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明日から10月

 九月尽。明日から10月と思うと呆然とする。
 あれこれとばたばたとしてて時間がいくらあっても足りない。
 ・・・というのは言い訳で時間があったらあったでダラダラとぐーたらに過ごしてしまうのだ。
 体力と気力をどう支えていくか・・・特に気力を。
 支えきれないもろもろをどう改修していこうか。。。

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わっかんねー

 自分に対して良い感情を持っていない人と接しているとき-その相手が怒っていたり対抗的な雰囲気をあからさまにもっている場合にせよ、表面上おだやかながら、しっくりこないような場合にせよ-たまに、ふっと相手の感情が反転する、あるいは、なにか思いとどまるような瞬間がある。
 あの瞬間は不思議だ。
 わたしが論理的に相手を説得するような言葉を吐いたわけでも、双方の間にあった誤解が解けたわけでもないのに、ある瞬間に、相手が、えっというような表情を一瞬見せて、そのあと、なんだか風向きが変る。それまでどんなにこちらが誠心誠意相手に対して言葉を尽くしたり、論理的にあれこれ説明したり、態度で示してもうまくいかないのに、あれれれっ?て感じで、なにかが氷解するときがあり、ありがたいような気が抜ける気がすることがある。
 実際は、私が気づかないだけで、偶然、その前後の会話の中で、向こうがこちらに対してこだわっていた部分への思いが変るようなやりとりがあったのかもしれないけど、こちらからはこと細かに論理的には説明がつかない。
 今週も、仕事上、ある人と話をしてて、そういうことがあった。
 うれしいことではあるのだが、正直、わっけわかんねーよ(^^ゞって気分であった。
 まあ<わっけわかんない>ところが、人間関係の妙なんだろうなあ。

あ、といふ表情ののちすべらかな毬となりたりあなたのことば

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問われていること

 先日書いた、『それでも人生にイエスと言う』のなかにこういう文章がある。
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 ・・私たちは、生きる意味を問うてはならないのです。人生こそが問いを出し私たちに問いを提起しているからです。私たちは問われている存在なのです。私たちは、人生がたえずそのときそのときに出す問い、「人生の問い」に答えなければならない、答えを出さなければならない存在なのです。生きること自体、問われていることにほかなりません。私たちが生きていることは答えることにほかなりません。
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 私たちが人生に対して問うのではなく、毎日毎時間、<具体的なここと今>のおいて問われることに答えていくことによってその瞬間の(人生の)意味を実現できる、というのは、直感的に非常に納得できることだ。しかしそれがどうして納得ができるのかという説明は私にはできない。なにかここに地中深く埋まっている鉱石のような真理があるように思うのだけど。
 人生に問う、というのはある意味、人間が主体的に人生を生きていく感じがあり、「答える」というのは、反対に受身的でなにか限定的な感じがある。しかし、実際には、問うというのは、人生や世界の中心に自己を置き、自己の範疇で問いを発している状態である。回答を得られる場合もあれば得られない場合もある。いや得られないことがほとんどである。逆に、「問われている者」として自己を認識するとき、人生や世界はふっと軽くなる。


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運命を甘受する眼の清しさにあめを見てゐむこのけだものも
                         小池光
 「運命を甘受する」という感覚と、上記の「人生に問わずに人生からの問いにこたえる」というのは、ニュアンスが違う。
 ニュアンスは違うがこの歌は好きな歌(^o^)/

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『それでも人生にイエスと言う』

 『それでも人生にイエスと言う』という題だけ見ると、いかにもやわらかな(でも人をみくびった)物言いで俗っぽい人生訓を垂れ流すエッセイストの本か、ビジネス系の実用啓蒙書って印象もあるが、この著者が、『夜と霧』のV.E.フランクルとなるとまったく違った感じを持つだろう。
 著者がナチスの強制収容所から開放されて一年後の、1946年の講演をまとめたもの。たいへん平易な文章でわかりやすいといえばわかりやすいのだけど、書かれている内容自体は深いものなので、それほど読みやすいわけではなかった。でもとても良い本だった。
 -こんにちでもまだ、「意味」や「価値」や「尊厳」といった言葉をためらいなしに口にすることができるひとがいるだろうか・・・
 本書はこの問いから入る。60年前の問い。

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結膜炎

 私の日記にはけっこう体調不良の記述が多いのだが、読む人の気分がしけないように、内心は、これでもできる限り、体調の・・それも負の状態の記事は書かないようにしようと思っている。思ってはいる・・・が、
 3週間以上左目の結膜炎が治らないってのは、どーしたわけだろうかっ!?
と書かずにはいられない。
 ちゃんと眼科でもらった目薬も、ずーっとさしているのに(-"-)
 ちなみに職場で私のまん前に座っている同僚も結膜炎である。一ヶ月以上も。
 さいきんの結膜炎は空気感染かなんかで、しかも従来型の目薬に耐性を持った新種の結膜炎菌かなんかが空中を跋扈しておるのであろうか?わが職場では二名だが、実は関西いちえんで結膜炎患者が急増とかいう事態になっているのであろうか?

