2008年1月 3日 (木曜日)

史上最強のアッシー君

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 宿題も終わっていないのに、今朝は映画『マリア』を観に梅田へ。昨年11月に前売り券買ってて、ずっと観にいく時間がなかった。いよいよ上映が明日まで、ってことで急遽慌てて観にいった。
 イエス様の両親であるマリアとヨセフの物語。
 『パッション』のように大々的な宣伝もされてなくて興行的に期待されていない映画なんだろう。観客のほとんどは、その筋の人(キリスト教関係者)と思われる(^^ゞ。まあ、でも悪くない映画だった。

 上映が日に一回で、しかも小さな劇場だったので、立ち見の人もたくさんいた。かくいう私も立ち見組。チケット持って並んでいたら、場内とトランシーバで連絡とっていた受付の人が私に
「申し訳ありません。ちょうど<お客様から>お席がございません。<お客様から>立ち見となりますが、よろしいでしょうか?」
と告げられる。よろしいでしょうか?っていわれたって、もうここまで来て帰るわけにも行かず、そのまま会場へ。
 正月から立ち見、しかも、よりによって<お客様から>っていうのが、先日のボット感染と並んで今年一年の多難さを暗示しているようで、なんかヤな感じ(^^ゞ。

 マリアを演じた女優さんは、まだ10代で、可愛らしいほんとに少女の感じのある初々しさがマリアに合ってはいたけど、わたしは、表情がどうも好きでなかった。彼女のもともとの眉の形がそうなのかよくわからないけど、いっつも眉間に皺がよっているような悩んだような表情をしていた。イエス様出産直後の笑顔の場面以外は、なんかずっーと眉間に皺。
 そういえば『パッション』のときもマリア役の女性は、いっつもびっくりしたような悲しいような表情をしていた。マリア役になると、なぜか表情が固定されるのかな?

 出産後、天使の啓示をうけた羊飼いたちがやってきたとき、マリアが
「この子はみんなへの贈り物よ」
とか、ぺらぺら喋っているのも、なんだかなあと思った。聖書ではマリアの言葉はなく、むしろ「これらの出来事をすべて心に納めて」いたとあるわけで、身に起こった不可思議なことをそのままじっと受け取り、心の中で思い巡らすところにマリアの良さがあると思うのだけど。。。

 しかし、映画をみて、なにより感心したのはヨセフである。聖書の中では、とっても存在感が薄くて、いつのまにかフェードアウトしている人なんであるが。
 「聖霊によって神の子を身ごもった」
なんてことを、突然、未婚の若い女性が言い出したら、そりゃ、2000年前のイスラエルでなくても、まわりの人は混乱をする。なにより、言っているマリア自身が自分の身に起こったことに対し困惑し、神を信じつつも、不安のなかにいる。当初はそのマリアを疑い絶望しながら、やがてしっかりとマリアを受け入れ、守っていくヨセフ。
 当時のイスラエルを占領統治していたローマの強制でナザレの町からベツレヘムまで、ヨセフは身重のマリアを守り、200キロを旅する。砂漠あり、荒野あり、険しい山あり、川では流されそうになるマリアを助け、空腹でも自分はほとんど食べず、マリアとロバに食べ物をあげるヨセフ(それも自分も食べたふりしてこっそりと、というのが実に男らしい)。マリアはロバに乗っているけど、ヨセフは徒歩でロバを曳いてマリアを導いていく。なにがなんでもマリアを守り抜いていく。雅子さんを「お守りします」と言った皇太子も偉かったが、ヨセフはその何千倍もすごい。
 まったくもって人類史上最強のアッシー君である。
 わたしはこの映画は『マリア』ではなく『ヨセフ』って題にして欲しかった。(じゃあ、ヨセフの内面が良く描けていたかっていうとそうでもなかったけど・・・(^^ゞ)
 
 神様、どうかわたしにもヨセフを一人ください。

写真は映画と何の関係もなく、映画の帰りに梅田で見た獅子舞。この獅子はもう酔っ払ってへたっているところだそうです(*_*;獅子よ、そんな情けないことではマリアは守れんぞっ。

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2007年12月24日 (月曜日)

イブは「夜」

 昨日のクリスマス説教冒頭、枕での牧師先生の説明を聞くまでは「クリスマス・イブ」の意味を知らなかった。わたしだけでなく、知らない人は多いのではないか。
 「クリスマス・イブ」の「イブ」は夜のことだそうだ。イブニング。
 クリスマスの前日じゃあ、ないそうだ。聖書の時代(今はどうかよく知らない)、イスラエルの民にとって、一日は日の暮れから始まった。だから、「クリスマスイブ」つまり「クリスマスの夜」はクリスマスの一日の始まりなのだ。クリスマスはイブから始まっている。だから、最近よく聞く「クリスマス・イブイブ」なんて言い方もおかしいのだ。
 もっとも、クリスマスが12/25になったのは、イエス様が亡くなってからずいぶんたったのちのローマ時代。イエス様の誕生日は誰も知らないので、当時、その地方で行われていた太陽祭みたいなお祭りの時期に合わせて便宜的に日程は決められたらしい(←いちおう、これは以前から知っていた(^^ゞ)。「クリスマスはイエス様の誕生日を祝うのではなく、イエス様が降誕されたことをお祝いする」というのが正しい。

 以上、聞きかじりのクリスマス豆知識。

わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。(ヨハネ1-16)

 今日から年末まで、原稿と大掃除、ダッシュであります。

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2007年12月23日 (日曜日)

二日酔いで礼拝に・・・(-"-)

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 昨日が教会のクリスマスコンサート。今日はクリスマス礼拝。
 ともに聖歌隊として賛美する。
 し、しかし・・・実は今朝はやんごとない諸般の事情により二日酔いだった(-"-)。二日酔いで礼拝に出るなんて受洗後はじめて(-"-)(-"-)。しかもよりによってクリスマス礼拝に二日酔い!、なんてことでありましょうか(-"-)(-"-)(-"-)。原稿もあるというのに。。。
 うーむ、短歌のみならず、クリスチャンとしても真人間にならんとあかんです。

 でも(以前に書いたかもしれないけど)、二日酔い礼拝には思い出がある。それはまだ受洗前、クリスチャンになる気はさらさらなく、なんとなく興味があって礼拝に2度ほど出た頃のこと。3度目の礼拝の日の朝、前日、飲みすぎで二日酔い。それも滅多にない強烈な二日酔い。クリスチャンでもなかったので、当然、礼拝に行く必要もなかったのだけど、家の中でごろごろしてても余計気分が悪そうで、「外の空気を吸おう」と思って外に出る。その日は冬休みの最終日で翌日が仕事始めだった。仕事が始まったら、わざわざ日曜に教会に行くこともなくなるだろうし、二日酔いで気分が悪くても座っていればいいだけだから、と、なんとなく不純な動機で、かつ教会への行き納めという気分で礼拝へ。

