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<瞬間の王>

また『詩のことば』から引用する。

 一編の、目に見える詩のなかですべてを表現するのは無理なことである。その詩の前にあるもの、その詩が書き出される以前にあるものを利用する。呼吸をそこからも、もらいうける。そうすれば詩は、広い場所で、つくられることになる。

 これは<瞬間の王>としてある時期、圧倒的な支持を得、あるとき突然、詩から遠ざかった谷川雁について書かれているが、ひろく詩というもの、言葉というものについて示唆的である。
 <瞬間の王>は、目に見える詩のなかですべてを表現しようとした。よく練られたイメージと華麗な比喩。そこには人々を興奮させるものがあった。しかしそれは少し詩とは違うものだったのだろう。

不信の極み

 ゆうべは結局、4時間かかってCD-ROM研修の課題を仕上げる。PCでテスト問題を解くのが課題なのだが、80%以上正解しないと合格にならない。結局3回つづけて不合格で、4回目で合格。一回のテストの所要時間が1時間(T_T)。毎回毎回ちゃんとテスト問題が違うというのが、まったく至れり尽くせりで、しっかり勉強せざるを得なかった。合格した解答内容を暗号化して研修所に送って終了。
 おかげで、「平均の分散の期待値は、母分散のN分の1」とか「規格値の幅をシックスσで割った値から工程能力を見極める」とかいうことがソラで言えるようになった。
 ・・・で、睡眠不足で出社すると、新しい通信教育のテキストと提出課題が送られてきていた・・・、むむむ・・。

 昨日も書いた『詩とことば』。
 そのなかで石原吉郎について書いた文章が沁みる。石原吉郎は、第二次世界大戦で応召、戦後も長くシベリアに抑留されるという過酷な体験をへて帰国。しかし帰国したものの、抑留という過酷な体験をしたにもかかわらず祖国は「シベリア帰りはアカ」という冷たい視線でしか彼をみなかった。やっと帰って来た日本に彼には居場所がなかった。
 そんな彼の詩を紹介しながら、荒川は書く。下記、長いが引用する。

 詩は自由なものである。それが日本語としてどう崩れていようと、乱れたものであろうと、無様であろうと、詩の世界では許される。むしろあわれなもの、さびしいもの、どこにも行き場のないものにこそなさけをかける。そしてそれらを擁護する。抱擁する。それが詩のもつ、あたたかみである。まわりにあるすべてのものが信じられなくなったとき、石原吉郎には詩のことばが見えた。

 擁護とかあたたかみ、という言葉があるが、それが「まわりにあるすべてのものが信じられなくなったとき」という言葉の対極にあることを忘れてはならない。
 不信の極みにたどりつくごくごく私的なことばの世界、それが詩なのである。

 夜、なぜかひさしぶりに息子とお好み焼き屋に行く。「行列ができる法律相談所」の橋本弁護士がうちのすぐ近くに住んでいるとは知らなかった。橋本弁護士の息子さんはうちの子の出身中学に通っているのだとか。・・・などといった他愛のない話などした。

汝、尾をふらざるか

 今朝も、起きしなからどうも頭があやしい・・・と書くと頭がおかしい人みたいだが、目の裏側に鈍い痛みがあってこれが昨日のような激しい頭痛にならないとも限らない・・と不安。そこで、念入りにヨガをやってみた。
 するとあら不思議。首肩背中がすっかり軽くなってしまって、目の裏の不穏な感じも消えて、ここ数日間ではなかったくらいの体の軽さを感じ、すっかり気分も明るくなってしまった。つくづく、ずっーーと背中あたりが重かったんだよなあと改めて感じた。(なんか背中についていたのかね・・^^;)
 しかし気分は明るくとも、なかなかやるべきことは進まず。
 苦戦。
**
 谷川雁『汝、尾をふらざるか』 詩の森文庫(思潮社)
 はずかしながら谷川雁のことはあまり知らない。かなり前に読んだ谷川雁の『北がなければ日本は三角』はとてもおもしろかったと記憶している。辻征夫だったかだれかのエッセイに、すでに詩人をやめていた谷川雁が、炭鉱のあらくれ者たちを従え、ものすごい強面で登場してきているのを読んだ記憶もあるが、そういう風聞も含めて谷川雁という伝説的な詩人は魅力的で、この『汝・・』もかなりバシバシきそうな予感がある。まだ、ほんの最初をチラッと読んだだけだが・・。やることをやらないといけないので当分読めそうにない(TT)
 この最初の部分で、詩人とは何か、という問いに対して、まだ決定的な姿をとらず不確定な根源的勢力を、その出現に先んじて人々に知覚せしめ、これに対処すべき心情の発見者である、と彼は書く。さらに・・
  このような人間が保守的な世界に一票を投ずる可能性があると考えることは二重に
  困難なことである。第一に古くなってしまった力は根源的ではありえない。第二に
  根源的でないものは創造的ではない。
  だから進歩的なものに「尾をふる」者は―詩人ではない、ということも成り立つ。

 汝、尾をふらざるか?

 今年最初に震撼した言葉。

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