 関係ないが、関西の人は、ものもらいのことを「目ばちこ」という。「目ばちこ」がどのくらいの地域で使われている言葉かは知らないが、少なくとも<標準語>ではない(通常の国語辞典には載っていない)。でも関西の人のほとんどが「目ばちこ」は標準語と思っているようだ。むかし、子供が保育園に通っていた頃ものもらいになり、病院に連れて行ったら、眼科の先生すら診察したあと、「目ばちこやね~」って言われた。当時「目ばちこ」を知らなかった私は目が点になりました(・・?

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ほっこり気分

 ここ数ヶ月、一時期より出張が減ったのだけど、その分、出張後の疲れが重く感じられる。。。
 前回の出張後のひどい疲れを考慮し、この三連休(といっても土曜日は出張先からの帰宅移動時間含む)は、あれこれやるべきことをセーブしつつ休養モードに徹した。
 そのせいか、今日は少し体調も戻ってほっこり気分。
 ゆうべは10首短歌も作ったし。

むぎばたけのみありふれてひろがれば麦のつかさに近づかむ雲                            小池光『滴滴集』

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Noblog「5つの質問」への回答

 神奈川県の牧師さんのブログの5つの質問 「敬老の日を迎えて」に回答します。
 以前、「歌人への5つの質問」ってやっていたのはこの先生のコーナーのパクリでした(^^ゞ
 で、以下の質問に回答します。

 1.お年寄りって、何歳から?
   70歳くらいでしょうか?(なんとなく昔は還暦=60歳
   からかなあと思っていたけど、自分が年取ったせい
   か、60歳が若く見える今日この頃・・・)
 2.年をとっていったとき、一番つらいのはどんなことだと思う?
   究極の孤独感みたいなものを感じるのではないか
   というのが想像しているだけですが辛そうです。
   (<エリナーリグビー>に出てくる老人のよう
   な??)
 3.年をとって、言われてうれしい言葉はなんだろう?
   「かわいいおばあちゃん」とかよく言うけどわたし
   なぞは、若いもんから「きやーカワイイ」なんて
   絶対に言われたくない頑固なへそまがりババア
   になって、
   「あんたもぜんぜん変らんなあ、
    いつまでも頑固で」
   と言われたい。
 4.長寿、老人などに関することわざをひとつ
   亀の甲より年の功
 5.あなたはどんなおじいちゃん、おばあちゃんになりたい?
   3.にも書きましたが、憎まれっ子世にはばかる
   を地で行くようなうるさい婆さんになりたいです。

 ところでこの牧師先生のブログはずいぶん前からちょくちょく読んでいたのだけど、最近読んでいなかった。なぜかというと、ちょっと前に読んだこの牧師のプロフィールのところに
「日本でクリスチャンと言えば1%未満という珍しい存在です。しかも、牧師となると、全国に1万人いるかいないか、と言われます。さらに、その中でも30代前半というのは、さほど多くないでしょう。そして、牧師の中でも、いわゆる優秀なリーダータイプとなると……」ときて
「私がいかにめずらしい存在であるかわかるでしょう」
と書いてあり、「え!?この人は、堂々と自分を<優秀なリーダータイプ>の牧師と考えているの!?こんな自信満々の牧師さんだったんだぁ」と思って鼻白んだからなのです。
 でも最近、たまたま「あの嫌味なプロフィールをもう一回読もう(←なんじゃ(^^ゞ)」と思い、よくよく読み返したら・・・、「牧師の中でも、いわゆる優秀なリーダータイプでないとなると……」でありました。そ、そうよね・・・いくらなんでも、「俺は優秀だ」ってブログに堂々書くような牧師さんはおらんよなあ(^^ゞ
 勘違いしてた罪滅ぼしの意味でも回答させていただきました

