書いたけど、やはり礼拝はいいものである。(←言うことコロコロ変わるいい加減な奴)
 体調不良だけど、ゴスペルシンガーのBro.taisukeさんのブログのタイトルみたく<I got blessing everyday!>と思うのである。

祈るしかないということ

 母教会の方から葉書が来た。先月、わたしが出していたお見舞いのカードへのお礼だった。
 まだ五十代の女性なのだが、夏に検査入院をして、手術のできない進行性すい臓がんとわかり、放射線・抗がん剤治療ののち一時退院したものの、現在、再入院中とのこと。
 「今まで何かをする(「する」の下にアンダーラインあり)という生活をしてきましたが、ここへ来て何もしない生活に初めてなって自らの信仰の状態を反省しています」という文面に胸が詰まる。

 神様の心はわからない。時に人間の目には不条理、不公平に思える。
 人は誰ひとり明日のことはわからない。
 不意の事故や突発の病気などを除けば、多くの人はいつの日か徐々に衰え、それまではできていた多くのことを出来なくなっていく時期を迎える。<何かを為す>ことによって自らの生きる価値を求めることのできなくなる時期がやってくる。

 クリスチャンにとって祈りはけっして消極的なものではない。が、しかし、やはり「祈るしかない」という状況に置かれることを思うとき、わたしは途方にくれてしまう。

 「ごらん 空の鳥 野のゆりを 
  まきもせずつむぎもせずに やすらかに生きる 
  こんなに小さな いのちにさえ 
  心をかける 父がいる
  (マタイ6.26)」
 彼女の葉書に書かれていた聖句。
 
 父よ、あなたが彼女のくるしみを取り去り
 そのいのちをゆたかに支え励まし
 一日一日をやすらかなものとしてください

霊性ということ

 雨の日曜。礼拝は電車で。肌寒くてGジャンを羽織ってちょうどいい。数日前までの猛暑はいずこ。

 礼拝、主任牧師は年に一度の休暇中で、小松鉄人レース出場。かわって奥さん(奥さんも資格をもった牧師)が説教。
 「T雄牧師(主任牧師)は、今朝7時40分スタートで、第一ラン8キロ、自転車64キロ、第二ラン24キロのデュアルスロンに出場しています。背中に十字架の描かれたTシャツを着て祈りながら走るとのことです」
 牧師が日曜にレースに出てるとは何事!?と思う人もあるだろうな。牧師にもいろんなタイプがある。学究肌で神学的な深みをめざす人もいれば、情熱的に教会を立て上げていくタイプもある。いまの主任牧師はちょっと型からはずれた伝道者タイプ。真の霊性に満たされているのであれば、どのタイプであってもやはり牧師先生は牧師先生。

 霊性という言葉を出したのは、富岡幸一郎『スピルチュアルの冒険』(講談社現代新書)を読んだから。この本、題名からすると昨今はやりのスピルチュアルモノと思うけど(実際この題はなんだか軽すぎて良くないと思う)内容は、空海、親鸞から内村鑑三、釈超空、鈴木大拙、埴谷雄高、ドフトエフスキー、カールバルトなどなどを例に挙げて、宗教や洋の東西を問わない、霊性=スピルチュアリティを問うもの。

 教会でも「霊性」とか「霊的」という言葉はよく聞く。でもどうも「霊」の字が入ったとたん、わたしは胡散臭く感じて、しっくりこないものがあった。また昨今の表層的なスピリチュアルブームで余計イヤな感じもあった。
 でも『スピルチュアルの冒険』を読んでようやく腑に落ちたところがある。東洋的な、「気」「気息」、旧約聖書で神が人間に吹き入れた「息」、それらすべてをひっくるめて、宇宙の中の生命の風というべきものが霊性であるということ。

 著者は文芸評論家であって、文学的な視点もしっかりしているように感じられ信頼できたのもよかった。
 詩性と霊性ということについても、とても考えさせられるところがあった。自分にとってとても大きな一冊だったかもしれない。

祝福

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 昨日は、一月までお世話になったI牧師が、松江から来阪されててお会いした。現在の教会のこと、仕事のこと、生活上のこと、あれこれお話した。

