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ねがい

 世界が言葉によってまったく新しい風貌をみせてくれること。見慣れた光景にほんの数ミリでも目新しい<罅>を発見すること。そのことによって生活の意味がまったく違うものになること。
 それがねがい。

 夜、送別会。

節制

 朝、私が出勤前、夏休み中の息子はほとんど寝ているのだが、今朝はのそっと起きてきて「腹減った」。
 「そろそろ夏休みが終わるので朝型の生活に変えている」そうだ。ま、けっこうなことではある。
 私のほうはどうも昨日の出張がこたえたのか、一日だるいような眠いような感じ。

 昨日も書いた『宗教改革の真実』。
 活版印刷は宗教改革によって広がった、といった類の話題がこの本には書いてある。印刷された書物(=聖書)という新しいメディアを活用したプロテスタントvs活用しなかったカトリックという構図が見える。カトリック側は、聖書は書写するもの、一般の庶民は直接読むものではないもの、という考えがあったが、結局、各自の意図をプロパガンダする戦術としてはニューメディアを活用したプロテスタントが有利だったようだ。こういうところにニューメディアの力というのがあるというのはおもしろいと思った。
 しかし、そういうはなし以上におもしろいと思ったのは、キリストの遺骨であるとか遺品とかマリア像とかを拝むと病気が治ったり幸せになれる、という類のことを信じる一般庶民のメンタリティ。プロテスタント側はそういうものは聖書に基づく本来のキリスト教の教義とはちがうということで切り捨てていくわけで、それはそれで間違っていないと思う。しかし、おおざっぱな言い方をすると、カトリック側はそういう素朴な心情にはプロテスタントより寛容なところがあったようだ。
 そもそも、どっかの土から現れたマリア像を納めた場所を聖所としてこぞって巡礼する心情というのは、日本のxxをまつった○○神社とか、○○地蔵と変らない。そこには、たいそう素朴な宗教性、ごく純粋な意味での人間の救われたい気持ちとか、なにかにより頼みたい気持ちというのが現れていると思う。ちなみに、ヨーロッパ中の「キリストの遺骨」を集めたらキリスト3000人分になるという数値もあるそうである。
 キリストの遺骨3000人分がヨーロッパ各地の「聖所」にまつられ、巡礼されているというのはある意味笑ってしまう話ではある。しかし、そんな「キリストの遺骨」を拝んで救われたいという数世紀前の人々の気持ちには、逆になにか痛切なものを感じる(拝んでいる人たちはほんものの骨と思っていたのだろうけど)。時代や文化や風習の違いを超えて、共通する人間の思いのまえで厳粛な気持ちにすらなる。

とんかつ

 日帰り横浜出張。
 帰りの新幹線に乗るまえ、30分ほど時間があったので、美味しいと評判と同行の人がいう店でとんかつを食べた。最近、ずっと胃が思い私としては、「うーん、とんかつねぇ」と内心思いつつ、ひれかつ定食を食べたら、評判なだけあって、とてもおいしかった。 
 とんかつはおいしかったが、疲労極大。
 
 『宗教改革の真実』永田諒一。宗教の本というより、社会学的な見地から宗教改革を検討した本。・・といっても難解ではなく内容的には読みやすい。宗教改革に関する雑学本という感じでも読める。ちょっと内容について書きたいこともあるけど疲れたので今度。

なんだか疲れてしまった

 礼拝のあと、梅田に行く予定だったけど、なんだか疲れてしまって帰宅。そのまま午後は横になって過ごす。休み明け以降、ちょっと体調低下気味。
 夕刻、立ち上がって美容院に。ふたたび髪をつんつんに。
 美容院でひさしぶりに読んだ女性週刊誌。相変わらず韓流話題がすごい。でも、ヨン様以外、だれがだれかまったくわからん私(^^ゞ。グラビアやら記事にわからん顔と名前がずらっとならんでいる。わからんカタカタの名前の「スター」の笑顔と記事の調子に、ふと子どものころ読んでいた、「平凡」とか「明星」を思い出してしまった。なんとなくあのころのノリに近いなあ。(「平凡」とか「明星」っていまどきの人は知らないよなー。付録の歌本とかなつかしかー。)

