翼の歌

夕暮の水よりあがる人体に翼なければあゆみはじめき
                 『廃駅』 小池光

 前回は今年刊行の歌集からの一首だったが、翼つながりで一首。二十年来、翼といえば私にはこの一首。

 プールから、あるいは海から、人が上がった様子だろうか。
「人体」というやけに即物的な、内面や個性を剥ぎ取った言葉に、むしろ人間の内包するもろもろのものが想起される。
 しかしながら、同時にこの「人体」はあくまでもやはり「人体」としてスケッチされている。もろい有機物の塊。水から上がったばかりの無防備な裸体。明るい日差しのなかに誇らしげに立つのではなく、夕暮れの衰えた光の中で生々しいというより、どこか生の希薄さを感じさせる裸体。
 それは弱い光の中にどこか透明感を持った裸体か、あるいは逆光の中に立つ裸体のようにも感じる。

 「翼なければ」・・・当たり前のことだ、人間には翼などない、でも「翼なければ」と、改めて言われると、奇妙な欠落感が生じる。まるで本来あるべきものがないような錯覚に陥る。
 しかし、人間は鳥でも天使でもない、アダムとイブの時代から人間は重力によって地面に縛られて生きている。
 ひととき水の中で浮力により、重力の縛りから放たれたような感覚を得ても、人間は水の中に生きるものでもない。水から上がり、地面を二足歩行していく。20141107_0938011_2
 感傷的に生の悲哀を歌い上げているのではなく、淡々と即物的に描かれているからこそ、一息に人間の存在の本質が立ち上がってくる一首。

 

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孤悲の両翼

あさやけとゆふやけ孤悲の両翼をたたみてterraに添ひ寝をせむや
                      『きなげつの魚』渡辺松男

 あさやけとゆふやけがそれぞれに翼のイメージなのだろうか?それはこの地球の悲しみの翼であろうか?
 でもその翼をたたむのは、<私>のようにも読める。

 そもそも自分ひとりの悲しみなどちっぽけなものである。他人から見たら取るに足らず、ましてやterra(地球or大地)から見たら、ちっぽけもちっぽけ、砂の一粒のようなもの。
 でも私にとって私の悲しみは私を埋め尽くし、その体感容積は時として全宇宙に等しい。
 
 あさやけとゆふやけのうるわしい翼をもっているのはterraであるが、でもわたしもまた、かがやかしくも痛々しい悲しみの翼を負っている。その翼はだれに見えることはなくても、全宇宙に向かって一瞬広げられるのだ。
 (・・・だれに見えることはなくとも、ただおひとり見られる方がおられる、私はキリスト者であるからそう考がえるが・・・)

 そして、そのただ一瞬広げた翼を私たちはたたんで、ごろりと横になるのだ。
 そして、うつらうつら、大いなる大地に添い寝をする、悲しみの翼などなかったように。
 いたってのんきに、いまだ地上に残る淡い光を感じながら。

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ごあいさつ

 相変わらずのご無沙汰です。
 年頭のあいさつから、はや10か月が過ぎました。
 少し復活しかけた短歌も、ふたたび欠詠状態であります。(あ、『短歌人』の会費も払わないと・・(-_-;))

 ここのところ、少し心境の変化があり、ブログを再開しようかと思っています。
 (一時期、「黙想編」をメインのブログにしていましたが、やはりこちらに統一するつもりです。
 それも心境の変化です。何となく自分の軸足というものを考えていくと、こっちかなと)
 短歌も再開したい。。。。
 ただ、その気持ち通りに事が進むかどうかはわたしにもわかりません。
 
 ここでご挨拶を書いて、また数カ月放り出すということも十分あり得ますが(^^ゞ
ひとまず書いておきたいことは、自分は「ことば」と共にある、ということです。
 それは聖書のみことばであり、文学の言葉でもあります。
 両者は明確に違うとも言えるし、緩やかにつながっているともいえます。

 そんな「ことば」と向き合っていきたい、人生の終わりまで、
という思いを改めて思っている今日この頃です。(別に死期が迫っているわけではありません、念のため(*^_^*))

 とはいえ、忙しい毎日です。現在は、教会で伝道者として働いています。
 会社員のときとはまったく違った意味での「忙しさ」があります。
 特にこの四月から青天の霹靂、なにがどうなってんのよ!?状態で突然、主任担任教師となり、まだ新米ゆえ、余裕がありません。
(ベテランになったからといって余裕ができそうな仕事とも思えませんが)
 11月ともなればアドベント、クリスマスとさらに怒涛の毎日となるでしょう。
 でもそのような日々に、なお、「言葉」にしがみついていく、そんなとっかかりのような
ブログになればと思っています。そういう意味でわたしの独り言、忘備録以上のものではありません。
 まあそれはこれまでも同様でしたが。。。。

 あ、ところで、最近、うさぎを飼っています。
 ルツちゃん。(旧約聖書のルツ記から名前をとっています)
 ネザーランドドワーフ もうすぐ7か月の女の子です。
 こちらもよろしく~
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感応

