牧師のつぶやき

2024年7月31日 (水)

ゴッドハンドと呼ばれたわたし!?

20240323-073755  会社員だったころ、ソフトウェア関係の仕事をしていました。

 開発者としてはさほど優秀ではありませんでしたが、私にはちょっとした「特技」がありました。

 それは、人の作った「バグ」を探し出すことです。けっこう、嫌な奴ですよね(笑)

 別に頭を使って、このタイミングでこの操作をしつつこのデータとあのデータを流すのを同時にしたらどうだろうか?なんてことせずとも、割と普通に操作してたら(ま、多少は勘が働きますが)、バグが出てくるのです。(ゴッドハンドと言われてたなあ。ゴッドだなんて畏れ多いが)

 会社員生活の最後の時期は、開発部門から、いろんな事業部の製品の審査をする部門に移りました。

 そこで、各事業部が自信満々で持ってこられた出荷直前の製品を審査して、出荷して良いかどうか判定をするのですが、申し訳ないことに、何件か出荷停止になるような「バグ」を見つけてしまいました。

 たとえば、ある時、制御設備の巨大な機械の審査をしました。何をやる機械か正直、詳細はよく分かっていない私(笑)。

 私「今運転中ですが、このあたりのボタン押しても問題ないですか?」

 事業部の人「はい、ボタン操作は無効になるモードになってますから大丈夫ですよ」

 私、<ま、そのくらいのエラー処理は、当然やってるよねぇ>と思いつつ、おもむろに適当に目の前の一個のボタンを押しました。

 ドーーン!!!

 と音がして、巨大な機械が振動しつつ停止、パトライトがまわり、アラームがけたたましく鳴り、、、機械に駆けよる担当者たち、手元の資料を慌ててめくる人、技術者を呼び出す電話の声etc騒然とした雰囲気の中で、私一人、

「どしたん?」。

 後から聞いた説明では、私が「たまたま」、機械の内部ソフトの処理的に、ものすごくありえないタイミングで、そのタイミングでは押されてはいけない(処理が指示されていなかっためっちゃ特定の)ボタンを押したことによって機械がエラー停止したらしい。

「よくぞこんなレアなバグを見つけてくださいました!」と感謝されました。

 当時、けっこう、こういうことがありました。

 最近、Windowsがブルー画面になる障害が世界各地で起こりましたが、結局、人間が作りこんだものには「バグ」があります。

 しかしまた人間が作りこんだものゆえ、困難の度合いはさまざまであっても、対応はできるのです。私はソフト開発をしているとき、特にバグの原因を探り(これはものすごく時間がかかる場合もある)解決していくなかで、「出口のないトンネルはない」という思いを強く持ちました。もちろん原因によっては直接的な対応が難しく、代替的な対応になる場合もありますが。

 でも、これはバグだけの問題ではないと思います。人生にはトンネルの中のような暗いところを通る時もあります。たしかに忍耐して努力してトンネルを歩いていくうちに、やがて明るい出口が見えてくることもあるでしょう。

 でも、人生のトンネルは、ソフトウェアのバグの解決のトンネルより、複雑で困難です。

 そのトンネルを歩くときの先導者が必要だし、目の前を照らす灯りも必要です。そもそもトンネルを抜けたらどこに出ていくのかという行先もはっきりと知りたいところです。そういうことを感じていた私は、いつのまにか教会に導かれていました。そしていま思います。トンネルの中を共に歩いてくださるのはイエス・キリストで、出口は神が備えてくださる、と。だから人生においても「出口のないトンネルはない」し、よりよい出口に向かって私は歩んでいるのだと確信できます。

あなたの御言葉は、わたしの道の光

 わたしの歩みを照らす灯火

        詩編119:105

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2024年7月24日 (水)

コロナになりました

20240717-115446  今、あまり報道はされていませんがコロナが流行っているようです。

 なんと私も初コロナ感染となりました。(以下、とりとめもなく書きます、、、)