 以前から少し疑問に思っていたことで、先生がよく言葉にされていた「祝福」についてもお聞きした。「しっかり信仰を持って神様のほうを向いていたら、たくさんの祝福が与えられる」というようなことを、ときどき言われていたけど、「祝福」って具体的に何?
 信仰をしっかり持っていたら、「いいことがある」というのであれば、それはどうだかなあ?と思う。やっぱり世の中には不条理なことはたくさんあるし。わたしなぞはいくらでもバチがあたってもおかしくないけど、世の中には、本当に善良で誠実に生きている人が不幸になる例は枚挙に暇がない。聖書にだって、ヨブ記みたいに義人が災難にあう物語が載っている。
 だから、先生が「信仰をもっていたら<祝福>が・・・」というときの<祝福>というのはなんだろう?と疑問に思っていた。

 先生曰く「それは人間の目からみて<いいこと>ではないです。祝福は神様の配慮であって、そのときはむしろ<嫌なこと>かもしれない。でも月日がたって、はっと<あれは祝福だった>と気づくこともある。でも人間は、なかなか<祝福>に気づけないんですよ。」
 気づけないけど、気づく感性を磨くことが大事、だとも。なるほどねぇ、<祝福>は、借金が減ることでも、人間関係が改善することでも、ばんばんすごい短歌が書けることでもないかもしれない。でも自分の側に神様の配慮を感じる力があれば、人生は祝福に満ちているのかもしれない。
 苦しみすらも祝福だといえば、それはあまりにベタで今の私にはわざとらしい。でも突き詰めて考えたらそうなんだろう。

 さて今日はいつもの教会で礼拝。牧師先生の先週の「責任を感じる」発言を受けて、今週はチャリ通礼拝自粛。
 電車と徒歩でとぼとぼ教会へ。なんかテンション上がらない(^^ゞ。
 牧師先生「今日、自転車は?」
 私「自粛しました」
 牧師先生「あー、それがいいですねぇ、当分はその方がいいです。」
 私「でも・・・自転車じゃないと、どうも礼拝へのテンションが上がりません」 
 牧師先生「だったら乗ってきたらよろしやん(笑)」
・・・とおっしゃられてもやはり心配されるだろうし、まあしばらくは環境庁が出している熱中症予防サイト↓を参照し、暑さ指数(WBGT)が厳重警戒レベルのときは自転車はやめることに。
http://www.nies.go.jp/health/HeatStroke/

 教会では午後から修養会。「葬式」についての学び。<日本では、死や葬式はタブー視され、「葬式のまなびなんて縁起でもない」と感じられるかもしれないけど、信仰者として、この世での最後の式であり新しい生への出発の式として、平素からしっかり考えておく必要があります>、とのこと。
 「頭で勉強しても仕方ないから」・・ということで、会には葬儀社の方も参加。具体的な事例説明と質疑あり。さらに礼拝堂に実際の棺が持ち込まれ(@_@)、「自分もいつかここに入ることを、棺をみて、しっかり感じて欲しい」と言われる。そ、それは理解できるけど、棺、ほんとにリアル。(ってゆーかほんとの棺・・・ふぇ・・)

 私は、まだそもそも親に受洗したこと言ってないし、今私が死んだら仏教式で葬式されてしまう可能性大。ずーっと受洗のこと言いそびれているんだよなあ。いろいろと難しい問題がある。

 写真はエジプトに旅行した方から頂いたエジプトビール。
 くせのない飲み易いビールだった。くーっと飲んだら、祝福を感じました~。(←こりゃ単なる飲兵衛の言い草)

ゴスペル・クワイヤ

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 昨日は、固形物は、黒砂糖をひとかけら口にしただけで、インスタントのポタージュスープ2杯、野菜ジュース1杯を飲んだだけ。今朝はお粥を作って食べて礼拝へ。

 その体調で躊躇したのだけど、午後から、摂津で開催されるゴスペルコンサートへ。
 行ってみて、正解というか、たいへんよかった。正直、クリスチャン関係のイベントというのは、いまひとつしょぼいのではないかという偏見があったのだけど(すみません)、たいへん聴きごたえのあるコンサートだった。摂津市民ホールで立ち見も出る盛況だった。

 摂津と、新潟のクワイヤが出演し、いずれもメンバーは素人さん。しかしそれぞれ市岡裕子、Bro.taisukeというアメリカハーレム仕込のプロのゴスペル歌手に指導されているだけあって、堂に入った歌いっぷり。
 特にびっくりしたのは、それぞれのクワイヤで、数名、ソロをとった女性がいたけど、それが皆さんすごかった。細いきゃしゃな若い女性なのにどこからその声量、迫力が出るかというような力強いゴスペル。私はああいう歌い方というのは日本人とは根本的に骨格・体格が異なる黒人女性もしくは白人女性にしか歌えないと思っていた。
 それなりの発声法があるのかもしれないけど、あのものすごい迫力には圧倒された。

