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オリーヴのあぶらの如き悲しみ

 『イエスとはなにか』を読む。笠原茂光(宗教思想史)、佐藤研(聖書学)のふたりが編集し、「人間イエス」を多方面から考察した本。思想面からの検討の章には吉本隆明が、文学からの検討の章には岡井隆が参画している。他に絵画や音楽からの検討の章もあった。
 本全体を流れているのは「キリストではない<人間イエス>」の主張であり、そもそもそれは私にはまったく受け入れられないのだけど、個々のいろんな考察はおもしろかった。ゴッホの絵の自画像のなかに現れるイエスのイメージであるとか、二十世紀最大のプロテスタントの神学者といわれるカール・バルトが「天使はバッハを演奏しない。モーツァルトを演奏する」と書いていた、といったところなどなど。。。。

 私自身が信じるのは<神であり人間であるイエス>であり、イエスの十字架の贖罪と復活であり、<人間イエス>などでは断じてない。笠原茂光という人はかつて牧師であった人だが、「イエスをキリストと祀り上げてしまったキリスト教」から離れた立場で<イエス>を論じていて、わたしにはなじめなかった。しかし、けっして軽々しい論調ではなく、ある意味、宗教性の本質・本源に関わる内容だったとも思う。でもなあ、バッハもゴッホも塚本邦雄もルオーも皆「キリストではない<人間イエス>を求めたんだ」ってな方向に話を強く引っ張るのには、うーむという気がした。まあ塚本邦雄などはたしかにそうなのかもしれないけど。

 この本のなかで岡井隆が短歌の例で出していたのは次の二首。
 売るべきイエスわれにあらねば狐色の毛布にふかく没して眠る                              塚本邦雄『装飾楽句(カデンツア)』
 オリーヴのあぶらの如き悲しみを彼の使徒もつねに持ちてゐたりや
             斉藤茂吉『白き山』
 茂吉の歌で議論になっていたのは、人間イエス云々というより、悲しみの主体が誰か?ということ。岡井隆は、茂吉が戦後、戦犯扱いされたとき、自分の弟子たちや身近な人のなかからも自分を裏切るような人々が出てくる状況の中、その裏切っていく人たちにも、かつてイエスを裏切った使徒たちが感じていたような悲しみがあるのであろうか?(そのような悲しみをもっているのならまだ許せるのだが・・)と茂吉が感じつつ作った歌いうような解釈をしていた。
 一方、悲しんでいるのはイエスで、そのイエスのような悲しみを使徒ももっているのだろうかという解釈をする人もいた。わたしはこの有名な一首について、思えば今まであまりよく考えたことはなくて、なんとなく後者、つまりオリーヴの油のごとき悲しみはやはりイエスのものと感じていた。この歌の時代背景を考えると、岡井説のほうが正しい気がするが・・・いったいどうなんだろうか?歌壇の中の通説みたいなものはどうなっているのだろうか?でもなんとなく「オリーブのあぶらの如き」というとなんとなく、やっぱりイエスって気もするが・・。ユダやペトロって気はしない・・。

 ちなみに、この本のエピローグに河野裕子の若い頃の歌が紹介されていた。本全体のエピローグであり、特に短歌や文学について書かれている部分ではないのだけど・・。
 ナザレ村に青年となりしイエスのこと様ざまに想ひてマタイ伝閉づ
 キリスト教と関係のない人の歌として紹介されているのだけど、これはじんわりと良い歌だなあと思う。

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