2017年8月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31    

最近のトラックバック

リンク

フォト

« 今日は休憩 | トップページ | 葦笛 »

ペンテコステ

 今日はペンテコステ(聖霊降臨祭)。
 昨年のペンテコステで受洗をしたので、ちょうど受洗一年となる。
 ペンテコステというのは、降誕祭(クリスマス)や復活祭(イースター)とともに教会の大きな三つの祝日のひとつであるけど、どうも降誕祭や復活祭に比べると、ペンテコステは圧倒的に、地味、である(*^^*)
 降誕祭や復活祭は、信者以外の方も積極的にお招きして、式次第なんかも別刷りの冊子が準備されたりして、参加人数も多く、礼拝の後は愛餐会(昼食会)もある。それに対して、ペンテコステは、ぜんぜんふつーの礼拝です。愛餐会もないし・・。
 受洗式はだいたい3つの祝日のうちのどれかで行われることが多いのだが、よりによって、なんで一番地味なペンテコステで受洗してしまったかねー、と思わないでもないけど、一年前は、クリスマスまで待てるか〜!!って心境でしたもんね。まあいろんな人の話を聞いても自分のことを思っても、受洗というのはタイミングで、きっと「そのとき」に受洗しないとチャンスを逸してしまうということもあるように思うので、まあペンテコステでよかったのだろう。それもイエス様の導きというものであろう。
 ・・ということで、今日は、受洗一周年なので、普段は、あまり書かない信仰について少し書こうと思う。

 まずは、せっかくなので、私にとっては特に大きな意味をもつ、そのペンテコステについて補記しておこう。といいつつ、まだまだ新米信者の理解の範囲での記述であるが・・。
 ペンテコステというのは、ギリシャ語で「50」を意味するそうだ。キリストの復活から50日目ということである。
 そしてこの日はもともとユダヤ教の五旬祭の日に当たるそうだ。モーゼによってエジプトを脱出した民が、「作物の収穫を祝う」祝日としたのがはじめで、さらには「モーセを通して律法が授けられた日」という記念の意味も付け加えられたそうだ。
 それが新約の時代になり、キリストの死後、信者たちが集まって、五旬祭を祝っていたとき、一同のうえに「聖霊がくだった」ということで、それを記念して、「聖霊降臨」祭となったそうである。使徒言行録によると、その日・・
「突然、激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、’霊’が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出した」
とあり、なんだかすごい状況だったようである。<炎のような舌>なんて、そこらへんのSFX映画もどきですらある^^。それをみていた一般の人々(各国からエルサレムに来ていた人々)はガリラヤ出身の使徒たちがいきなり、聴衆たちのそれぞれの故郷の言葉で語り出したので、衝撃を受け(そりゃ当然)、なかには「あいつら酔っ払ってんじゃないのか」というものもいたりして、大いに怪しんだ様子である。しかし、ここにすくっと立ち上がったのが一番弟子ペトロ。一番弟子といったって、彼もキリスト処刑のおりには、「イエスなんて知らない」とシラを切り逃げていた一人。その彼が、奇跡のような、一世一代の説教を放ち、それに感銘をうけた3000人が一日で受洗した、と記録にある。使徒たちが、宣教をする力を得た日ということで、ペンテコステは「教会の誕生日」とも言われている。
 ・・・と書いたが、キリスト教徒でない方には、上記の言行録の記述にしても、「聖霊」だの「降臨」だのという言葉にも、かなりと、「アヤシイ」「いかがわしい」「いかにも宗教っぽい」と感じられることでありましょう^^;
 しかしながら、自分なりに思うのは、結局、宗教というのは「信じること」に他ならず、「信じる」とはどういうことか、と考えても「信じるとは信じること」としかいいようがないように思う。まったく説明になっていないが。「信じること」は「理解すること」や「証明すること」を超えていると思う。理解をしたから信じたわけでも、たしかに事実であると証明されたから信じたわけでもない。<炎のような舌>を私はもちろん見ていないし、ペトロの説教を聴いたわけでもない。でも私は、言行録の記事を宗教的真実として「信じる」。
 でも、宗教に限らず、「信じる」というのはそういうことでないだろうか。たとえばある人を「信じる」というとき、それは信じる側の、「信じる」という思いとか意志とか決意に他ならないと思う。もちろん相手がなんらかの条件を満たしているから信じる、ということは現実社会の中ではあるかもしれない。仕事上の実績のある人だから、温厚な人柄だから、大企業に勤めているから・・・なんらかの条件があってそれをクリアしているから信じる、ということもあるだろう。しかし、「究極的に信じる」というのはそういうことではないのではないだろうか。条件が変化したら信じなくなる、というものではなく、ずっと信じる、信じ続けること。
 「信じていたのに裏切られた」ってことも、ままあるけど、「信じる」のはあくまでも信じた側の問題であって相手の問題ではない。裏切られたことに対する保障・謝罪を追求するのであれば、それは「信じた」のではなく、なんらかの有形無形の「契約」「約束」のもとの関係であったのである。もちろん人間関係において、純粋に「信じる」、「信じあう」というのは難しい。難しいからこそ、そこに「契約」「約束」のしばりが入ってきたりする。その契約すら守ることがおぼつかないのが人間でもある。さらに<信じた気持ち>を踏みにじるようなことをするのは往々にして<裏切った相手>ではなく自分自身であったりする。

