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さくさくに

 今日明日は家でゆっくり過ごす予定。ひとまず『鱧と水仙』のエッセイと短歌を書いた。エッセイは、ほぼこれで送るつもりで、短歌は数日寝かせてから数を絞って推敲予定。いつも締め切りに遅れて迷惑をおかけしているので今回こそは急いで、というのもあるけど、テーマがテーマだけに一気に書き上げないとダメのようにも思う。そうこうしているうちに短歌人の締め切り・・。

 信仰上の(でもたぶん本質ではない)ことを書きたいのだけど、どう書いていいのかよくわからない。
 私自身、締め切り遅れたり、とんでもなく人に迷惑かけているわけで、無茶苦茶な人間である。わたしほどでないにしても、だれにだって多かれ少なかれ欠点やら心がけのよろしくないところがある。
 ただ、そういう人間的な欠けの問題としてだけ捉えていいのかどうかわからないことがある。ひとつには、あまりに教会内の政治的なことに意識を向けすぎる人。もうひとつには、自己努力型信仰(つまり態度論)の人。こういう人に対してはその人の信仰の本質がどうなのか?という思いが往々にして湧く。
 前者に対しては、本人がそういうことに関心があるのなら本人だけで勝手にやってくれたらいいのだけど、往々にしてこういう人は人を巻き込む。会社や一般社会なら当たり前のことだけど、信仰上の集まりでそれをやるのはなぜだろうか?日本のプロテスタントの場合、教会や教団はお金もってないので組織内で<出世>しても旨味はないわけで(^^ゞ、にもかかわらず、政治好きというのは、よくよくそういうことが好きなんだろう。でもそういうことばかりに目が行っている人は、話をしていると、どことなく屈折していて、人の批判を多く言うし、なにより本人が救われていないなあと感じることが多い。
 後者のタイプの人には、以前、「あなたは悔い改めや感謝が足りない」と言われたけど(まあそれはまさにその通り!!なんだけど(^^ゞ )こういう人は自分の信仰に自信を持っている。努力もされているようだ。しかしそういう人はだいたい<自己努力型>、<心がけによる信仰>であることが多い。心がけや態度は確かに大事だけど(特に私などは)、このタイプの人の場合、まずもって、<神との関係性において>、神から罪を指し示され、悔い改める、という点が欠落していることがある。こういっては申し訳ないのだけど、こういうタイプの人はおそらくもっとも(その人にとって)重要な罪に鈍感だったりすることがある。もちろん、もっとも重要な罪に気がつかないのは、だれでもそうなのである。神様との関係において、自己努力では気づかない罪の深さとそれに対する救いを知ることが一番大事と思うのだけど、自己努力の人は自分の努力ですでに充足している。自分は日々100%悔い改めていると胸をはる。確かに日々の悔い改めは自己努力・自己判断で行うものだけど、それだけで充足してそれ以上を求めないのは不幸だ。充足したとき、神様との関係は実際のところ希薄になるのだろうと思う。

 この両者のタイプいずれからも、けっこうわたしは意識的無意識的に揺さぶりをかけられたように感じる。揺さぶられる私も揺さぶるほうも信仰的に不幸である。
 ただ、神様はときに厳しい方ではあるけど、わたし自身に非があったとしても、けっしてわたしを暗い方向、否定的な方向へ向かわせるようなお方ではない。だから揺さぶりがあったとして、一時的にはどうであれ、のちのちまで、なにか暗い思いや自分が否定されたような感じを持つようなときは、神様からきたものではない、と判断してとりあえず切り捨てていいのではないかと思う。もちろんその判断が間違っていたら、すみやかに違う形で気づかせられるだろう。

 わたしはあなたたちを造った。
 わたしが担い、背負い、救い出す。
   イザヤ46.4
I have made you and I will carry you;
I will sustain you and I will rescue you.
Isaiah 46.4


*************
かぎろひのゆふつみ茄子(なすび)さくさくに菜刀もちて切るがすずしさ
  長塚節
  菜刀はながたなと読むのであろう。包丁の方言らしい。茄子を切ったというだけの歌だけど、さくさくとした感じがいかにも、いい。

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「短歌」カテゴリの記事

コメント

mixiをはじめたとき、こちらのココログを短歌とか雑談にして、mixiの日記を信仰関係の内容に分離しようかとも思ったんですけど(ハンドル名もまったく新しいものにして)、まあ到底ふたつは続かないと予想されたんで(^^ゞやめました。
いずれにせよ、信仰的なことは書きにくいです。このブログは、信仰とは関係のない職場の人も短歌関係者も読んでいるわけですが、そういうこと以前になにか書き辛さがあります。

お悩みになられたとのこと、お気持ちはよくわかります。わたしがイライラして怒鳴りつけたのも、くだらない争いなんかしている場合かということと、ふたつのタイプ両方に向かって、いったいあんたたちは神さまより偉いと思っているのか、と言いたい怒りを抑えられないからでした。

一般の人がみたら「なんだこりゃ?」でしょうが、あえて書かなければならないこともありますね。

この記事を書くのはけっこう悩みました。非常に悶々としたものがあって。二つのタイプについてはあくまでも特定個人ではなく<タイプ>で書いています。といっても自己努力型のタイプについては、わたしに「悔い改めが足りない」といった御本人が記事を読まれたら<こりゃ自分のことや>、とわかるでしょう。ただその方に関してはむしろわかってくださったほうがいいのです。でもまあおそらくこのブログは読んでおられないと思うので、この記事で直接不快な思いをされる方はおられないと思います。
 一般の方が読んでどうか?というとまあ批判的な内容でありますし愉快ではないでしょうね。でも敢えて書きたい内容だったのです。

「教会内の政治的なことに意識を向けすぎる人」と「自己努力型信仰(つまり態度論)の人」

実はわたしの教会にもそんな対立があります。お恥ずかしい話ですが、そこから牧師が嫌いだとかなんだとかいった話になってしまいます。

先日もそういった政治的なことに意識を向けている人を非難する話を聞かされて、イライラして一瞬怒鳴りつけたのです。

ではわたしはどちらかというと、自己努力型信仰。しかしそれを前面に押し出したり、異なるからといって否定したり批判したりしません。自分を正しいと言うこと自体がおこがましい。正しいのは神さまだけなのですから。

<神様はときに厳しい方ではあるけど、わたし自身に非があったとしても、けっしてわたしを暗い方向、否定的な方向へ向かわせるようなお方ではない。だから揺さぶりがあったとして、一時的にはどうであれ、のちのちまで、なにか暗い思いや自分が否定されたような感じを持つようなときは、神様からきたものではない、と判断してとりあえず切り捨てていいのではないかと思う。>

そう、それでいいのではないでしょうか。それが、神さまが求めておられる一番かつ最大のことでしょう。
神さまは人間の正しさを主張されることを好まれません。正しさは神さまが示して下さいます。

余談ですがわたしのブログ(ミクシィから「日記」に入れば読めます)で気をつけていることは、社会問題でも信仰でも、特定のだれかだとか対象を攻撃しない。レッテル張りをしない。自分を正しいと主張しない。言ってみれば不愉快なことは書かないということです。
でも難しいですね。難しいことは神さまの領域だから、お任せする以外にないのでしょう。

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