ルーブル混雑

 午前中、病院とかあれこれ用事。
 午後から京都市美術館に『ルーブル美術館展』を見に行く。たいへんな人出でびっくり。<ルーブル>という名前は強力なんだなあ。ちなみにチケットは、会社の社員プレゼントの抽選に当たったもの。いっしょにいった会社の友人は、今回のルーブルも含め、無料プレゼントは必ず申し込んでいるそうだが今まで一回しかあたったことがないとのこと。私は毎回申し込んでいるわけではないが、4回くらい当たった。確率的には50%以上はあるだろう。相変わらずのB級くじ運である。
 歴史画とか時事的な内容をリアルにドラマティックに描きこんである絵を見て、つくづく、こういう物語性みたいなものを支えるメンタリティってなんだろうなと考えたりした。
 それにしても京都は、浴衣姿の人がちらほら歩いていた。なにかお祭りだったのかもしれないけど、なんだか京都らしくてよかった。
 季節は少しずつうつる気配。

なんということもなく

 金曜日。なんということもなし。
 通勤読書、むかーし買ってて読んでいなかった金子光晴『絶望の精神史』。これが意外におもしろい。題がおおげさで私の好みに合わないけど、文章は予想外にからっとしてておもしろい。各章の扉の詩もなかなかいいと思った。

鳥栖

 数日前、ものすごくびっくりして今も少しびっくりしていること。
 先週の金曜、わたしが風邪で寝込んでいた日の夜。職場の単身赴任中の方のマンションに数名が集まってお酒を飲んだらしい。その参加者のうちの一人から今週、「吉浦さんってブログやってはるんですね」と言われてびっくりした。
 なんでもその人によると、金曜日、皆で飲んでいるとき、ある人が「吉浦さんってブログやってるんだよ。名前で検索したら出てくる」と言い出して、その場でPCで検索してみんなで見たそうだ\(◎o◎)/!
 私は転勤以来、新しい職場では、ぜったいに短歌をやっていること、HPをやっていることは職場の人には言わない、と心に決めていた。で、言っていないつもりだった。
 なのに・・・なんで知られてしまったのだろうか?一番、考えられる可能性は、酔ったはずみで私自身が喋った、ということだが・・・(-"-)。しかしどう考えてもそういう覚えはない。うーむ・・・で、私がブログをやっているということを知っていた本人に、こそっと聞いてみた。
 「私・・・ブログやっているとか言いましたっけ?」
 「いや、吉浦さんからはいっさい聞いてないよ。」
 「じゃあ、どうして知っていたんですか?」
 ・・で、知った理由を聞いて驚いた。6月に、その方といっしょに私は鳥栖に出張に行ったのだが、その出張先のその方の知り合いが、「吉浦さんらしき人のHPがある」ということを言っておられたらしい。で、ためしにその人が検索してみたらほんとに私のHPだった・・・という経緯らしい。
 げー、そんなところからばれていたとは・・・、それにしても、な、なんで出張先の方が私のHPを知ったのかそれも謎なのだが・・・(その出張時にはじめて会った方なのに・・)。

  まあ、そもそもHPに名前出しているのがまずいのだなあ。何で名前出しているかというと、筆名が名前のせい・・・。
 短歌始めるとき、ペンネームにするべきだった・・・。
 そ、それにしても恐るべし鳥栖。

還る

 即詠
 あふぎみる樹々は光をふふみありいつか言葉と出会ふ日も来む
                               (「精霊とんぼ」)

会はざりし言葉もろとも還りゆく土に白しも晩夏のひかり

祝福

即詠
祝福のごとく扉(と)は開くねんごろに指に押したる六文字のゆゑ

エフライム

 どうにか今日は会社に行く。昼食後、少し、お腹の具合がおかしくなったけど、乗り切る。夜は、早めに帰宅して、自分用に特製雑炊を作って(気分的にお腹にやさしそうな気がして(^^ゞ)食べた。