 二部の市岡裕子、Bro.taisuke、BEE葦原らのプロの歌手・バンドの演奏も圧巻。私は知らなかったのだけど、市岡裕子という人は吉本芸人の故・岡八郎の娘さんとのこと。バリバリのゴスペル歌いながら、喋りはしっかり「吉本」で笑いをとっておられた。たいへん芸達者な方。
 少女期のお母さんの自殺、その後の父・岡八郎のアルコール依存などのなかで、神様に救われ、ゴスペルを歌いだしたそうで、その信仰は力強い。芸達者なところと揺ぎないまっすぐな神様への賛美がうまく噛み合っている感じ。
 個人的にはBro.taisukeの歌声が好きだった。(ちゃっかりコンサート後、人ごみにまぎれて握手してもらったし(^^ゞ))

 ただ、「神様は素晴らしい!」「ジーザス愛しています!」という率直な賛美は私には正直羨ましい。もちろん私もクリスチャンであるから、「神様は私を愛してくださる」「いつも私は守られている」とは思ってはいる。思ってはいるけど、あそこまで率直に「ハレルヤ!」と言えるかなあ・・・。
 でもちょっとゴスペルを歌いたい、という気持ちはわいてきたなあ。

 コンサート後、いっしょに行った牧師先生(奥さんのほう)他数名と外にいたら、「コンサートの感想を」とマイクを向けられる。他の人ではなく私?一番喋りそうと思われたのか・・(^^ゞ。まあ向けられた以上は「とてもよかったです。特にBRO.taisukeさんには握手もしてもらいましたし・・・」とかなんとかペラペラ喋りましたが(^^ゞ。あとから一緒にいた人から「吉浦さん、しっかりマイク握って喋ってました」「マイク持ったら話さないタイプですね」と言われた(-"-)。たしかに周囲でインタビュー受けている人で差し出されたマイク握って喋っている人はいない感じ・・。摂津のケーブルTVかなんかだそうで、摂津方面の方、マイク握って写っている私を見たら、見逃してください。昨日、絶食、今日、お粥食べてきた、とは思えぬ喋りっぷりだと思います・・・・・。

 写真、左側はBro.taisuke Mass Choir。右側は2クワイヤ+全員出演のフィナーレ、左側が市岡裕子さん、右端の赤いスーツがBro.taiskeさん。
 

聖書の花・讃美歌

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 六月にやろうと思っていたことができなくて、少しがっかりしている。まあ、今はそういう時期ではないんだろう。
 来週、再来週と出張が続く。慌しさの中に紛れ込みたくない思いがある。

 午前中、礼拝。
 わたしは礼拝の音楽は言葉よりももっぱらメロディラインのうるわしさに引かれるほうなので、どちらかというと聖歌より讃美歌のほうがメロディラインが豊かなので好きである。こんなわたしなので、あまり讃美歌の歌詞でぐっときた経験というのはないのだが、人によっては、讃美歌の言葉で救われたという人もいるようだ。
 しかし今日歌った『讃美歌21』の390番の3番(3節)の歌詞はなんかぐっときた。歌詞だけ読んでも、ふーんと思われるかも知れないけども。
 
 憎みあらそい われらを裂き
 人はあざけり ののしるとも
 神はわれらの 叫びをきき
 なみだにかえて 歌をたまわん

 もちろんこの歌、メロディラインもいいわけで、ちょっと翳りのある抑制のきいた曲が、じわーと沁みます。

 特にもめごととか大きな問題があったわけではないのだけど、どうも最近、妙な疎外感を感じることが多い。ごくごくありきたりのどうということのない局面で、ふとなにかぽっかり自分の意識だけが浮いているというか・・。とりたててそれで困るとか腹が立つとかそういうこともないのだけど。
 390番の歌詞のように「憎みあらそい」なんてことはまるっきりないけれど、きりきりとした疎外感を感じている心がふわっと捕らえられた気がする。

 写真は、旧約聖書に出てくる花だそうで、イスラエルから持ってこられて教会の庭に植えられているもの。牧師先生(奥さんの方)から名前を教えてもらったのだけど、忘れた・・(-"-)。この写真ではわからないけど、花びらの周りにふぉんふぉんと白い髭のようなものが放射状に出ていてなんだか可愛らしい花だった。(次週行ったら、もう少し花をアップで撮ってきます)

