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「それについてはいずれまた」

 文学者・・芸術家一般でもいいし、あるいは思想家とか・・・というと大上段ですが(^^ゞ、そういう表現者というのは、「信仰なんかでは救われない魂」があるからこそ新しい表現や深化した表現が可能なのだというような考え方。
 ・・・それは半分真実で、半分そうでない。
 信仰をどう捉えるか、救いをどう考えるかによる。
 世界中どこでもそうだろうが、特に日本には信仰や救いに対して誤解をしている人が多い。救いを、ただなにか平安な安らかな境地にいたることとか、悟りを開くとか、あるいは大きな何かに帰依して思考停止してしまうことと考えるような感覚があるのではないか。
 しかし、むしろ信仰とはあらたな自己との戦いを招くものである。フランクルのいう「苦しみを苦しみぬく」地平にでていくことである。けっして平安でもなければ、思考停止でもない。(関係ないけど、昨日の岡井隆歌集批評会での大方の、フランクルのfinisの理解はやや読み違えではなかったかと思う。人間がトリックとしてつくったfinisなど生き抜く力にはなりはしないというのがフランクルの主旨だと思う。『夜と霧』だけではわかりにくいけど、他のフランクルの本を読むとそのあたりはよくわかる。)
 信仰を持つとは、よりドロドロした自己や世界と向き合うことである。清らかな安らかな世界はむしろ消え果るのである。その現実のなかで、心置きなく<苦しめる自由>を人は得ることができるのである。その自由において人ははじめて解放されるのではないか。

 でも、多くの人にとって、・・・特に優秀で創造的な人にとって、信仰とは愚かしいことである。人間や世界の真実から目をそらす行為に見えるだろう。 
 パウロは、当時の先進国であり、文明都市アテネの知識人から冷笑をもって迎えられる。「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」と。たしかにギリシア・ローマには高い文化があったわけで、すばらしい美もあった。でも、それは<いずれまた>という言葉の先についに廃墟に至った美ではなかったのか。もちろんキリスト教文化も人間が作り出したものである以上、永遠ではないのだが。
 しかし、<いずれまた>と人間が言うとき、その先にあるものはなんなのか、私はよくよく考えてみたいと思っている。

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