 旧約聖書の神は新約聖書の神が愛の神であるのに対し、怒りの神裁きの神というイメージがある。
 しかし、やはり新約と同じ神、憐れみの神なのである、ということを最近感じる。

ああ、エフライムよ
お前を見捨てることができようか。
・・
わたしは激しく心を動かされ
憐れみに胸を焼かれる。
わたしは、もはや怒りに燃えることなく
エフライムを再び滅ぼすことはしない。
          ホセア書11.8

ビオフェルミン

 体調の悪いことばかり書いて恐縮だが、今日は午後から腹痛(T_T)。激しい痛みではなかったのだが、周期的(30分から1時間おきくらい)にお腹が張ってきて、いててててっと痛みが襲ってくる。お腹が痛いときはビオフェルミンだっ、とビオフェルミンを飲もうとしたら、ビオフェルミンの瓶、カラ。そうだ、ビオフェルミン切れていたのだった。私は小学生の頃から腹痛にはビオフェルミンだったのに。そういえば、ちょっと前まではよく息子もお腹が痛くなっていたのだが、最近はとんと痛いと言わない。そんなこともあって、ビオフェルミンが切れてても気づかなかったのだ。。。で、痛みが落ち着いている間に、近所の薬局に買いに行く。薬局の棚をみると、ビオフェルミンの一番オーソドックスなタイプの瓶が、入ってる錠数によって何種類かあった。けっこう、お腹はいたくなるほうなんで錠数の多いものでもいいかとは思ったのだけど、一番小さい瓶が、「777円」で縁起がいい感じがして購入。お腹痛くて縁起がいいもないもんだけど。

葛根湯

 今日も鼻詰まり・喉痛。葛根湯を飲む。
 息子、昨晩遅く東京より帰宅。

 女性候補にホリエモン。なんだか馬鹿にされているような気がする。
 小泉首相の言うことはたしかにスパッスパッとわかりやすい。しかしスパッスパッとでてくるワンフレーズのうしろにものすごく多くのものがこぼれ落ちていっている。・・・と、えらそうに書きながら、私にはなにがこぼれているのかよくわからないのである。

悪寒

 明け方、寒気がして目が覚める。朝になっても、体調悪く、本日年休。おとといどしゃぶりに濡れて以来、どうも調子が悪かったのだが・・。夏休みがあけたばかりというのになんてこったい。

 消耗感だけがあるこの日々をいかにかはせむ。

 即詠
これの世の別れにかかはりあらずして月まろくあり星みえぬ夜に

どしゃぶり

 夕刻、あれこれともの思いをする。

 早めに帰宅。会社から駅までを歩く道々、どしゃぶり。風もけっこうあり、両腕、靴などずぶぬれ。
 電車に揺られ、自宅もよりの駅に降り立つと、もう傘もいらないくらいに静かな普通の夜。
 あのどしゃ降りはなんだったのだろう?

定期

 朝、どひゃっというようなことに気がついた。
 昨日買った定期券、なんと駅を間違えて買っていた。会社の最寄駅からなぜか二つ手前の駅名を定期券申込書に書いてしまって、当然、その駅までの定期を入手してしまっていたのだった。慌てて早めに家をでて梅田の定期券売り場で事情を話して変更してもらい、事なきを得た。今日から使用開始の定期だったので、変更がきかずキャンセル扱いとなってキャンセル代とか取られたらどうしよう?と思っていたが、そういうことはなかった。ほっ。
 そんなこんなで休み明けの朝から、ばたばたとする。
 それにしても、定期券申込書になぜ二つ手前の駅を書いてしまったのか。疑問である。その駅が最寄駅だった部署にいたことも、かつてはあったのだが、それはもう4年以上も前のこと。なぜその駅名を申込書に書いてしまったのか?文字数がいっしょ、とか最後の一文字がいっしょ、とか、ま、いろいろと考えられるのだが、いったいぜんたいなぜ間違えたのかよくわからない。単にもうろくしただけ????

