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祈りの文体?

 祈りの始め、皆、どういう言葉ではじめるかというとプロテスタントの場合、さまざまで(教派、教団によっては定型的なものがあるのかもしれませんが)、ある人は「愛する天のお父様」と呼びかける。またある人は、「愛し奉る御在天の御父」と呼びかける。若い方がジーンズ姿で「愛する天のおとおさまー」というときはほんとにフランクで軽やか。いっぽう、年配の方が、きっちりと姿勢を正し背広姿で「愛し奉る御在天の・・」というと粛然とした感じ。「愛する天のおとおさまー」と「愛し奉る御在天の御父」では内容は一緒でも、ニュアンスというか文体が違う。穂村弘と齋藤茂吉くらい違う。違うからどうってこもないのだけど。私自身はどう祈りを始めるかというと、どっちかというと固い<文体>。「主イエスキリストの御父にして御在天の神様」。もともとあまり決まっていなかったのが、加藤常昭の『祈り』という本を読んで、なんとなくこういう始まりがいいなあと思って最近はこうしている。でももう少しフランクなほうがいいかもしれないとも感じる。
 一方、祈りの終りはどうか、というと、これもさまざま。「愛するイエス様のお名前によって祈ります」という方もあれば、「主イエスキリストの御名を通して祈ります」もある。で、私自身の祈りの終わり方はどうかというと、これがまた固い<文体>。「主イエスキリストの御名を通して(あるいは「御名のもと」に)御前に捧げます」。
 この終わり方をなぜするようになったかは私には記憶がない。気がついたらそう言っていた(^^ゞ。でも最近祈祷会などで他の方の祈りを聞いていたら、こういう風に祈る人はいないことに、はた、と気がついた。
 自分で意図的に選択した記憶がない以上、おそらくどこかで聞くか習うかしたのであって、そもそもどう考えても、自分が編み出した<文体>ではない。ごく自然に考えられるのは母教会もしくは母教会で当時の牧師先生からうけた聖書入門講座のときに教わったということである。でも、受洗前、たしかに祈りの意味とか、罪ある人間は神様への仲介者・とりなし役のイエス様を通して祈りは神様に捧げるものなので、かならず、「イエス様を通して」とか「イエス様のお名前によって」みたいなことを祈りの最後につけないといけない、ということは習った記憶があるのだが、あの祈りの終りの言葉まで具体的に習ったかどうか定かではない。いったいどこで習ったかなあ???
 どうも気になりだすと気になってしょうがない。現在、私の周りでは私以外にこういう風に祈りを終わる人はいないし・・。で、思い切って、私に洗礼を授けてくださった、つまり聖書入門講座をしてくださったK牧師先生に質問メールを出した。「主イエスキリストの御名を通して御前に捧げます、という祈りは習いましたでしょうか?」。(習ったかどうかも覚えていないというのもたいへん失礼な話である(~_~;)。)
 返事、「主イエスキリストの・・・捧げます」は、牧師先生自身の祈りと母教会の方の祈りから来ているとのこと。「知らず知らずのうちに身についているものなんですね(^_^)」とのこと。そうかそうかやはり最初の牧師先生や教会の人たちのなかでいつのまにか覚えていたのだ。
 「知らず知らずのうちに身についていた」というのはなんだか嬉しい。今は母教会を離れているのだけど、祈りという基本的なところで母教会の<文体>が身についていると考えると、なにかほっとする。
 もっとも先生はやんわりとそう返事をくださったけど、実際は<習ってた>のを忘れてただけかもしれないという危惧はあるが・・・(^^ゞ
 いずれにせよ、わたしはこの文体は大事にしたいと思う。

 「神に期待する人は祈ります。神に期待しない人は祈りません。(頌栄教会説教メッセージより)」

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