« 鼻かぜ | トップページ | 灰の水曜日 »

形象

 うー、相変わらず鼻水が・・・。健康管理室に行くととりあえず微熱。総合感冒薬をもらって帰ってくる。

 やっと、「汝、尾をふらざるか」完読。いや、正直、かなり斜め読みだった。こういう1950、60年代の過剰に詩的な(と私には思える)文章ってどうなんだろう?(いろんな文章が載っていて、1950,60年代のものが多かった。1990年代のものあるのだけど)うしろのほうに、定型について書かれた文章があって、ぜったいにここまでは読んでやる、と意地のように読んだのである。その定型について書かれた文章も・・うーむ。すごーく意訳すると短歌>俳句>現代詩と詩は進化してきた、ということで、ある意味わかる部分もあるのだが、ちょっとそれはそれで現代詩人としてなにか安易なのではないかとも思う。短歌は音声をともなわなければ存在できない、俳句は<空間化と無性化>を実現した。さらに現代詩は<無音>を超えて近代と接触した。<無声>化ということが近代化ということにリンクされている。

 俳句がつきあたれなかった近代思想の核にともかくも接触したのが現代詩であり、それは異文明をみつめてふっと黙ったカナリアの内なる<啞>の自己表出とみなせますから。

 上記に安易とは書いたが、決して谷川雁の定型観は単純なものではない。しかし、谷川の説をすれば、すでに滅びてしかるべき定型がいまなお残っているということと、近代のありようというのはけっこう皮肉な様相を呈するのではないか。いや実際、現代において、すでに定型は滅んでいるのかもしれない。しかし、定型の亡骸のうえを現代詩が時代の言葉を鮮烈に伝えているのか?私にはそうは思えない。

**
煙木(スモークツリー)に臙脂のわか葉萌えいでてつゆのひとつぶころがり落つる
ここのつの蕾をもちて芍薬は四月二十日の朝をうごかず
苔のうへに表面張力かがやきて秘蹟のしづくの玉あらはれつ
                  小池光『滴滴集』
 こういう形象から立ち上がる世界というものを私は愛する。


 

|

« 鼻かぜ | トップページ | 灰の水曜日 »

「短歌」カテゴリの記事

コメント

 矢嶋様

 私はよくわからないのですが・・近代という言葉でなにもかも説明はできない、という気はしています。<近代>の中で矮小化され皮相化された概念で捉えきれないところにこそある短歌俳句の定型の巨大さってありますよね。現代詩だってその点は一緒だと思います。

投稿: 吉浦玲子 | 2005年2月11日 (金曜日) 22:19

>俳句がつきあたれなかった近代思想の核にともかくも接触したのが現代詩であり、それは異文明をみつめてふっと黙ったカナリアの内なる<啞>の自己表出とみなせますから。

このひと、芭蕉、蕪村、茂吉、迢空、貞香。
読んだことないんちゃいまっか?。
見たことはあるだろうけど、「読めてないん」ちゃおさすのん?。真面目に相手する本ともおもえませんが。

投稿: 矢嶋博士 | 2005年2月11日 (金曜日) 15:37

小池さんには中野重治の詩について書いた文章もありましたよね。
 散文の行がえと現代詩の差って・・・なかなかシビアな問題のように思います。

投稿: 吉浦玲子 | 2005年2月 9日 (水曜日) 22:42

2004年9月なん日でしたか、東京歌会にまいりまして、歌会後、小池光に質問しました。なんの脈絡、前振りもなく、トートツに。池袋駅付近の台湾料理店で、小池光のま隣に座らせていただいてました。吉浦さんごめんなさいねーッ。あ、涎は、ふきませうねッ。

やしま 「日本語に、詩は、成立しますか?」
 
 2秒後、

小池光 「荻原朔太郎が、いる」

  3秒後

やしま 「うーん、うーむぅ、うぅーむぅ・・・」

わたくしは、日本語の現代詩、
と、
散文の短く行がえしたものと、

の、区別がまったくつかない者であると、ここに告白します。

投稿: 矢嶋博士 | 2005年2月 8日 (火曜日) 23:18

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/66828/2853938

この記事へのトラックバック一覧です: 形象:

« 鼻かぜ | トップページ | 灰の水曜日 »