東京&十三

 息子が、友達とディズニーランドに行く計画を立てている。お金がないので夜行バスで行って帰ってくる強行軍のよう。息子はディズニーランドにいくのは小学生のころ、岩下さんといっしょに行って以来。あのときは、その後、新潟の短歌人の全国大会にいっしょに行く予定だったのだが、「短歌の会なんて行きたくない」とディズニーランドで泣き出して動かなくなってしまい、仕方がないので、岩下さんに息子をお願いして私一人で全国大会に行ったのだった。あの時以来、息子は短歌の会についてくることはなくなった。
 息子は遠距離を一人で移動したことはこれまでもあったけど、東京方面にしかも友達同士で、というのは初めてで、親としてはちょっと不安。
 母「あんた、ちょっと浮かれて変なところにいくんじゃないよ」
 息子「ディズニーランド行くだけや」
 母「東京といって、舞い上がって、どっか違うところにもいったりするんじゃないやろね」
 息子「いかんってば」
 母「東京はな、こわいところなんやで。変なところ歩いていたら、裏道に連れ込まれて、外国に売られるぞ〜」
 息子「なんやそれ・・・(馬鹿にした目)」

 私のほうは、今日は休み最後で、かつ平日ということで、いろいろと用事をすませる。
 用事のために、昼、十三に行く。十三は大阪以外の方はご存じない方もおられるかもしれませんが、「じゅうそう」と読み、実に大阪らしい、なかなかにディープな歓楽街を擁する地域。
 歓楽街もある一方、わが淀川区の区役所をはじめ、区の行政機関もなぜか軒並み十三にあって、歓楽しなくともたまに区民は十三に行くことになる。
 ・・というわけで今日も十三に行ったのだが、行き先は初めて行く場所ではなかったにもかかわらず、前回来たときと、別の駅出口から出たせいで、なんだか道がよくわからない。地図を確かめながら歩いていくが、アーケードを抜け(これがまた実に庶民的な商店街)小さな道に入っていきながら、どうもおぼつかない。道はどんどん狭くなるし、それでも両脇はたくさんの飲み屋(閉まっている)とか、ヤラシそうな店(閉まってんだか開いてんだかわからん)とかが並んでて(+_+)、埃っぽいわ、人通りがなくなって不気味にしんとしているわ、昼なのになんか暗い気がするわって感じで、それこそ変な裏道を歩いているようで、こんなところで迷子になったらタマラナイなあと思って、いったん、アーケード付近まで引き返し、宝くじ売り場のおばさんに道を聞いた(ついでにスクラッチを買ったがハズレ)。やっぱり、今の道をつっきっていくしかないようで、再度、その道を突っ切りどうにか行き先に行くことができた。
 やはりなかなか十三はディープであった。淀川区民であることはたいへんである。
 その後、梅田に行き贈答品やら通勤定期などを購入。
 ああ、明日から仕事である。
 付箋!更新しています。

あの虫何の虫

 朝から礼拝。お盆が近く(お盆って教会には関係ありませんけどね(^^ゞ)、帰省などでお休みの方、あるいは遠方から帰省してこられた方、等々あって、ちょっと普段とは違う雰囲気。
 帰宅後、昨日の残ったカレーを食べて(結局、そのまんま温めなおして食べただけ(^o^)/)、午後は家ごもり。あれこれやったりやらなかったり、なかなかあれやこれやが進まない。
 夕刻、なんだか少し秋っぽい虫の声に気がつく。隣の公園から。夏のさかりのうるさい蝉の声とは違う。
 ああ、秋。
 ああ、○■△◎が鳴いている、とさらさらと虫の名を記せないのは、わたくしの日本語の貧困のゆゑ。(ゑと旧かなで書いてみても貧困はごまかせない)
 貧困といえば、私は「重版出来」というのは、今日の今日まで「じゅうはんでき」と読むのだとばかりおもっていた。「じゅうはんしゅったい」だとは・・・。わ、わたしはこれでも短歌をやる人間であろうか(/_;)
 こんなことだから『精霊とんぼ』は重版にならんかったのだ。・°°・(>_<)・°°・。。。。
 私と同じく貧困な方はこういうサイトがあるらしいです。ご参考まで。→ ほぼ日式声に出して読めない日本語
 「おもねる」は「阿る」なのか・・。
 
