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シンポジウム・短歌福音主義者

 今日は午後から京都で『今、社会詠とは』シンポジウムに出席するため、普段の大阪市内の教会ではなく、京都復興教会の礼拝に参加。京都山科のとてもよい環境のところにある教会だった。
200702041016000教会の看板。


Fukkoukouji礼拝堂は工事中。


Fukkou礼拝は併設の幼稚園でもたれました。

 






午後から、シンポジウムへ。
 青磁社ホームページ上での社会詠に関する論争を総括するべく、論争の当事者である大辻隆弘、小高賢、吉川宏志各氏が一堂にかいし意見を戦わせたシンポジウム。大辻VS小高の激しいバトルになるかと思いきや、意外に沈黙することが多かった大辻さん。その沈黙は、結局のところ、社会詠というところを越えて、三氏の根本的な短歌観というか、依って立つところの違いに起因したように感じた。
 大辻さんがいっておられた「結局、吉川さんも、<認識の歌>である」という発言は興味深かった。わたしは吉川さんの歌も好きであるけれど、どこか違和感を感じることがあって、それが<認識の歌>という言葉で腑に落ちたところがあった。<認識の歌>はすなわち発見の歌であり、<人の見ていないところを見つけた>というところに立つ短歌というのはある意味姑息、という大辻さんの意見は心情的によくわかる。
 一方、発見によって、あらたに自分自身のなかにもなにかを見つけることができ、世界とのあらたな関係性をつないでいくことができる。詩とはあらたな世界の発見ということから考えれば、発見そのものが詩であると言えなくもない。
 ただ私は、認識を超えたところに立ち上がる、韻律と助詞のまさに本源的な短歌の力によって立ち上がる歌というものに賭ける大辻さんの意見にすごく同調する。自分がそういう歌を作れるかどうかは別であるが、たしかにそれこそ歌の力であるようにおもう。自由詩でなく俳句でもなく、短歌であるがゆえに立ち上がってくる力の起源は<認識>を越えているように思う。
 そう思いつつ、言葉の少ない大辻さんを見ていて、なんかこの人は短歌福音主義者(最初、原理主義者と思ったけど、あんまりにもそれは過激なので訂正)だなあと思った。大辻さんにはずっと短歌の福音の固い岩の上に立つエバンジェリストであってほしい。

 それにしても1,2週間前には、休みの日に京都まで出かけるなんて体力気力はなかった。だいぶと体が回復してきた感じだ。

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コメント

まざぐうすさん

 御心配頂きありがとうございます。
 わたしもがんばって出詠しないと~。。。
 歌会にもぼちぼち出席しようと思っています。

 吉浦さん、体調がよくなられたようで何よりです。短歌の充実した学びをなさいましたね。私は最近、短歌関係の会は全然出ていなくて、段々と短歌が自分から遠のいてゆく感じがしています。こちらのブログで刺激を得て、今月は出詠しなくては!と気持ちを取り直しました。

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