 ここ数日、ひさしぶりに森岡貞香を少し読んでいる。

 ざらめ雪の汚れのひかりまぶしきに凍みの冷たさ連れ添ひたりき
  雪ののち光れる水を踏みてこし人にしあれば時間を問ひぬ
  濃く赤き林檎を擁し立つ人の視線 愛と死と近似せる
  まのあたりいちやう黄葉の散りかたの一気なるとき飛び込む雀ご

 木や鳥や雪といったものが、ある種普通にのべられている。一見、華々しい表現ではない。でも、どこか生々しく、立ち上がってくる世界がある。森岡作品を読むとき、自分が逆に世界から普段切り離されていることを感じる。職場で、また家族といて、感情が揺り動かされ、肉体は疲れ、それなりに現実的な生の感覚はあるはずなのに、森岡貞香の短歌を読むとき、なぜか自分が世界と感応していなかったという感覚を持つ。
 世界とは、もっと濃密なもので、言葉によって感応していかないといけないものなのだ。

 (こちらのブログも更新しました)

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そらまめ

  スーパーで最近、お買い得で山盛りそら豆が売られていて、よく買う。これをオーブントースターに放り込んで、さやごと焼いて、あつあつを剥いて食べると美味しい。茹でるより簡単でほっこりした味。
 ビールと一緒だと、なお美味しい。
 美味しいが飲みすぎ注意。アイドルタレントの飲酒騒動、飲べえのわたしとしては、他人事とは思えず胸を痛めた。が、NHKまでトップニュースで流すことかいな・・と思っているうちに、豚インフルエンザのニュースで、それどころじゃないなあ。。。。

そら豆の殻一せいに鳴る夕べ母につながるわれのソネット
     寺山修司

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哀悼:森岡貞香

 WEBニュースで知った。
 森岡貞香さんが亡くなった。
 尊敬する歌人の一人。
 がっくり。

昨(きそ)ひと夜湯たんぼ抱けば追熟といふべくわれのやはらかにある
  『夏至』森岡貞香

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エリ・エリ

エリ・エリ・ラマサバクタニと呼びしとき空より声のきたることなし
 高安国世

 短歌を始めた頃、好きだったのが高安国世。<二人ゐて何にさびしき湖(うみ)の奥にかいつぶり鳴くと言ひいづるはや>という歌などは、有名ではないがけっこう好きで、いまでも、なんとなくこころさみしくなったときにはつぶやいたりしている。(ただし、いま、手元に歌集がなく、引用が正しいかどうか自信なし(T_T))
 エリ・エリ・・・の歌は、呪文のような上句が印象に残っている。当時は、クリスチャンではなかったから、エリ・エリ・・・(「神よ神よ、なぜ私をお見捨てになったのですか?」)が十字架上のイエスが発した言葉と知っても、あ、そう、という感じだった。ただ、生活に困窮し、心身追い詰められていた高安国世の天を仰ぐよりやるかたない絶望感みたいなものは感じられた。それは、言葉の意味からというより、歌自体のひびきとか形からだったように思う。

 いま私は、エリ・エリ・・・という聖書の言葉には当時とはまた全然違う思いがあるのだけど、この歌に対してはひどくなつかしい変らない思いを持つ。

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雨上がり

 『鱧と水仙』が届いた。特集、塚本邦雄と前登志夫は自分にとってなかなか苦しかった。

 それが短歌にとって正しいことかどうかはわからないが、わたしはわたしの痛みは短歌を通してのみ伝えようと改めて思った。

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神楽岡歌会

 22日。京都で神楽岡歌会。春以来の出席。仕事はかなり切羽詰っていたけど、切り上げて京都へ。
 今回の神楽岡歌会、出席10名。ひさびさの京大会館。(神楽岡歌会としては先月も京大会館で行われたそうだが)
 この間の短歌人の夏の会もそうだが、短歌の会に出席することがこんなに嬉しいということは数年前までなかった。
 大阪までの帰路、JR車中の短歌談義?もおもしろかった。

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短歌における「信じ合う力」

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この間の、短歌人夏の会での吉川宏志さんの講演で印象に残ったのは「他者」について吉川さんが語っていたところ。自分とは違う作者の文体というかリズムというかそういうものを通じて「他者」と出あうことを話しておられた。
 あらためて、吉川さんの評論集『風景と実感』を読み返すと、短歌を読むことを通じて<他者と出遭う>とか、<作者と読者が言葉に向き合って、信じ合う力を生み出す>というような言葉に出会う。
 自分自身は、無意識のうちに、短歌の文体やリズムを通じて<他者>を感じていたかもしれないけど、あまり意識はしていなかった。考えてみれば当たり前のような気もするのだけど、でもやはり<他者>という言葉に考え込んでしまった。言葉によって立ち上がってくる<他者>。うーむ、なんとなく胸のあたりがむずむずとする。

 写真は、短歌人夏の会で行った神戸の町。高所恐怖症で閉所恐怖症の私がロープーウェーに乗った。これがまた揺れて・・・死ぬかと思った。いやしかし、その恐怖を乗り越え、ロープーウェーに乗れて、一回り人間が大きくなった気がした!?(二枚目の写真は決死のロープーウェーからの景色)

 淀川教会のニュースブログを更新しました。竹山広の短歌を引用したりしました。少し強引な読みがあるかもしれませんが・・・。よろしければご覧ください。

 

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