 なお上記のサイトを知ったのは、クリスチャンの方のブログです。かなり真摯なクリスチャンホームの日記ブログで、こちら(「はちことぼぼるの日記」)も興味のある方はどうぞ。(って・・・このブログファミリーとはお知り合いというわけではありませんが)

具だくさんもよしあし

 きょうもあれこれ所用でばたばた。慌ててマンションの扉を出ようとしたら右手をなぜか扉のガラスのところで打ってしまって、今もパソコンのキーを打つとき右手の甲に鈍い痛みがある。むむむ・・。

 夕方、無性に野菜カレーが食べたくなって作る。ごく普通の市販のカレールーを使って、単にあれこれ野菜をぶちこんだだけ。・・・しかしせっかくだからたくさん野菜を取ろうと思って、ぶち込みすぎてなんだかなあって味。なす、じゃがいも、にんじん、トマト、にんにく、ほうれんそう、ビーンズ各種etcetc。なんかルーがこってり系だったのものあって、野菜カレーの爽やかさがない。
 ちょっとまえ、やっぱり具沢山のみそ汁つくろーと思って、そのときも野菜入れ込みすぎて、みそ汁なんだか味噌煮なんだかわからん状態となっていまひとつだったことがあった。
 やっぱりせっかくの野菜の味がちゃんと味わえる程度の組み合わせにしないと、すっきりしない。それぞれの素材の味ってもんがぶち壊しなんだなあ。ぶちこみゃあいいってもんではない・・・と学習したこの夏。

 明日は、ごっちゃらんとしている残ったカレーをココナツミルクで少しのばしてさらさらにしてみようかなあ。(←さらにちがうものを足して、余計、どつぼにはまる予感も・・・(・・?)

照らし返される世界

 どうにかこうにか短歌人の作品を出す。ふうううううううううう・・・・。

 短歌モードになるために例のごとく森岡貞香を読んでいたのだが、言葉によって照らし返される日常というものを強く感じた。小さな動物であるとか植物を詠みながらそこには独特の不可思議な世界がある。それはいわゆる写生というのではなく、かといって、リアリティのないものでもなく、曖昧としながら妙にかっきりとした(矛盾した表現だが)世界がある。そしてその世界が逆に現実世界を照らし返している。この照らし返す強さというのはなんだろう?と思う。付箋!更新しました。

中ノ島・国立国際美術館

 教会のHPについて打ち合わせ。
 ・・しかしながらどこにも出かけないわりにあれこれと意外に忙しい夏休み。HPをはじめ、いろんなことができずにいる。
 といいつつ、打ち合わせの後の空き時間で中ノ島の国立国際美術館へ。ここには初めて行ったが展示のレベルの高さに感動した。メインイベントとしては「転換期の作法」としてポーランド、チェコ、スロヴァキア、ハンガリーの現代美術を紹介があった。これも悪くはなかったが、むしろ「コレクション2」と銘打った(世界の)現代美術紹介のほうが印象深かった。ほんとに時間がなくて、あとからみた「コレクション2」のほうは駆け足だったのが実に残念。
 あまり美術そのものに造詣は深くないのだが、漠然と現代美術は苦手、と思っていた。だが、今回、認識をあらたにした。第二次世界大戦後第二世代というか、なかにはほとんど私と同世代の作品もあって、実に「今」を感じさせてくれる内容だった。おそらくこれまでの現代美術といったら、60年代70年代くらいまでの印象で、そういうものへの抵抗感があったのだと思う。(あの時代の独特の熱というかアクの強さというか・・・リアルタイムで接していないものにはどうもなじめない・・)しかしさらに時代が新しくなったときむしろ自分に近い世界としていっしょの呼吸をしているものとして感じることができるようになったような気がする。
 いずれにせよ大阪にこれだけレベルの高い美術館が出来たのはうれしい。ようやく大阪にも文化面に力を入れようとする空気ができてきたのだろう。と書くと大阪の人は怒るかもしれない。しかし、もともと近世まで大阪は独自のすぐれた文化を持っていたと思うのだけど、現実問題として、大阪は街の規模に比して文化施設は貧弱だったのではないか。しかし、国際美術館のような施設ができたのは頼もしい。京都の美術館が大作主義古典主義であるのに対抗し、ぜひとも現代美術に力をいれた質の高い活きのいい美術館になってほしい。