 ところが、礼拝中もやはり具合が悪くて(今考えると、それはやってはいけないことなのだけど)祈りの最中とか説教の最中に、なんどか席を立って礼拝堂の外に出た。ああ、やはり来なけりゃ良かったと、どうにか礼拝が終わるまで我慢して、外に出た。
 しかし・・・帰路歩きながら、あれ?と思った。具合が良くなっていた。
 当時の教会から駅までの道はしずかな住宅街で、小春日和の良い天気。なんだかほこほこ気分が良く、足取りも軽い。
 で、歩きながら思った。
 礼拝に行くのはなんだか気持ちが良い、と。なんだかわからないけど気持ちがよい。礼拝ってのは良いもんだ。来週も礼拝に行こう~と。
 まじめなクリスチャンの前ではとても話ができないけど、あの日のあの二日酔いのおかげで私は礼拝に導かれたと言っても過言ではない(^^ゞ
 受洗を決めたとき以上にあの日「来週からも礼拝に行こう」と決意したあのときの弾むような心を今でも印象的に思い出す。(二日酔いのせいってのが、重ね重ねナニですが・・・(^^ゞ)
 あの日、すでに受洗までの道はすっかり整えられていたのだ。二日酔いでも何でも、すっかり神様は私を捕獲しておられた(^^ゞ

「あなたがたがわたしを選んだのではない。
 わたしがあなたがたを選んだ。
 ヨハネ16-16」

 それが四年前のことで、なーんの進歩もないわたしで、神様もさぞ呆れておられるであろう。。。とほほ・・・。受洗後のいま、いくらなんでも二日酔いで礼拝はあきません~。

 写真は今日の礼拝帰りの神崎川。やけに水鳥乱舞。

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2007年12月 3日 (月曜日)

不調だけど

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 今日は、体調不良で年休。朝、病院に行くのもしんどい感じで、かなり遅めの午前に、病院に行き、薬を貰ってくる。午後は薬がきいたのか、よく眠れた。
 夜になって、まだ万全という感じではないけど、だいぶ回復。とりあえず、これからキムチ鍋風のもの食べて(どうも辛すぎにできたみたいだが(^^ゞ)、元気出そう。

 昨日から、アドベンド(クリスマス前の4週のこと)。昨日、私は、昼間、用事があって、いつもの朝の礼拝に行けなかった。で、はじめて夜の礼拝に行った。朝の礼拝のあとに設営されたクリスマスツリーが、教会の庭で、初点火されていた。教会の入り口付近の背の高い木に飾られたツリー。その初点火を見れたので、昨日、夜の礼拝に行ったのは、ちょっとラッキー。
 いま、もう一年中、街はきれいに電飾されていて、オーソドックスなツリーというのはむしろ地味でさえあるけれど、やはりきれいなものだなあと思った。庭で見てもきれいだったけど、礼拝堂のなかから、窓のむこうに見えるツリーも感慨深かった。

 人間は愚かだから、ほんとうに美しいものや豊かなものを、眼で見えるもの、あるいは耳で聞こえるもの・・・そんな外界から知覚できるものとしてしか認識することができない。ほんとうは、きれいなツリーなどなくても、もっと美しいもの豊かなものを感じることができるはずなのに。
 でも、やはり人間はツリーを飾り、美しい歌を歌う。そうすることによって、内なる美しいもの豊かなものに近づいていくのだろう。そういう人間の営みは切々としててはかない。はかないけれど、神様はしずかにやさしく見ていてくださる。

 夜の礼拝は、昼間の礼拝とはメンバーも違い、規模もとても小さく(参加者10名くらい)、雰囲気も違った。障害を持っておられる方が多く参加されていた。礼拝後、お茶を飲みながら、短時間、雑談をした。特に話が盛り上がるとかそういうのはないのだけど、なんとなく不思議に心満たされるような感じを持った。素朴で小さな礼拝の集まり。神様がほんとうに祝福されるのはこのような集いかもしれない。
 
 少し前に、礼拝が嫌、とか書いたけど、やはり礼拝はいいものである。(←言うことコロコロ変わるいい加減な奴)
 体調不良だけど、ゴスペルシンガーのBro.taisukeさんのブログのタイトルみたく<I got blessing everyday!>と思うのである。

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2007年11月24日 (土曜日)

祈るしかないということ

 母教会の方から葉書が来た。先月、わたしが出していたお見舞いのカードへのお礼だった。
 まだ五十代の女性なのだが、夏に検査入院をして、手術のできない進行性すい臓がんとわかり、放射線・抗がん剤治療ののち一時退院したものの、現在、再入院中とのこと。
 「今まで何かをする(「する」の下にアンダーラインあり)という生活をしてきましたが、ここへ来て何もしない生活に初めてなって自らの信仰の状態を反省しています」という文面に胸が詰まる。

 神様の心はわからない。時に人間の目には不条理、不公平に思える。
 人は誰ひとり明日のことはわからない。
 不意の事故や突発の病気などを除けば、多くの人はいつの日か徐々に衰え、それまではできていた多くのことを出来なくなっていく時期を迎える。<何かを為す>ことによって自らの生きる価値を求めることのできなくなる時期がやってくる。

 クリスチャンにとって祈りはけっして消極的なものではない。が、しかし、やはり「祈るしかない」という状況に置かれることを思うとき、わたしは途方にくれてしまう。

 「ごらん 空の鳥 野のゆりを 
  まきもせずつむぎもせずに やすらかに生きる 
  こんなに小さな いのちにさえ 
  心をかける 父がいる
  (マタイ6.26)」
 彼女の葉書に書かれていた聖句。
 
 父よ、あなたが彼女のくるしみを取り去り
 そのいのちをゆたかに支え励まし
 一日一日をやすらかなものとしてください

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2007年9月30日 (日曜日)

霊性ということ

 雨の日曜。礼拝は電車で。肌寒くてGジャンを羽織ってちょうどいい。数日前までの猛暑はいずこ。

 礼拝、主任牧師は年に一度の休暇中で、小松鉄人レース出場。かわって奥さん(奥さんも資格をもった牧師)が説教。
 「T雄牧師(主任牧師)は、今朝7時40分スタートで、第一ラン8キロ、自転車64キロ、第二ラン24キロのデュアルスロンに出場しています。背中に十字架の描かれたTシャツを着て祈りながら走るとのことです」
 牧師が日曜にレースに出てるとは何事!?と思う人もあるだろうな。牧師にもいろんなタイプがある。学究肌で神学的な深みをめざす人もいれば、情熱的に教会を立て上げていくタイプもある。いまの主任牧師はちょっと型からはずれた伝道者タイプ。真の霊性に満たされているのであれば、どのタイプであってもやはり牧師先生は牧師先生。