 自分自身の問題だからといって、じゃあなんでもかんでも信じるのか?というとそれも難しい。宗教にせよなんにせよ、「信じる」にいたる流れというのはなかなか説明がむずかしい。受洗に関しては私の場合、聖書を読んだり、牧師先生の話をうかがっているうちに「信じたい」という気持ちが出てきたのである。イエスの救いを信じられたらいいだろうなあ、と感じた。そのなかで「信じたい」「信じられたらなあ」「信じてみようかな」「信じよう」・・というような変遷を経ている。その変遷ステップで特に何か宗教的な体験とか、不思議な感覚を持ったということもなく、なんとなく、こうなってしまったのであるが。

 とはいえ、宗教的な意味での「信じる」ということは、宗教というものになじみのない一般の日本人には、ある意味、恐怖なことでもあろう。歴史において、宗教の名のもとになされた戦争は数知れず、オウムなどのカルトの事件、宗教家の拝金主義、暴行事件、神の名の下の自爆テロ・・・等々理解しがたいことがあれこれとある。

 でも、やはり私は信じるとしかいいようがない。
 受洗して一年、実生活上、受洗前に比べてなにが変わったかというと、「ぜんぜん変らん」としかいいようがない。いや、生活上、ある意味、一年前のほうが楽しくゆたかであったようなところもあるくらいである。さらに自分自身を振り返っても、相変わらず、不平不満だらけで、怒りっぽく、よく人と喧嘩するし・・心のなかの状況においても言動においてもとてもとても「神の栄光をあらわす」信者とは言いがたい(-"-)。
 さらに、自分自身、この一年も(ある部分確信犯的に)いくつもの<罪>を犯してきたと思うし、これからも<罪>から逃れられないと思う。これは重いことである。

 そんな生活のあれこれのなかで罪深いにもかかわらず・・
「神様のばかやろー」
 と、正直、思ったことはこの一年、特にここ数ヶ月は、何度もあるけど(^^ゞ、 でも不思議なことに、神様はいる、とずっと思っているし、一年前よりもより強くそう思っている自分に気がつく。そうはいえ、神様のなさることは私にはよくわからない。「はっきり言って不満ですっ!」ってことも多々あるけど、 いまは不満でも、いつかわかるようになるという気がする。いくべき道は整えてくださる、と信じている。

 今日、礼拝で祈っていたとき、感じたのは、神様は私が幸せになることを望んでおられる、ということである。こう書くと、なんてお気楽かつ単純と思われるかもしれないが・・^o^
 こんなに文句たらたらの、意志の弱い、罪深い私であっても、喜びながら生きて欲しいと思われている、ということをほんとーに感じたのである。主に感謝。

あなたは命に至る道をわたしに示し、
御前にいるわたしを喜びで満たしてくださる
 
            使徒言行録2章 ペトロが引用したダビデの言葉

明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。
            マタイ6−34

« 今日は休憩 | トップページ | 葦笛 »

「日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

コメント

 ももママさん

 コメント、TB、ありがとうございます。
 ペンテコステ、たしかにもっと認知度があがるといいですよね。<教会の誕生日>なせいか教会だけに閉じているのかな。 
 今後ともよろしくお願いいたします。

はじめまして。TBさせていただきました。
じみ~なペンテコステ、もう少し世間で認知してもらいたいですね。でも、一般の人にはなにか「いかがわしい」感じがしてしまうのでしょうか?私も実際、苦手だったのですが・・・・

今年は子どもたちにペンテコステを説明しようと勉強したら、少し親しみを感じました。まだまだ難しいですが。

クリスマスまで待てるか!という気持ち、とても分かります。一番良いときが与えられたのでしょう!

初めて書き込みします。藤村と言います。
時々こちらのプログを読ませていただいています。
この「信じる」という一言についてのコメントに
とても感銘を受けました。私自身は信仰をしていないのですが、「信じる」という行為をとても生きていく上で大切なことととらえています。
信じやすいのでだまされやすいのでもありますが(笑)。
信じるところに現実はある と思っています。
これは太宰の言葉ですが。
こうして20年来信じ続けたあることを今実践しようとしています。信じることは意志そして勇気ある意味では自己防衛ある意味ではピュアな思い。点と点が線になる日を信じて表現の旅を続けています。

初めての書き込みなのに長い独白でした。
短歌人から遠ざかり今は俳句の道に入ってしまった私ですが こんなふうに登場してごめんなさい。いろいろ頑張ってくださいネ。

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/66828/4142949

この記事へのトラックバック一覧です: ペンテコステ:

« 今日は休憩 | トップページ | 葦笛 »

これんのTwitter

無料ブログはココログ