 夜、ずっとのびのびになっていた息子と息子の彼女と、焼肉。

続・ついてくる人

 ゆうべ、帰宅後、水漏れ問題でばたばたしているとき、用がありちょっとでかけようとして、マンションのエレベータに乗った。
 エレベータに慌しく乗り込み、扉の方をみると、いったん閉まりかけた扉がふっと開いた。開いて、誰も乗ってくることもなく、そのまま、閉まった。私は特にかさばるような荷物も持たず、外にも誰もおらず、誰かがボタンをさわったり扉にふれた形跡はない。私が乗り込むとき扉に触れたのかもしれないけれど、私はすでにエレベータのなかの奥のほうにいて、小さなエレベータではあるけれど、乗り込んだとき扉に触れて、その反応で扉が開いたにしては、ややタイミング的に遅い開き方だった。
 しかし、そのときは、水漏れのことで頭がいっぱいだったので、何も考えなかったけど、あとから思い起こして、ちょっと怪訝な気がした。そして、昔々の掲示板に書いたことを思い出した。2001年11月2日の記事である。
 ちなみに、下記の文章を書いていた頃は、大阪京橋のツインビル(38F建て、一応高層ビル)に勤務していた。
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「ついてくる人」
夕方、残業中にちょっとつまむお菓子を買いに売店にいったときのこと・・
私の職場はビルの7Fで売店は15F。エレベータを待っていたら空のエレベータがきた。同じ階から私ともうひとり女性が乗った。
二人が乗り込んで行先ボタンを押したら、エレベータの扉が閉まりかけて、・・ふたたび、ふわっと開いた。
開きボタンを押したわけでも、外から誰かが何か操作した感じでもなく・・。
もうひとりの女性と顔を見合わせ
「何に反応したんでしょうかね?」
と言葉を交わした。
もうひとりの女性も15Fの売店に用事で、二人とも用事を済ませたあと、エレベータの前でまた一緒になった。
そしてまた空のエレベータがきて、二人乗り込んだ。
で、行先ボタンを押すと・・
今度もエレベータの扉が閉まりかけて、ふたたび、ふわっと開いた。
もちろん、開ボタンも押してなければ、外で誰かが何かした感じでもない。
「またですね・・」
二人ともちょっとびっくりした。ビルの二十階以下用のエレベータは6基あり、さっきのったエレベータと今のっているのが一緒のものなのかよくわからなかった。ただ、昇りの時も下りのときも、途中階で人が乗り降りしているときに扉は変な動きはしなかった。
エレベータの扉が壊れている感じではなかった。
二人が乗りこんだ階でだけ、ふわっと開いたのだ。
わたしは冗談っぽく、
「私たちのあとから、<見えない人>がついてきて乗り込んだのかもしれない」
と言ったら、もうひとりの女性は笑いながら
「私には絶対そんなことはないです。もし、誰かがついてきたとしたら、お宅のほうにですよ」
ときっぱり言った。-彼女、顔は笑っていたけど、私が変なこと言ったから、ちょっとむっとしたかもしれない^^;
しかし、みょうにきっぱりと
誰か見えない人がついてきたとしたらあなたについてきたんです
と言い切られると、そうかもしれない、という気もした。

わたしは、別に霊感があるわけでも、その手の体験をしたことも
ないのだが、誰かついてきてたのかな〜?
そのときは、ふ〜ん、だれがついてきたのかな〜とお気楽に考えていたけど、夜になって、さっき森岡定香の短歌を読んでいたら、なんだか、生だの死だの変な気分がしてきて、そんななかで改めて誰かついてきた、なんて考えたら、ぞぞっとしてきた。