 霊性という言葉を出したのは、富岡幸一郎『スピルチュアルの冒険』(講談社現代新書)を読んだから。この本、題名からすると昨今はやりのスピルチュアルモノと思うけど(実際この題はなんだか軽すぎて良くないと思う)内容は、空海、親鸞から内村鑑三、釈超空、鈴木大拙、埴谷雄高、ドフトエフスキー、カールバルトなどなどを例に挙げて、宗教や洋の東西を問わない、霊性=スピルチュアリティを問うもの。

 教会でも「霊性」とか「霊的」という言葉はよく聞く。でもどうも「霊」の字が入ったとたん、わたしは胡散臭く感じて、しっくりこないものがあった。また昨今の表層的なスピリチュアルブームで余計イヤな感じもあった。
 でも『スピルチュアルの冒険』を読んでようやく腑に落ちたところがある。東洋的な、「気」「気息」、旧約聖書で神が人間に吹き入れた「息」、それらすべてをひっくるめて、宇宙の中の生命の風というべきものが霊性であるということ。

 著者は文芸評論家であって、文学的な視点もしっかりしているように感じられ信頼できたのもよかった。
 詩性と霊性ということについても、とても考えさせられるところがあった。自分にとってとても大きな一冊だったかもしれない。

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2007年8月26日 (日曜日)

祝福

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 昨日は、一月までお世話になったI牧師が、松江から来阪されててお会いした。現在の教会のこと、仕事のこと、生活上のこと、あれこれお話した。

 以前から少し疑問に思っていたことで、先生がよく言葉にされていた「祝福」についてもお聞きした。「しっかり信仰を持って神様のほうを向いていたら、たくさんの祝福が与えられる」というようなことを、ときどき言われていたけど、「祝福」って具体的に何?
 信仰をしっかり持っていたら、「いいことがある」というのであれば、それはどうだかなあ?と思う。やっぱり世の中には不条理なことはたくさんあるし。わたしなぞはいくらでもバチがあたってもおかしくないけど、世の中には、本当に善良で誠実に生きている人が不幸になる例は枚挙に暇がない。聖書にだって、ヨブ記みたいに義人が災難にあう物語が載っている。
 だから、先生が「信仰をもっていたら<祝福>が・・・」というときの<祝福>というのはなんだろう?と疑問に思っていた。

 先生曰く「それは人間の目からみて<いいこと>ではないです。祝福は神様の配慮であって、そのときはむしろ<嫌なこと>かもしれない。でも月日がたって、はっと<あれは祝福だった>と気づくこともある。でも人間は、なかなか<祝福>に気づけないんですよ。」
 気づけないけど、気づく感性を磨くことが大事、だとも。なるほどねぇ、<祝福>は、借金が減ることでも、人間関係が改善することでも、ばんばんすごい短歌が書けることでもないかもしれない。でも自分の側に神様の配慮を感じる力があれば、人生は祝福に満ちているのかもしれない。
 苦しみすらも祝福だといえば、それはあまりにベタで今の私にはわざとらしい。でも突き詰めて考えたらそうなんだろう。

 さて今日はいつもの教会で礼拝。牧師先生の先週の「責任を感じる」発言を受けて、今週はチャリ通礼拝自粛。
 電車と徒歩でとぼとぼ教会へ。なんかテンション上がらない(^^ゞ。
 牧師先生「今日、自転車は?」
 私「自粛しました」
 牧師先生「あー、それがいいですねぇ、当分はその方がいいです。」
 私「でも・・・自転車じゃないと、どうも礼拝へのテンションが上がりません」 
 牧師先生「だったら乗ってきたらよろしやん(笑)」
・・・とおっしゃられてもやはり心配されるだろうし、まあしばらくは環境庁が出している熱中症予防サイト↓を参照し、暑さ指数(WBGT)が厳重警戒レベルのときは自転車はやめることに。
http://www.nies.go.jp/health/HeatStroke/

 教会では午後から修養会。「葬式」についての学び。<日本では、死や葬式はタブー視され、「葬式のまなびなんて縁起でもない」と感じられるかもしれないけど、信仰者として、この世での最後の式であり新しい生への出発の式として、平素からしっかり考えておく必要があります>、とのこと。
 「頭で勉強しても仕方ないから」・・ということで、会には葬儀社の方も参加。具体的な事例説明と質疑あり。さらに礼拝堂に実際の棺が持ち込まれ(@_@)、「自分もいつかここに入ることを、棺をみて、しっかり感じて欲しい」と言われる。そ、それは理解できるけど、棺、ほんとにリアル。(ってゆーかほんとの棺・・・ふぇ・・)

 私は、まだそもそも親に受洗したこと言ってないし、今私が死んだら仏教式で葬式されてしまう可能性大。ずーっと受洗のこと言いそびれているんだよなあ。いろいろと難しい問題がある。

 写真はエジプトに旅行した方から頂いたエジプトビール。
 くせのない飲み易いビールだった。くーっと飲んだら、祝福を感じました~。(←こりゃ単なる飲兵衛の言い草)

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2007年7月15日 (日曜日)

ゴスペル・クワイヤ

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 昨日は、固形物は、黒砂糖をひとかけら口にしただけで、インスタントのポタージュスープ2杯、野菜ジュース1杯を飲んだだけ。今朝はお粥を作って食べて礼拝へ。

 その体調で躊躇したのだけど、午後から、摂津で開催されるゴスペルコンサートへ。
 行ってみて、正解というか、たいへんよかった。正直、クリスチャン関係のイベントというのは、いまひとつしょぼいのではないかという偏見があったのだけど(すみません)、たいへん聴きごたえのあるコンサートだった。摂津市民ホールで立ち見も出る盛況だった。

 摂津と、新潟のクワイヤが出演し、いずれもメンバーは素人さん。しかしそれぞれ市岡裕子、Bro.taisukeというアメリカハーレム仕込のプロのゴスペル歌手に指導されているだけあって、堂に入った歌いっぷり。
 特にびっくりしたのは、それぞれのクワイヤで、数名、ソロをとった女性がいたけど、それが皆さんすごかった。細いきゃしゃな若い女性なのにどこからその声量、迫力が出るかというような力強いゴスペル。私はああいう歌い方というのは日本人とは根本的に骨格・体格が異なる黒人女性もしくは白人女性にしか歌えないと思っていた。
 それなりの発声法があるのかもしれないけど、あのものすごい迫力には圧倒された。

 二部の市岡裕子、Bro.taisuke、BEE葦原らのプロの歌手・バンドの演奏も圧巻。私は知らなかったのだけど、市岡裕子という人は吉本芸人の故・岡八郎の娘さんとのこと。バリバリのゴスペル歌いながら、喋りはしっかり「吉本」で笑いをとっておられた。たいへん芸達者な方。
 少女期のお母さんの自殺、その後の父・岡八郎のアルコール依存などのなかで、神様に救われ、ゴスペルを歌いだしたそうで、その信仰は力強い。芸達者なところと揺ぎないまっすぐな神様への賛美がうまく噛み合っている感じ。
 個人的にはBro.taisukeの歌声が好きだった。(ちゃっかりコンサート後、人ごみにまぎれて握手してもらったし(^^ゞ))