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ぬか床君

 最近、帰宅してまず最初に様子を伺うのは、息子でもなく(バイトや遊びでおらんことが多い(^^ゞ)、ハム(ヨークシャーテリア)でもなく、冷蔵庫の中の、ぬか床。ぬか床といっても、せいぜい細めの茄子が二本漬かる程度の大きさのタッパーぬか床。
 もともと実家でもぬか漬けをつける習慣はなくて、「我が家の秘伝ぬか床」みたいなものがあるわけではない。そもそもぬか漬けは、十年位前一時漬けていたのだが、ちょっと手入れを怠り、ぬか床の状態を悪くしてしまって以来やめてしまった。たぶん当時、料理の本などで、<ぬか漬けは、野菜をぬかに漬けることによって野菜中のビタミンB1がつける前の数倍にもなって健康に良い>というような記述を見て、ものめずらしさ半分、無性に漬けたくなって漬けはじめたような記憶がある。いったん、ぬか床ができたら、あとは素材を放り込むだけで繰り返し漬けられる、というのも魅力。さらにいえば、学生時代は化学専攻だったこともあり、いろんな「モノ」を混ぜたり、発酵させたり、という「モノ」の変化に妙に興味があったので、こういうぬか床こねこね、日々変っていく状況を観察する、というのは実は嫌いではない。
 だいたい普段ろくな食事は作らないくせに、なぜかこういう<妙に手のかかるもの>に突然燃えることがある。梅酒つけたり、梅干漬けたり、とか。
 とはいえ、今回のぬか漬けは、さすがに十年前の失敗があったので、思い立ってはじめたわけではなく、たまたま、しばらく前に「泉州水茄子」のぬか漬けを買ってきたことに始まる。まるまるとした茄子にたっぷりの糠がまぶされた状態で袋に入って売られていた。買ってきて、いざ家で食べようとしたとき、まわりについている糠を洗い流して捨てるのももったいないなあ、という気がしたので、茄子を取り出したあと、ためしに残りの糠にきゅうりを絡めてみた。一日ほどしたら、それなりに漬かっていたので、なんだか気をよくして、その後、その糠に、まずは市販の糠漬けの元を足したり、さらに昆布だの鷹のつめだの足しつつ、徐々にオリジナルぬか床にしていっている。こうやって手を入れだすと、なんだか愛着がわいてくるもので、帰宅すると、まず今日の<ぬか床君>を見るのが楽しみ・・ってな状態になっている。
 ちなみに、現在のぬか床は、ビールとかパンなども床に少量足してあり冷蔵庫で充分漬かるタイプになっている(私が飲むんべえだから、ぬか床にもビール飲ませているわけではなく(^^ゞ、ちゃんと料理の本に載っていた。たぶん発酵が促進されるのだろう)。小腹がすいたときに、手軽にぽりぽりと漬かっている茄子とかきゅうりを食べれるのもうれしい。塩分には注意しないといけないけど、簡単に野菜が摂れるのもうれしい。
 残念なのは、息子はにおいがダメでぬか漬けを受け付けないこと。
 息子に相手にされず、ひとり<ぬか床君>に愛情こめている中年の母・・・。

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徒労のかずをかぞえるな

 おととい、昨日と新横浜出張。今日の午前中帰阪。昼ごろ、ずっーとサボっていた歯医者に行き、午後はなんだか疲れてしまってぐたーとしていた。

 辺見庸の『自分自身への審問』を読み終える。少し前に読んだ『いまここに在ることの恥』と合わせて辺見庸健在というか、それ以上に激しい感じが増した印象を持った。二年前に脳出血で倒れ、その後、癌も発見されて手術をした著者の叩きつけるようなというより呻きのようなメッセージ。
 書中、中村稔の詩「鵜原抄」から<物言うな、/かさねてきた徒労のかずをかぞえるな/肉眼が見わけうるよりもさらに/事物をして分明に在らしめるため>が引用されていた。
 辺見庸自身が、これまで吼え、激しく書き、糾弾してきた世界はあらゆる方向で、さらに辺見庸が望まぬ方向に向かっている。右半身に麻痺の残る状態で、みずからの「徒労のかず」と生と精神のありようについて沈思する文章には、思想信条主義主張を超えて揺さぶられるものがある。
 自分自身はこの妙に明るく崩壊にむかっている国の中で、どれだけ<肉眼がみわけるよりもさらに事物をして分明に在らしめる>ことができるか。

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返送

 礼拝出席。
 本日、大阪のぞみ教会から西野田教会へ正式に転会となる。
 洗礼を授かった母教会である大阪のぞみ教会に深く感謝。。。。
 転会までの導きにも感謝。

*****
 去年、歌人調査票の返送が遅れて掲載されなかった角川の年間から調査票が来ている。今年は遅れずに返送せねば~!!
 

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シンガポールな・・・

 高専生殺人事件で容疑者と思われていた少年が自殺していた、というニュースはとても痛ましい。未成年の殺人・殺人未遂事件が多いこのごろ、その一つ一つの事件が痛ましくはあるのだけど、さらに自殺と聞くと、なにかやりきれない気持ちになる。自殺した少年がほんとに犯人だったとして、その少年の自殺前の心を思うといたたまれない。彼は少女を前にしてなにか闇に捕らわれてしまったのだろうか。そして事件ののち、みずからの身を今度はその闇の底に投げうってしまったのだろうか。