ちょっと怖くて禁酒13日目。
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 上の文章にもあるように、私は特に霊感があるわけでも、霊的体験をこれまでしたことがあるわけでもない。
 昨日も、誰かしらないけど仮に私の後についてきていたとしても、当の私は水漏れのことで頭がいっぱいで怖がるわけでもなく不思議がるわけでもなく、ついてきた人も、さぞ、ついてきがい?がなかったことだろう(^^ゞ。仮に幽霊だとしても幽霊というのは、自分のことをわかってくれそうな人とか怖がりそうな人のところに出るとも聞くので、昨日みたいに別のことに気をとられてる人間の前に幽霊は現れないような気がする。だから、ゆうべの扉が開いた件は、基本的にはセンサーがなんか変な動きをしたのか、水漏れで動転して私がどこかヘンに触れていたのに気づかなかったのではないかと思う。
 思う反面、そうではなく誰かがついてきたと思いたい気も少しする。

 そういえば、一年位前、教会の人に、「幽霊っているんですか?」とあほな質問をしたことがある(これは古い日日に書いたことだが)。結論としては霊というのはいるようだが、人間に直接害を及ぼすようなものはまずいない、ということだった。霊感がない私が書くのもなんだが、わたしもそんな気がする。よくTVでやっているような悪霊とか怨霊とかは、いないような気がする。
 だから、もしゆうべ誰かがエレベータの中についてきていたとしても、なんだか私はむしろ好ましく思うのだ。
 ひょっとしたら、京橋のツインビルでついていた誰かと同一人物、いや同一霊かもしれない。というかその霊は、ずっと私といっしょにいるのかもしれない。で、ときどき、ぼーっとしててエレベータに乗り遅れる(^^ゞ。(←私に似て、まぬけな霊?)
 それとも、ゆうべはわざと注意を引いて、なにかを私に伝えようとしていたのかもしれない。そんな気もする。(それはそれで別の意味でちょっと怖いんだけど・・)ツインビルのときのことと考え合わせると、少しばかり思い当たるフシもある。

 関係ないが、うえの掲示板の記事の最後の行の禁酒というのが、気になる。前後の記事を読むと結局私は当時15日間禁酒をしていたらしいが、何のための禁酒だったのかよくわからない。ダイエットのためか、『精霊とんぼ』の批評会をまえにして気合をいれるためだったのか・・・、しかし、15日も禁酒していたなんて、ほんの4年位前のことだけど、昔の私って偉かったんだなあ・・。