 ただ、「神様は素晴らしい!」「ジーザス愛しています!」という率直な賛美は私には正直羨ましい。もちろん私もクリスチャンであるから、「神様は私を愛してくださる」「いつも私は守られている」とは思ってはいる。思ってはいるけど、あそこまで率直に「ハレルヤ!」と言えるかなあ・・・。
 でもちょっとゴスペルを歌いたい、という気持ちはわいてきたなあ。

 コンサート後、いっしょに行った牧師先生(奥さんのほう)他数名と外にいたら、「コンサートの感想を」とマイクを向けられる。他の人ではなく私?一番喋りそうと思われたのか・・(^^ゞ。まあ向けられた以上は「とてもよかったです。特にBRO.taisukeさんには握手もしてもらいましたし・・・」とかなんとかペラペラ喋りましたが(^^ゞ。あとから一緒にいた人から「吉浦さん、しっかりマイク握って喋ってました」「マイク持ったら話さないタイプですね」と言われた(-"-)。たしかに周囲でインタビュー受けている人で差し出されたマイク握って喋っている人はいない感じ・・。摂津のケーブルTVかなんかだそうで、摂津方面の方、マイク握って写っている私を見たら、見逃してください。昨日、絶食、今日、お粥食べてきた、とは思えぬ喋りっぷりだと思います・・・・・。

 写真、左側はBro.taisuke Mass Choir。右側は2クワイヤ+全員出演のフィナーレ、左側が市岡裕子さん、右端の赤いスーツがBro.taiskeさん。
 

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2007年6月10日 (日曜日)

聖書の花・讃美歌

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 六月にやろうと思っていたことができなくて、少しがっかりしている。まあ、今はそういう時期ではないんだろう。
 来週、再来週と出張が続く。慌しさの中に紛れ込みたくない思いがある。

 午前中、礼拝。
 わたしは礼拝の音楽は言葉よりももっぱらメロディラインのうるわしさに引かれるほうなので、どちらかというと聖歌より讃美歌のほうがメロディラインが豊かなので好きである。こんなわたしなので、あまり讃美歌の歌詞でぐっときた経験というのはないのだが、人によっては、讃美歌の言葉で救われたという人もいるようだ。
 しかし今日歌った『讃美歌21』の390番の3番(3節)の歌詞はなんかぐっときた。歌詞だけ読んでも、ふーんと思われるかも知れないけども。
 
 憎みあらそい われらを裂き
 人はあざけり ののしるとも
 神はわれらの 叫びをきき
 なみだにかえて 歌をたまわん

 もちろんこの歌、メロディラインもいいわけで、ちょっと翳りのある抑制のきいた曲が、じわーと沁みます。

 特にもめごととか大きな問題があったわけではないのだけど、どうも最近、妙な疎外感を感じることが多い。ごくごくありきたりのどうということのない局面で、ふとなにかぽっかり自分の意識だけが浮いているというか・・。とりたててそれで困るとか腹が立つとかそういうこともないのだけど。
 390番の歌詞のように「憎みあらそい」なんてことはまるっきりないけれど、きりきりとした疎外感を感じている心がふわっと捕らえられた気がする。

 写真は、旧約聖書に出てくる花だそうで、イスラエルから持ってこられて教会の庭に植えられているもの。牧師先生(奥さんの方)から名前を教えてもらったのだけど、忘れた・・(-"-)。この写真ではわからないけど、花びらの周りにふぉんふぉんと白い髭のようなものが放射状に出ていてなんだか可愛らしい花だった。(次週行ったら、もう少し花をアップで撮ってきます)

 礼拝後、帰ろうとしていたら、牧師先生(トライアスロンやっている御主人の方)が、今日は(自転車で)何分かかりました?と聞かれ「25分」と答えると、にっこり。自転車のタイヤをチェックし、後輪に空気を入れてくださる。
 「後輪は前輪より空気が入っていないと腰を痛めます。こうやって空気を入れているとうれしいんですよ。これで自転車に乗って腰を痛める人がいなくなるって思うと」とほんとに嬉しそう。
 空気が入った後、さようならーと帰ろうとしたら、「ペダルには、もっと足先の方を乗せるように」とのこと。そのほうが負担がかからないそうだ(^^ゞ。

 帰りは雨に降られた。滴るほどびしゃびしゃになったわけではないが、しっかり濡れた。風はなかったので、それでも25分で帰れた。もっとも家に帰って10分もしたら雨は止んで陽が射していた。・・・雨女なんだよなあ。

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2007年5月26日 (土曜日)

祈りの文体?

 祈りの始め、皆、どういう言葉ではじめるかというとプロテスタントの場合、さまざまで(教派、教団によっては定型的なものがあるのかもしれませんが)、ある人は「愛する天のお父様」と呼びかける。またある人は、「愛し奉る御在天の御父」と呼びかける。若い方がジーンズ姿で「愛する天のおとおさまー」というときはほんとにフランクで軽やか。いっぽう、年配の方が、きっちりと姿勢を正し背広姿で「愛し奉る御在天の・・」というと粛然とした感じ。「愛する天のおとおさまー」と「愛し奉る御在天の御父」では内容は一緒でも、ニュアンスというか文体が違う。穂村弘と齋藤茂吉くらい違う。違うからどうってこもないのだけど。私自身はどう祈りを始めるかというと、どっちかというと固い<文体>。「主イエスキリストの御父にして御在天の神様」。もともとあまり決まっていなかったのが、加藤常昭の『祈り』という本を読んで、なんとなくこういう始まりがいいなあと思って最近はこうしている。でももう少しフランクなほうがいいかもしれないとも感じる。
 一方、祈りの終りはどうか、というと、これもさまざま。「愛するイエス様のお名前によって祈ります」という方もあれば、「主イエスキリストの御名を通して祈ります」もある。で、私自身の祈りの終わり方はどうかというと、これがまた固い<文体>。「主イエスキリストの御名を通して(あるいは「御名のもと」に)御前に捧げます」。
 この終わり方をなぜするようになったかは私には記憶がない。気がついたらそう言っていた(^^ゞ。でも最近祈祷会などで他の方の祈りを聞いていたら、こういう風に祈る人はいないことに、はた、と気がついた。
 自分で意図的に選択した記憶がない以上、おそらくどこかで聞くか習うかしたのであって、そもそもどう考えても、自分が編み出した<文体>ではない。ごく自然に考えられるのは母教会もしくは母教会で当時の牧師先生からうけた聖書入門講座のときに教わったということである。でも、受洗前、たしかに祈りの意味とか、罪ある人間は神様への仲介者・とりなし役のイエス様を通して祈りは神様に捧げるものなので、かならず、「イエス様を通して」とか「イエス様のお名前によって」みたいなことを祈りの最後につけないといけない、ということは習った記憶があるのだが、あの祈りの終りの言葉まで具体的に習ったかどうか定かではない。いったいどこで習ったかなあ???
 どうも気になりだすと気になってしょうがない。現在、私の周りでは私以外にこういう風に祈りを終わる人はいないし・・。で、思い切って、私に洗礼を授けてくださった、つまり聖書入門講座をしてくださったK牧師先生に質問メールを出した。「主イエスキリストの御名を通して御前に捧げます、という祈りは習いましたでしょうか?」。(習ったかどうかも覚えていないというのもたいへん失礼な話である(~_~;)。)
 返事、「主イエスキリストの・・・捧げます」は、牧師先生自身の祈りと母教会の方の祈りから来ているとのこと。「知らず知らずのうちに身についているものなんですね(^_^)」とのこと。そうかそうかやはり最初の牧師先生や教会の人たちのなかでいつのまにか覚えていたのだ。
 「知らず知らずのうちに身についていた」というのはなんだか嬉しい。今は母教会を離れているのだけど、祈りという基本的なところで母教会の<文体>が身についていると考えると、なにかほっとする。
 もっとも先生はやんわりとそう返事をくださったけど、実際は<習ってた>のを忘れてただけかもしれないという危惧はあるが・・・(^^ゞ
 いずれにせよ、わたしはこの文体は大事にしたいと思う。

