霊性ということ
雨の日曜。礼拝は電車で。肌寒くてGジャンを羽織ってちょうどいい。数日前までの猛暑はいずこ。
礼拝、主任牧師は年に一度の休暇中で、小松鉄人レース出場。かわって奥さん(奥さんも資格をもった牧師)が説教。
「T雄牧師(主任牧師)は、今朝7時40分スタートで、第一ラン8キロ、自転車64キロ、第二ラン24キロのデュアルスロンに出場しています。背中に十字架の描かれたTシャツを着て祈りながら走るとのことです」
牧師が日曜にレースに出てるとは何事!?と思う人もあるだろうな。牧師にもいろんなタイプがある。学究肌で神学的な深みをめざす人もいれば、情熱的に教会を立て上げていくタイプもある。いまの主任牧師はちょっと型からはずれた伝道者タイプ。真の霊性に満たされているのであれば、どのタイプであってもやはり牧師先生は牧師先生。
霊性という言葉を出したのは、富岡幸一郎『スピルチュアルの冒険』(講談社現代新書)を読んだから。この本、題名からすると昨今はやりのスピルチュアルモノと思うけど(実際この題はなんだか軽すぎて良くないと思う)内容は、空海、親鸞から内村鑑三、釈超空、鈴木大拙、埴谷雄高、ドフトエフスキー、カールバルトなどなどを例に挙げて、宗教や洋の東西を問わない、霊性=スピルチュアリティを問うもの。
教会でも「霊性」とか「霊的」という言葉はよく聞く。でもどうも「霊」の字が入ったとたん、わたしは胡散臭く感じて、しっくりこないものがあった。また昨今の表層的なスピリチュアルブームで余計イヤな感じもあった。
でも『スピルチュアルの冒険』を読んでようやく腑に落ちたところがある。東洋的な、「気」「気息」、旧約聖書で神が人間に吹き入れた「息」、それらすべてをひっくるめて、宇宙の中の生命の風というべきものが霊性であるということ。
著者は文芸評論家であって、文学的な視点もしっかりしているように感じられ信頼できたのもよかった。
詩性と霊性ということについても、とても考えさせられるところがあった。自分にとってとても大きな一冊だったかもしれない。
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