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問われていること

 先日書いた、『それでも人生にイエスと言う』のなかにこういう文章がある。
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 ・・私たちは、生きる意味を問うてはならないのです。人生こそが問いを出し私たちに問いを提起しているからです。私たちは問われている存在なのです。私たちは、人生がたえずそのときそのときに出す問い、「人生の問い」に答えなければならない、答えを出さなければならない存在なのです。生きること自体、問われていることにほかなりません。私たちが生きていることは答えることにほかなりません。
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 私たちが人生に対して問うのではなく、毎日毎時間、<具体的なここと今>のおいて問われることに答えていくことによってその瞬間の(人生の)意味を実現できる、というのは、直感的に非常に納得できることだ。しかしそれがどうして納得ができるのかという説明は私にはできない。なにかここに地中深く埋まっている鉱石のような真理があるように思うのだけど。
 人生に問う、というのはある意味、人間が主体的に人生を生きていく感じがあり、「答える」というのは、反対に受身的でなにか限定的な感じがある。しかし、実際には、問うというのは、人生や世界の中心に自己を置き、自己の範疇で問いを発している状態である。回答を得られる場合もあれば得られない場合もある。いや得られないことがほとんどである。逆に、「問われている者」として自己を認識するとき、人生や世界はふっと軽くなる。


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運命を甘受する眼の清しさにあめを見てゐむこのけだものも
                         小池光
 「運命を甘受する」という感覚と、上記の「人生に問わずに人生からの問いにこたえる」というのは、ニュアンスが違う。
 ニュアンスは違うがこの歌は好きな歌(^o^)/

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