*****
 シンガポールに赴任された以前の上司から転居通知が届く。エアメールで転居通知をもらうのは初めてだ~。いかにもシンガポールな背景(といってもシンガポールに私は行ったことないから、よくわからんが(^^ゞ)での家族写真。・・・それにしても、奥さん、相変わらず超美人だ・・・(@_@)。

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雷雨

 夕方、激しい雷雨。9月の雨は冷たい。薄手のカーディガンの袖が濡れて、両腕がすーっと冷えてきた。夏の夕立とは違う。
 冷えたせいか、少し咳が出てきた。薬局で漢方の<麦門冬湯>を買ってきて飲む。こちらはもう冬。

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オリーヴのあぶらの如き悲しみ

 『イエスとはなにか』を読む。笠原茂光(宗教思想史)、佐藤研(聖書学)のふたりが編集し、「人間イエス」を多方面から考察した本。思想面からの検討の章には吉本隆明が、文学からの検討の章には岡井隆が参画している。他に絵画や音楽からの検討の章もあった。
 本全体を流れているのは「キリストではない<人間イエス>」の主張であり、そもそもそれは私にはまったく受け入れられないのだけど、個々のいろんな考察はおもしろかった。ゴッホの絵の自画像のなかに現れるイエスのイメージであるとか、二十世紀最大のプロテスタントの神学者といわれるカール・バルトが「天使はバッハを演奏しない。モーツァルトを演奏する」と書いていた、といったところなどなど。。。。

 私自身が信じるのは<神であり人間であるイエス>であり、イエスの十字架の贖罪と復活であり、<人間イエス>などでは断じてない。笠原茂光という人はかつて牧師であった人だが、「イエスをキリストと祀り上げてしまったキリスト教」から離れた立場で<イエス>を論じていて、わたしにはなじめなかった。しかし、けっして軽々しい論調ではなく、ある意味、宗教性の本質・本源に関わる内容だったとも思う。でもなあ、バッハもゴッホも塚本邦雄もルオーも皆「キリストではない<人間イエス>を求めたんだ」ってな方向に話を強く引っ張るのには、うーむという気がした。まあ塚本邦雄などはたしかにそうなのかもしれないけど。

 この本のなかで岡井隆が短歌の例で出していたのは次の二首。
 売るべきイエスわれにあらねば狐色の毛布にふかく没して眠る                              塚本邦雄『装飾楽句(カデンツア)』
 オリーヴのあぶらの如き悲しみを彼の使徒もつねに持ちてゐたりや
             斉藤茂吉『白き山』
 茂吉の歌で議論になっていたのは、人間イエス云々というより、悲しみの主体が誰か?ということ。岡井隆は、茂吉が戦後、戦犯扱いされたとき、自分の弟子たちや身近な人のなかからも自分を裏切るような人々が出てくる状況の中、その裏切っていく人たちにも、かつてイエスを裏切った使徒たちが感じていたような悲しみがあるのであろうか?(そのような悲しみをもっているのならまだ許せるのだが・・)と茂吉が感じつつ作った歌いうような解釈をしていた。
 一方、悲しんでいるのはイエスで、そのイエスのような悲しみを使徒ももっているのだろうかという解釈をする人もいた。わたしはこの有名な一首について、思えば今まであまりよく考えたことはなくて、なんとなく後者、つまりオリーヴの油のごとき悲しみはやはりイエスのものと感じていた。この歌の時代背景を考えると、岡井説のほうが正しい気がするが・・・いったいどうなんだろうか?歌壇の中の通説みたいなものはどうなっているのだろうか?でもなんとなく「オリーブのあぶらの如き」というとなんとなく、やっぱりイエスって気もするが・・。ユダやペトロって気はしない・・。

 ちなみに、この本のエピローグに河野裕子の若い頃の歌が紹介されていた。本全体のエピローグであり、特に短歌や文学について書かれている部分ではないのだけど・・。
 ナザレ村に青年となりしイエスのこと様ざまに想ひてマタイ伝閉づ
 キリスト教と関係のない人の歌として紹介されているのだけど、これはじんわりと良い歌だなあと思う。

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