豊中

 休みなのだけどばたばたと過ごす。

 夜は豊中でナイスミドルと食事(*^_^*)。豊中駅はなんども通ったり乗り換えたことはあるけど、駅の外に出たのははじめて。オーストラリアのワインを飲む。

 ・・・で気分良く帰ってきたら、水漏れが発生していた!
 がーん(-_-;)。

 長崎原爆忌。

この川の水に重なりゐたる死者一日おもひ一年忘る
                     竹山広

声が出る瞬間

 別にケチつけるつもりないんだけど、ディスカバリーの野口さんネタには私はまったく興味が持てない。なんかイヤなんだよなあ。とってつけたようで・・。宇宙食ラーメン食べたとか、トトロだのSMAPの曲で目を覚ましただの・・・どうでもいいじゃん、という気がする。私には、アメリカの宇宙開発の意図っていうのもよくわからないし・・。大リーグでがんばっている日本人選手に対するほどにはシンパシーをもてない。(野茂にはほんとがんばってもらいたい!)
 それよりよっぽど宇宙ネタでいえば、ちょっと前にニュースになっていた太陽系で10番目の惑星が発見された、ってののほうが、はるかに話題としては素敵ではないか。この10番目の惑星はなんて名前がつくんだろう?
**
 ところで、最近、教会で賛美歌を歌ってて、声がよく出るようになった、という感覚がある。もともと声は通るほうで高音も出るほうと(^^ゞ自惚れていたのだが、思うに、今までは喉で歌っていただけであった。でもごく最近気がつくと、お腹から歌う感覚が掴めていた、というか、声の出し方が違っている自分に気がついた。
 昔々、田舎の中学校でコーラス部に入っていたのだけど、まあ田舎の中学校であり、特に合唱指導に力をいれていたわけでもなく、たまに先生がきて指導してくださることはあっても、基本的には、田舎の素人の女の子たちがテキトーに歌っていただけであった。それでも一年くらいたって、二年生になってしばらくたった頃、急に声が出るようになった記憶がある。別段、本格的な声楽の訓練はしていないにもかかわらず(まあ腹式呼吸とかある程度基本は練習したと思うけど)、ただただ一年間くらい週に1,2回練習していたら、急にとてもよく声が出るようになったのである。自分でもびっくりするくらい、ごく自然に声がでるようになったのである。無理をしなくても高音も出るようになった。ちょうど新学年になったころで、新入生も入れた新しい編成での担当パートを決めるために一人一人歌わされたとき、ひさしぶりにこられた音楽の先生にも褒められたなあ。
 もちろんあのころの麗しい?ソプラノ(正確にはメゾソプラノかな)の声量には遠く及ばないけど、とりあえず歌う感覚が戻ってきたことはうれしい。別にそういうことを意識していたわけではないにもかかわらず(賛美歌歌うのは神様を讃美するためであって、歌の練習するためではありませんよね(^^ゞ)一年ばかりも、ただただ礼拝で毎週3曲ほど歌っていただけで、こういう変化があるというのはとても意外でもあり嬉しくもあった。
 なにより、しゃかりきにがんばってキリまずとも、ほそぼそとでも継続していけば、少しずつはなにかが変っていくんだ(この歳でも!)ということが実感できたのがうれしい。

 ・・・ということで、九月から聖歌隊で歌うことになりました〜。

 「声が出る瞬間」みたいなごくごく素朴な変化を、これからも歌以外でも(別にどーでもいいようなことのなかでも)少しずつでも感じられたらなあと思う。

地には平和

 平和主日。

Let there be peace on earth,and let it begin with me
let there on earth,peace that was meant to be.
With God our creator,children all are we.
Let us walkwitheach other in perfect harmony.
 地には平和 このわたしから
 あなたが望んでおられたこと
 わたしたちは 主の子ども 
 共に歩こう 愛と共に   
 Words&Music Jill Jackson and Sy Miller

 上記の歌、歌詞だけ読むと、ごく平板なメッセージソングのようでもある。しかし、メロディがゆっくりした感じで(よく聞く有名なメロディです)じっくり聞くととても味わい深い。
 平和を破るのは人間である。

二万発の核弾頭を積む星のゆふかがやきの中のかなかな
                          竹山広

『赤光』の生誕

 広島の平和記念日。

 数日前から読んでいる岡井隆「『赤光』の生誕」。分厚い本。で、岡井流ジグザグ記述文体。エッセイではない文章で個人を強く感じさせる文体を持っている歌人というのは稀。かなり調査や繰り返し考察の多い内容でありながら、いかにも<調べました考えました>という生真面目文体ではない。それだけに逆に厚みを感じさせる。(本の厚みではなく)

 夕刻から窓の外にどんどんと花火の上がる音。今日は淀川の花火。息子は彼女と行っている。けっ(~_~;)。一人、高菜チャーハンを作って食べる。美味いぞ高菜。九州にいた頃は高菜は嫌いだった。

時間切れ

 終日資料作成。
 夏休み前最終日ということで、どうにかキリのいいところまでやっつけておきたい、ということで、めずらしく(^^ゞ集中して作業するも、時間切れ。
 関係ないけどストップウォッチ(ちゃんとした正式なもの)がぜんまい巻きとは知らなかった。

粉砕

 ・煮干50gを粉状にする。
 ・手巻き寿司用海苔を粉砕する
 ・卵三個でメレンゲをつくる

 以上、本日の業務。煮干の粉砕したものは自宅に持ち帰り、我が家の食材とする。

思うだけ

 もうすぐ夏休みである。
 まったく計画のない夏休みではあるけれど、とりあえず一息つける。あと二日。

 あの人は元気なのかなあと思う。思うだけ。

 終日、社員研修所。

 即詠
自転車の少年の背(せな)をさなしが西日の坂をこぎのぼりゆく

今日から8月

 今日から8月。
 でもなんかお疲れ気味。早めに帰宅したのだけど、なんだかバテている。

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