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節制

 朝、私が出勤前、夏休み中の息子はほとんど寝ているのだが、今朝はのそっと起きてきて「腹減った」。
 「そろそろ夏休みが終わるので朝型の生活に変えている」そうだ。ま、けっこうなことではある。
 私のほうはどうも昨日の出張がこたえたのか、一日だるいような眠いような感じ。

 昨日も書いた『宗教改革の真実』。
 活版印刷は宗教改革によって広がった、といった類の話題がこの本には書いてある。印刷された書物(=聖書)という新しいメディアを活用したプロテスタントvs活用しなかったカトリックという構図が見える。カトリック側は、聖書は書写するもの、一般の庶民は直接読むものではないもの、という考えがあったが、結局、各自の意図をプロパガンダする戦術としてはニューメディアを活用したプロテスタントが有利だったようだ。こういうところにニューメディアの力というのがあるというのはおもしろいと思った。
 しかし、そういうはなし以上におもしろいと思ったのは、キリストの遺骨であるとか遺品とかマリア像とかを拝むと病気が治ったり幸せになれる、という類のことを信じる一般庶民のメンタリティ。プロテスタント側はそういうものは聖書に基づく本来のキリスト教の教義とはちがうということで切り捨てていくわけで、それはそれで間違っていないと思う。しかし、おおざっぱな言い方をすると、カトリック側はそういう素朴な心情にはプロテスタントより寛容なところがあったようだ。
 そもそも、どっかの土から現れたマリア像を納めた場所を聖所としてこぞって巡礼する心情というのは、日本のxxをまつった○○神社とか、○○地蔵と変らない。そこには、たいそう素朴な宗教性、ごく純粋な意味での人間の救われたい気持ちとか、なにかにより頼みたい気持ちというのが現れていると思う。ちなみに、ヨーロッパ中の「キリストの遺骨」を集めたらキリスト3000人分になるという数値もあるそうである。
 キリストの遺骨3000人分がヨーロッパ各地の「聖所」にまつられ、巡礼されているというのはある意味笑ってしまう話ではある。しかし、そんな「キリストの遺骨」を拝んで救われたいという数世紀前の人々の気持ちには、逆になにか痛切なものを感じる(拝んでいる人たちはほんものの骨と思っていたのだろうけど)。時代や文化や風習の違いを超えて、共通する人間の思いのまえで厳粛な気持ちにすらなる。

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