 「神に期待する人は祈ります。神に期待しない人は祈りません。(頌栄教会説教メッセージより)」

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2007年5月16日 (水曜日)

なぐさめ

 『生きている時も、死ぬ時も、あなたのただ一つの慰めは、何ですか?』
ハイデルベルグ信仰問答の問いの1番目である。<慰め>というと、日本語の語感としてあまりよろしくない。「なぐさめなんてよしてくれ」とか「そんなのはなぐさめに過ぎない」という感じで、気休めとか、みじめさを哀れんでなぐさめるというような感覚がある。
 加藤常昭の『ハイデルベルグ信仰問答講話』には<慰め>の説明として、なぐさめの語源に、「和む」という言葉がある、ということから書きおこしてある。苦しみや辛さでかじかんだ心、皺ばんだ心の皺が、伸びて、平和がある状態が「和む」、慰めがある、ということである、と。

 語源はともかく、たしかに和む・・・<慰め>というのはあるのである。
 和まない状態、苦しみや問題がある状態というのも、在るのも事実である。
 そして人間から苦しみや問題が奇跡的に取り去られることは、ない。(あったとしてもそれは例外的なこと)
 むしろ苦しみや問題が取り去られるのではなく、それらを通じてこそ、人は導かれる。(これはフランクルの説でもある。)

 そのなかにおいて、やはり<慰め>というのはあるんだと思う。生きている時も死ぬ時もただ一つの慰めが。苦しみや問題のただなかにおいてもやはり人は慰められるのである。
 『生きている時も、死ぬ時も、あなたのただ一つの慰めは、何ですか?』
 この問いそのものが深い慰めでもある。 

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2007年4月15日 (日曜日)

自転車通礼拝

 ここ数年、運動らしい運動をしていない私。今日は2月から通い出した教会へ自転車で行ってみた。(通常は地下鉄・阪急乗り継ぎ)
 今行っている教会の牧師さんというのが変わっていて(^^ゞ、マラソン(それも42.195キロより、もっとたくさん走るウルトラマラソン(@_@))やら、鉄人レース・トライアスロンとかやる方なのである。もともと体育会系の方かというとぜんぜんそうではなく、先天性の腎臓病で、体育の時間はいつも見学、という子供時代を過ごし、49歳のときに思うところがあって、走り出した(最初は「歩き」出した)、そうだ。以来8年間走り続けておられるらしい。
 マラソンやトライアスロンのレースには背中に十字架のついたTシャツをきて、つまり「十字架を背負って走る」そうだ。そういうノリには正直私は多少引いてしまうところもある。反面、自分の中の信仰とか教会、あるいは牧師像への固定観念みたいなものを揺さぶられるような面もある。
 私が今の教会に通い出して数回目のこと、その牧師先生が「吉浦さん、吉浦さんの家からなら、神崎川沿いの土手を走れば自転車で25分でここまでこれます」と声をかけてくださった。わざわざロードマップまでみせてコースを説明してくださる。なんと、私の住所を頼りに実際に教会から私の家まで自転車で走って、「一番安全で早いコース」を検討されたそうだ。さすが、鉄人レース牧師・・・けっこう面食らってしまった。でもなあ、片道25分、往復50分というのは正直言って私は億劫・・・。たいした距離ではないかもしれないけど、ここんところ体調不良で、体力が著しく衰えている私にはハードそう。そもそも私は礼拝にきてるのであって、運動しにきているのではないよー(T_T)という気持ちも。(ちなみに牧師先生はわたしだけでなく他の新来会の方の通礼拝コースもきちんと確認されているそうだ(~_~))
 しかし「お言葉ですから」(いちおう、ルカ5.5のペテロの真似(^^ゞ)ってことで、天候にも恵まれた今日、初走行。
 実際、自転車で走ってみると、たしかに気持ちはよかった。朝の神崎川沿いの道は、暑くもなく寒くもなく、風が心地よい。土手沿いの道には、ジョギングの人、魚釣りの人、サックスの練習をする人、詩吟を唸っている人、愛犬の写真撮影会などなど・・・世間の人は休日の朝早くからなかなか活動的なんだなあ、と改めて知った。
 そもそも教会のある上新庄という町は、わたしの場合、会社近辺(門真)でお酒を飲んで終電に間に合わなかったとき、タクシーで帰ってくるとき通るところ、という印象があった(めっちゃ不健康・・)。その上新庄に向かって、今日は健康的に自転車漕いでいる自分が信じられなかった・・・というと大袈裟だけど。
 もっとも自転車漕いでいるときは気持ちがよいのだが、自転車から降りると普段は使っていない足の筋肉の疲労が露わで、膝がほよほよ~となってよろめく情けない状態。しかしそれでもまあ、どうにか教会までの往復を無事完走。先生は、片道25分と言われたけど、往復とも少しずつ道を間違えて、行き35分、帰り30分かかってしまった。
 帰宅後、はじめての自転車<通礼拝>で、しかも行きの道を間違えたと聞いて心配していただいていると思われる牧師先生に無事30分で帰宅しましたと連絡を入れた。先生曰く「よかったです。今度はちゃんと道を詳しくお伝えしますんで、あと5分、時間を短縮しましょう」とのこと。・・・なんかレースっぽいな(^^ゞ。だんだんと目標タイムが短縮されたりしないだろうか。
 そういう不安?はさておき、たかが1時間程度の自転車走行とはいえ、なかなか達成感があった。ただし明日以降、間違いなく筋肉痛になりそう。
 「礼拝に行ったために、筋肉痛になりました」
という信徒はなかなかいないと思う(*^_^*)。

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2007年4月 8日 (日曜日)