 礼拝後、帰ろうとしていたら、牧師先生(トライアスロンやっている御主人の方)が、今日は(自転車で)何分かかりました?と聞かれ「25分」と答えると、にっこり。自転車のタイヤをチェックし、後輪に空気を入れてくださる。
 「後輪は前輪より空気が入っていないと腰を痛めます。こうやって空気を入れているとうれしいんですよ。これで自転車に乗って腰を痛める人がいなくなるって思うと」とほんとに嬉しそう。
 空気が入った後、さようならーと帰ろうとしたら、「ペダルには、もっと足先の方を乗せるように」とのこと。そのほうが負担がかからないそうだ(^^ゞ。

 帰りは雨に降られた。滴るほどびしゃびしゃになったわけではないが、しっかり濡れた。風はなかったので、それでも25分で帰れた。もっとも家に帰って10分もしたら雨は止んで陽が射していた。・・・雨女なんだよなあ。

祈りの文体?

 祈りの始め、皆、どういう言葉ではじめるかというとプロテスタントの場合、さまざまで(教派、教団によっては定型的なものがあるのかもしれませんが)、ある人は「愛する天のお父様」と呼びかける。またある人は、「愛し奉る御在天の御父」と呼びかける。若い方がジーンズ姿で「愛する天のおとおさまー」というときはほんとにフランクで軽やか。いっぽう、年配の方が、きっちりと姿勢を正し背広姿で「愛し奉る御在天の・・」というと粛然とした感じ。「愛する天のおとおさまー」と「愛し奉る御在天の御父」では内容は一緒でも、ニュアンスというか文体が違う。穂村弘と齋藤茂吉くらい違う。違うからどうってこもないのだけど。私自身はどう祈りを始めるかというと、どっちかというと固い<文体>。「主イエスキリストの御父にして御在天の神様」。もともとあまり決まっていなかったのが、加藤常昭の『祈り』という本を読んで、なんとなくこういう始まりがいいなあと思って最近はこうしている。でももう少しフランクなほうがいいかもしれないとも感じる。
 一方、祈りの終りはどうか、というと、これもさまざま。「愛するイエス様のお名前によって祈ります」という方もあれば、「主イエスキリストの御名を通して祈ります」もある。で、私自身の祈りの終わり方はどうかというと、これがまた固い<文体>。「主イエスキリストの御名を通して(あるいは「御名のもと」に)御前に捧げます」。
 この終わり方をなぜするようになったかは私には記憶がない。気がついたらそう言っていた(^^ゞ。でも最近祈祷会などで他の方の祈りを聞いていたら、こういう風に祈る人はいないことに、はた、と気がついた。
 自分で意図的に選択した記憶がない以上、おそらくどこかで聞くか習うかしたのであって、そもそもどう考えても、自分が編み出した<文体>ではない。ごく自然に考えられるのは母教会もしくは母教会で当時の牧師先生からうけた聖書入門講座のときに教わったということである。でも、受洗前、たしかに祈りの意味とか、罪ある人間は神様への仲介者・とりなし役のイエス様を通して祈りは神様に捧げるものなので、かならず、「イエス様を通して」とか「イエス様のお名前によって」みたいなことを祈りの最後につけないといけない、ということは習った記憶があるのだが、あの祈りの終りの言葉まで具体的に習ったかどうか定かではない。いったいどこで習ったかなあ???
 どうも気になりだすと気になってしょうがない。現在、私の周りでは私以外にこういう風に祈りを終わる人はいないし・・。で、思い切って、私に洗礼を授けてくださった、つまり聖書入門講座をしてくださったK牧師先生に質問メールを出した。「主イエスキリストの御名を通して御前に捧げます、という祈りは習いましたでしょうか?」。(習ったかどうかも覚えていないというのもたいへん失礼な話である(~_~;)。)
 返事、「主イエスキリストの・・・捧げます」は、牧師先生自身の祈りと母教会の方の祈りから来ているとのこと。「知らず知らずのうちに身についているものなんですね(^_^)」とのこと。そうかそうかやはり最初の牧師先生や教会の人たちのなかでいつのまにか覚えていたのだ。
 「知らず知らずのうちに身についていた」というのはなんだか嬉しい。今は母教会を離れているのだけど、祈りという基本的なところで母教会の<文体>が身についていると考えると、なにかほっとする。
 もっとも先生はやんわりとそう返事をくださったけど、実際は<習ってた>のを忘れてただけかもしれないという危惧はあるが・・・(^^ゞ
 いずれにせよ、わたしはこの文体は大事にしたいと思う。

 「神に期待する人は祈ります。神に期待しない人は祈りません。(頌栄教会説教メッセージより)」

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