祈りのノート

 復活祭おめでとうございます。
 先週なんてみぞれの降る日もあったくらい寒かったのに、今日は、絵に描いたような春爛漫のおだやかな明るい天候。
 午前中は、復活祭礼拝へ。礼拝堂に見かけない白人の若い男性が来ていた。聖餐も受けておられたから、クリスチャンらしい。
 礼拝後、その男性が教会の人と話をしている横を通りぬけるとき、彼がカリフォルニアから来たということを英語で話してて、私は思わず、「カリフォルニアなら一年前わたし行きました!」って(一応英語で)応答したら、どうもわたしは英語が話せそうな人ということでその後の祝会では彼の横の席に座ることに。
 彼は、24歳。茨木で英語の先生をしているそうだ。日本にはまだ半年しかいないし、アメリカで特に日本語を勉強していたわけでもないのに、実はけっこう日本語も達者だった。苦労して私は英語でしゃべっていたのに他の人の日本語での呼びかけに「日本食は好きやねんけど」とか、大阪弁で応答していた(*_*;なんじゃ~い。
 アメリカの教会は1000人くらい礼拝に集まる。大きいところは一万人。でも讃美歌は日本といっしょの曲。そんなことを話した。いまは一人暮らしで寂しいそうで、教会を見つけてほんとに嬉しかったそうだ。来月には彼女が来阪するとか。彼女といっしょに教会にこれたらいいね。
***
 「祈りのノート」・・・と書くと聞こえがいいけど、実際は雑記帳というかメモ書きみたいなもの。祈りのテーマとか、心配事、聖句などが乱雑に書き散らされている。日記というのでもない。経済的なことをどうにかしたいと思っていた時期はほとんどお金の出入りのメモばかりで、金銭出納帳になっている(^^ゞ
 そのノートを一冊ほぼ使い終えた。今朝、「一年前くらいからこれ使っていたよなあ」と改めて最初のページを見たら、去年の復活祭(4/16)から書き始めていた。ちょうど一年かとちょっとびっくりした。初めの日を覚えていないというのはさほど大きな思いや決意をもって書き出したわけではなかったのだろう。でもそういうことも含めて感慨深い。
 去年の復活祭は母教会で迎えた。当時、その後の一年に、怒涛のような教会生活の変遷が起こるとは想像もしていなかった。ちなみに一年前の復活祭の日のブログの記事はこんなん。のどかですな(^^ゞ
 あれっと思ったのはその次の記事。去年の四月に高熱出していたとは知らなかった。一年たつと、すっかりいろんなことが記憶から欠落していくものだ。(歳のせい?(-_-;))
 一年前、「これからどうなるのかわからない。風邪からだけでなく私の中で回復していくべきものがあれば時間をかけて回復していくのだろう。」と書いているが、たしかに一年かけて回復してきたものはあったと思うし、新たに生まれてきたものもあったと思う。
 礼拝の帰り、スーパーの文具店で新しいノートを買ってきた。「祈りのノート」とするために。結局、今までのと全く同じものにしてしまった。どんなになぐり書きの言葉であっても、それを見つめ受け止められる方が傍らにある、そう思う。

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2007年4月 7日 (土曜日)

明日は復活祭

 明日は復活祭(イースター)。

すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」といわれたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。
  マタイ28.9

 イエス様の復活を描いた場面は福音書によってもいろいろとあり、個人的にはヨハネの福音書のマグダラのマリアに現れる場面とか、ルカによる福音書のエオマへの道で現れる場面が好きである。
 そういえば、わたしが洗礼をさずかった母教会の当時の牧師先生は、イエス様が「おはよう」と挨拶をするこの場面が好きだとおっしゃっていた。復活というキリスト教の教理の根本に関わる場面で、さてどのような高邁な真理が語られるか、劇的な状況が描かれるかと思いきや、ただの「おはよう」。ただごく普通の挨拶を、なんてこともないようにすずしげにイエス様が言っちゃう、この拍子抜けするような普通な感じが良い、と(^^ゞ。
 そう、復活の主はごく普通に、わたしたちの生活、日常のなかに立っておられる。

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2007年1月29日 (月曜日)

祈り

 病床日記?のように日々、薬がどうの頭痛がどうのと書いていたら、いろんな方から御心配いただき恐縮です。どうもありがとうございます。
 頭痛がはじまったのが先月の26日夜。一番ひどかった28日未明から1月4日くらいをはさみ、はや一ヶ月を越す不調。しかし徐々に回復してきております。今日の午前中なんてひさびさに体が軽かったです。(逆に、つまりこの一ヶ月は、ものすごーく重かったということ・・・)夜になったら、さすがに後頭部が重かったですけど、少し前までの頭重感よりあきらかに軽癒しております。あと一息だ!明日は朝、病院にMRIの予約に行く予定。

 帰りの電車で加藤常昭の『黙想と祈りの手引き』という本を読んだ。この本は実は数ヶ月前に読んだことがあって、ふと思い立って再読しているところ。その前回読んだときは、はっきりいって、まったくおもしろくなかった(^^ゞ。いちおう、完読はしたのだけど。。さらに以前、同じ著者によるハイデルベルク信仰問答の解説本を読んだときも、なんだかおもしろくなくて、数行読むと眠くなる感じで、途中で投げ出してしまったので、この著者の本って退屈なんだ~と思っていた。(この著者はきっと日本でもかなりエラい有名な牧師先生だと思うのでこんなこと書くなんて実は相当に不遜かも・・・)
 しかしどうしたんだか、今回は、とてもおもしろい。特に後半の「祈り」の部分なんて、心に沁みるような感じ。いったい前回は何をどう読んでいたのか?!
 <祈り>の基本は神様と個人との個別の交わりであると思うし、<祈り>の文言なんて、そのときそのときの心からわいてくるものだとも思う。だから、<祈り>の言葉が、書物に印刷されて活字となっているのを読むのは少し違和感がある。しかし、その違和感を越えて、<祈り>の言葉が心に沁みこんでくるというのはどうしたわけだろうか?
 詩編86に導かれた祈り「主なる神よ、今私はあなたのところに戻ってきました。迷いに迷い、曲がりくねった道を走り、歩み、よじ登り、踏み外し、疲れ果てて戻ってきました。あなたの道が見えなくなったのです。自分で捨てたのです。・・・・」今日のわたしの心情とかならずしも一致はしないこの祈りの言葉が、心に触れるのはどうしてだろう。今日の私の心ではないと思いつつ、やはり、踏み外し疲れ果てて戻ってきた<わたし>のこの祈りは<私の祈り>でもあると感じられるのはなぜか。

 文語の詩編56編の引用もよかった。
 汝わがあまたたびの流離(さすらひ)をかぞへたまへり
 なんぢの革袋にわが涙をたくわへたまへ
 こは皆なんぢの冊(ふみ)にしるしあるにあらずや

 (本では表記は新かなでしたが一応旧かなに直してみました・・・まちがってるかも(-"-))

 ところで今度ハイデルベルグ信仰問答の解説本読んだらおもしろく感じるだろうか???

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2007年1月13日 (土曜日)

Forever

 病院に行った。今年になって救急外来を含め3度目の通院である(-"-)。
 血圧が通常値に戻っていたので一安心。でも頭痛は続いている。だいぶマシにはなったけど、完全に鎮痛剤が手放せる状態ではない。後頭部に頭重感が常にあり(これはまあ我慢ができる)、たまに右の眼の裏を中心にしたズキズキした痛みがやってくる(これは一時のような激痛ではないが、やはりけっこう痛い)。あと疲労感がひどい。
 なんだか体のことがどうも心配なので、今日は、あれこれ検査をしてもらった。今回の不調に関することだけでなく全体的な検診をしてもらった。すぐに結果が出た心電図、胸部X線、眼底検査などは問題なかった。「動脈硬化も糖尿病もだいじょうぶ!」とのこと。残りの検査結果は数日後。また今月末には脳外科の専門医の診察も受診する予定。
 そうそう怪我をした左手の指はほぼ回復。怪我したときけっこう血が出て、数日は痛かったのだけど、意外にあっけなく治ってしまった(^o^)。

 年末年始の頭痛がひどい頃、激痛の中で、まったく何も考えることができない状態だった。そういうときは困ったときの神頼み的な「この痛みをどうにかしてください!」というワンフレーズの祈りもできなかった。
 ただ、そんななかでも、ここ二週間ばかりはいろいろと信仰について考えた。考えたというより、なんと書いていいのか・・・神様が近くに感じられたというか・・・別に奇跡的な体験をしたというわけでも、ましてや臨死体験みたいなことをしたわけでもないのだが(^^ゞ。

 命のある限り
 恵みと慈しみはいつもわたしを追う。
 主の家にわたしは帰り
 生涯、そこにとどまるであろう。(詩編23.6)
 
 Surely goodness and love will follow me
all the days of life,
and I will dwell in the house of the Load
forever.(Psalm 23.6)
 
 上記の詩編の内容とは直接関係はないけれど、最近つくづく思う。客観的に見たら、恵みと慈しみからほど遠い状態にあるとき、むしろ、主の恵みと慈しみをより強く感じるというパラドックス。
 ところで、御言葉(みことば)に英文をつけているのは最近、英語のBIBLE(New International Version)を買ったので嬉しがって(^^ゞ書いているだけで他意はありません。これまでも新約聖書はコンパクトなバイリンガルタイプのものを持ってはいたのだが・・・と書きつつ、英文を読んで発見!日本語(新共同訳)を読むときわたしは「生涯」という言葉が、いまひとつぴんと来ていなかった。英文を合わせ読むと、ひょっとしたら前半と後半は対になっているのかなあと思う。「命のある限り」、つまり<地上での生を生きている間>も恵みと慈しみがあり、<将来的に主の家(天国)に帰ったあと>は永遠にそこにやすらいで住むのだ、というような・・?。まあ完全に対というわけではなく、この世の生のなかでもHouse of the Load はひとりひとりのなかにあるはず。そういう意味でのforeverなのだろう。

 ところで『鱧と水仙』の原稿がまだできていません。。。。。。うー、明日から出張だというのに(T_T)。

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2006年12月23日 (土曜日)

明日はクリスマス・イブ・休暇三日目

 明日はクリスマス・イブだ。皆さんはどのように過ごされるのでしょうか?
 わたしはこのとっ散らかった部屋でクリスマスを迎えるかと思うと、ひたすら悔い改めたくなります(^^ゞ
 
 以前、ヘンリ・ナウエンについて、「いっぱい友達がいて羨ましい」みたいなことを書いたけど、最近、『心の奥の愛の声』を読み返して、やはり、この人はとても深い孤独や愛情飢餓感からくる絶望を知っている人だと改めて感じた。司祭でありながら神を信じながらも、自分の中の深い闇をたたえた淵にたたずみ苦しんでいた人だ。

 外の世界にたいして自分を閉ざしてこそ、自らの苦しみを契機に自らの心と神の心に入ることができるのだ。(『心の奥の愛の声』神の約束を信じること)

 寂しさは回避せず、沈みこまず、その源を見つけるのが、霊に課せられた課題である。(略)この探索は重要である。おかげで、わたしたちは自分の多少はましなところを見つけられるのだから。孤独の辛さは、心のもっとも深いところにある使命に根ざしていることがある。(『心の奥の愛の声』自分の寂しさの源泉を見つけること)
***
Trans05

いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。   ヨハネ 1.18

 皆様、よきクリスマスを!

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2006年12月 2日 (土曜日)

つまずきの石

 以下、主としてクリスチャン向けに書きます(^^ゞ

 ここのところ、ちょっとムカッときていることがある。クリスチャンだってムカッと来ることはあるのである。私は新米のクリスチャンであるけど、クリスチャンだからといっていつもニコニコ穏やかに敬虔そうな風情であるべきとは限らないと思う。そりゃあ、おだやかであるに越したことはない。自分の性格の欠けを自覚しつつ、直せるところは直したいとは思う。ただ、けっこう眉唾なニコニコや敬虔そうな態度だってあるように思う・・・、というのはあまりよくない書き方かもしれないけど・・。
 そもそも、むしろ穏やかで敬虔そうなクリスチャンがかえって他のクリスチャンのつまずきの石になる場合もある。そのことに私はムカッときているのである。

 まったくもって困るのである。いかにもやんわりおだやかに敬虔そうに「悔い改めが足りない」だの「感謝の心が足りない」だのということを安易に他のクリスチャンに言われるのは。まだ筋の通らないことをがんがん頭ごなしに言われるほうが罪が少ないと思う。
 だいたい「感謝」だの「悔い改め」なんてことは、クリスチャンである以上、誰でももともといろいろと考えているわけで、いくら新米といえどそれらが信仰の基盤に関わることであるのは言われなくともわかっているのである。
 わかったうえで、どうしても悔い改められないことやら感謝できないことというのはあるのである。そしてこういうことは新米クリスチャンかどうかにも限らないことでもあるだろう。信仰歴の長い方でも、やはりどうしても悔い改められないことや感謝できないことがある、ということは身近に知っている。悔い改められないこと、感謝できないこと、あるいは赦せないこと・・・そういうことはその人の心のもっとも弱い部分に関わる場合が多い。また人生のなかの辛い経験や精神の闇の部分に関わっていることが多い。
 そういうことの理解もなく、安易に「感謝が足りない」だの「悔い改めが足りない」だのという人は、相手の人間性の深いところや、心の傷や、相手のそれまでの人生への深い洞察がない。表面的な常識的な見方で言葉を発する傾向がある。でもその言葉を発する本人は自分が浅い常識的な見方、つまり一般論で相手を見ていることの自覚がない。一般論で相手を見ている、ということは、すなわち、結局のところ相手を見ていない、ということである。
 そして、一般論で相手をみながら、善意で「よかれ」と思って相手に対してものを言うとき、そもそも見ていない相手に対して発された言葉であるから、その言葉が相手にとって的を得ていることは少ない。結局、浅い常識的な言葉であることが多い。
 しかし、どんなに浅い常識的な言葉であっても「感謝が足りない」だの「悔い改めが足りない」という言葉は、クリスチャンにとって、重い言葉である。そしてあくまでも善意で言われていて、しかも信仰の先輩の言葉であればその言葉はさらに重みを持つ。ただの知り合いの善意のおじさんおばさんの言葉なら、聞き流せることが、むしろつまずきの石となる。
 その言葉を発した人は神でもなければ、牧師でもない。さらに言えば、その言葉は、本当に祈り神に問うたうえで発された言葉でもない。ただの「人間の言葉」である。つまずきの石となった言葉が「ただの人間の言葉」であった、というところに思い至るまで、言われた人間はどれほど傷つき迷わないといけないか。
 よーーーーーーく、考えてもらいたいものである。

 ・・・ということを上記に書いたので、一応すっきりしました。したがって、今後は、上記のような善意のおじさんおばさんにムカッとするようなことは、止めます。(上の文章はかなり怒っていて、読み返すとたしかに私は悔い改めが足りんなあ、という気になりますが(^^ゞ。。。。)

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2006年9月17日 (日曜日)

Noblog「5つの質問」への回答

 神奈川県の牧師さんのブログの5つの質問 「敬老の日を迎えて」に回答します。
 以前、「歌人への5つの質問」ってやっていたのはこの先生のコーナーのパクリでした(^^ゞ
 で、以下の質問に回答します。

 1.お年寄りって、何歳から?
   70歳くらいでしょうか?(なんとなく昔は還暦=60歳
   からかなあと思っていたけど、自分が年取ったせい
   か、60歳が若く見える今日この頃・・・)
 2.年をとっていったとき、一番つらいのはどんなことだと思う?
   究極の孤独感みたいなものを感じるのではないか
   というのが想像しているだけですが辛そうです。
   (<エリナーリグビー>に出てくる老人のよう
   な??)
 3.年をとって、言われてうれしい言葉はなんだろう?
   「かわいいおばあちゃん」とかよく言うけどわたし
   なぞは、若いもんから「きやーカワイイ」なんて
   絶対に言われたくない頑固なへそまがりババア
   になって、
   「あんたもぜんぜん変らんなあ、
    いつまでも頑固で」
   と言われたい。
 4.長寿、老人などに関することわざをひとつ
   亀の甲より年の功
 5.あなたはどんなおじいちゃん、おばあちゃんになりたい?
   3.にも書きましたが、憎まれっ子世にはばかる
   を地で行くようなうるさい婆さんになりたいです。

 ところでこの牧師先生のブログはずいぶん前からちょくちょく読んでいたのだけど、最近読んでいなかった。なぜかというと、ちょっと前に読んだこの牧師のプロフィールのところに
「日本でクリスチャンと言えば1%未満という珍しい存在です。しかも、牧師となると、全国に1万人いるかいないか、と言われます。さらに、その中でも30代前半というのは、さほど多くないでしょう。そして、牧師の中でも、いわゆる優秀なリーダータイプとなると……」ときて
「私がいかにめずらしい存在であるかわかるでしょう」
と書いてあり、「え!?この人は、堂々と自分を<優秀なリーダータイプ>の牧師と考えているの!?こんな自信満々の牧師さんだったんだぁ」と思って鼻白んだからなのです。
 でも最近、たまたま「あの嫌味なプロフィールをもう一回読もう(←なんじゃ(^^ゞ)」と思い、よくよく読み返したら・・・、「牧師の中でも、いわゆる優秀なリーダータイプでないとなると……」でありました。そ、そうよね・・・いくらなんでも、「俺は優秀だ」ってブログに堂々書くような牧師さんはおらんよなあ(^^ゞ
 勘違いしてた罪滅ぼしの意味でも回答させていただきました

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2005年10月16日 (日曜日)

サタン

 なんだか体がダルい。ここのところずっとダルいのである。このダルいところにもってきて、仕事から帰ってきて勢いでビールを飲んだりすると、ストレスは発散できるのであるが、結局のところ、さらに体によくないような気がする。
 で、体調面とダイエットと節約の観点から、「家での晩酌はいっさいしない」と決めた。これまでも一日1本までとか、週にどれくらいとか、休肝日を作るとかあれこれ考えたが、うまく守れなくてかえってそのことがストレスになったりした。で、そもそも中途半端に飲んだり飲まなかったりするのも煩雑なので、すっぱり、基本は家では飲まない、ということにしようと思う。(外でたまに楽しく飲むのは飲みますが(^^ゞ)

 礼拝ののち、拡大求道者会。ある60代の女性の波乱の人生と神様とのかかわりの話を聞く。その波乱の人生もショッキングであったが(ま、短歌関係者にもかなり波乱万丈な人生を送っている人がいるので、その方の人生そのものにものすごくびっくりした、ということではなかったが、神様とのかかわりという点で味わい深い話だった)言葉として印象に残ったのが
サタンって魅力的なんですよね
ということ。
 その人は若い頃、まったく神を信じない唯物論者の知人をみて「ああこれがサタンだ」と最初に感じたらしい。しかしその唯物論者の知人は、勉強家で知識もあって、とてもその論を打破することはできなくて、むしろ魅力的な人だったのでどんどん引かれていったという話だった。その人は結局その「サタン」から後年手痛い経験をすることになったのであるが・・。その話をきいて、わたしもサタンってのはそんなもんだろうな、としみじみと思ったのであった。(唯物論者や無神論者が「サタン」というわけではありません、この人にとってたまたまその知人は「サタン」であったということです)
 サタンというのは、キリスト教に関係のない人にはわかりにくい概念だと思う。絵本に出てくるような尻尾がはえてヤリもっているイメージ(^o^)とか、魔王のような?感じをもたれるだろうか。
 実際のところ、私もよくはわかっていないのだけど、基本的に、人間を神から引き離す誘惑を行う者、と理解している。たとえばイブに禁断の実を食べるようにそそのかしたヘビもサタンだったという話である。このヘビのように直接的に危害を加えはしないけど、サタンは言葉巧みに人間を悪の方向に仕向ける働きをするらしい。
 基本的にサタンはむしろサタンらしい様子や態度はまったく見せず人間に近づいてくる。魅力的であり、むしろ正義のふるまい、善人のたたずまいで近づいてくる。なにも直接に神とか信仰に関わることに介入してくるのではなく、日常生活のいろんな局面でサタンはささやきかけてくるらしい。たとえば、人から家族や大事な人を思う心を失わせるために、野心を燃え立たせるような「すばらしい仕事」やら「地位」を与えようとする働きも、ある場合は「サタン」の仕業ということだってあるだろう。本人は、ビッグチャンスと思って(もちろん最初は家族や大事な人を喜ばせようとも思って)全力で仕事に邁進しているうちに、ほんとに大事なことを見失っていく