 前夜熱があり、朝には下がっていたのですが念のために、病院に行きました。

病院でも熱はなく看護師さんから

「コロナの検査どうされます?」

と聞かれ、「してください」とお願いしたら陽性でした。

 幸い、症状は軽く回復出来ました。翌日、少し熱はありましたが、結局、熱や咳は二日ほどで完全に引きました。

 一番、しんどかったのは、ゾコーバというコロナ薬が一万五千円もしたことです。

 そのゾコーバの副作用かコロナのせいか分かりませんが、胃腸の調子が悪く、あまり食事が摂れず、みかんゼリーとかレトルトのおかゆみたいなものばかり食べていたら明らかに栄養失調みたいになって、風邪症状はほぼ引いても、体がふらふらしていました。

 とはいえ、後遺症もなく、今、普通に生活で来ていて感謝です。

 私はこれまで何回か、その後(その日とか、翌日に)コロナを発症する人と半日から数日、同じ部屋のとても近い距離で仕事をしていたことがあります。でも、結局、私は感染しなかったので、なぜか「自分は絶対に感染しない」と、謎の自信を持っていました。その自信が砕かれた出来事でした。

 そう「絶対」なんてことはこの世にありません。私にとってコロナは、謙遜になれという神からの警告だったかもしれません。

 実はコロナになった時期の日曜日、私は休暇をいただいて「短歌人」の集会に行くことにしていました。

日曜日に休暇で教会を不在にするのは五年ぶり以上のことでした。でも結局、集会はキャンセル、残念な「コロナ休暇」となりました。(休暇といってもコロナになった最初の週の日曜は朝、牧師館で説教を録音したものを会堂で流していただき、翌週は普通に会堂で礼拝を捧げました)

 「短歌人」の集会自体、参加するのは十年ぶり以上になる予定でしたけれど、なんとなく今年は参加すべき時ではなかったのかもしれないなと感じました。

 そして病気を契機にいろいろ思いめぐらせました。自分の限界とか生活のあり方とかをさまざまに考えました。

 いずれにせよ、神を信じていても(牧師でも!)、病気になります。2020年の最初のパンデミックのころ、イタリアで聖職者が多数亡くなったニュースを胸を痛めて見た記憶があります。でも自分も神が示されるなら、感染の危機のなかでも為すべきことは為さねばならないと思っていました。あの頃の緊張感を忘れて、「私はコロナに感染しないのでは?」なんて、傲慢な思い上がりでした。

 コロナで命を失った人、深刻な後遺症で苦しむ人も多くある中、自分の傲慢さを反省しました。

 回復して教会の庭を見回すと、紫陽花や百合の季節は終わり、一面、緑です(雑草も凄い!)。

 その緑は、命にあふれています。この世界には神から与えられた命の息吹が満ちています。

 その命の息吹の中、生かされていることを、改めて感謝します。

 

そのあなたが御心に留めてくださるとは

人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう

あなたが顧みてくださるとは。   詩編8:5

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2020年6月 2日 (火)

牧師のつぶやき 「かわいくない」

牧師のつぶやき 受洗記念日(5月30日)に思う Facebookから加筆転載

「あんた、かわいくないからな」

20200602-154432   N姉のきついお言葉。

たしかに私は「かわいい」性格ではなく、むしろ「怖そうな人」「強い人」と思われ、なんとなく教会の中で(いや世間でも)浮いていた。
そんなかわいくない私を唯一かわいがってくれたのは、そう言っていた当のN姉だった。しょうもない長電話に付き合ってくれ、会堂で涙ながらに一緒に祈ってくれた。


挙げ句の果てに、私を牧師として献身に押し出したくせに、私が決心したとたん、さっさとこの地上から去ってしまった。

「Nさん、あなたこそ、かわいくないわ!!」
そう言いたい気持ちもある。いや何度も言ってきた。

「ふふふ、やっぱりあんた、かわいくないわ」

N姉の朗らかな笑い声が聞こえる。

そんな受洗記念日。

*写真はN姉の北海道旅行(姉の急逝2カ月前)のお土産

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2020年5月 4日 (月)

牧師のつぶやき、高政という息子


斎藤道三の息子

歴史にはとんと疎い私が、ほぼ人生初めて大河ドラマを見ている。(子供のころ、家で親は見ていたけれど、私はまったく興味がなく一応テレビ20140211-131421は見ていたはずだが、全然記憶にない)

その大河ドラマ「麒麟がくる」の斎藤道三の嫡男高政は、最初、マザコンのバカ息子と思っていたが、決してそうではなく、「そこそこ」に能力はあることがわかる。だからこそ父道三から家督を譲られ、国衆も一定の支持をするのだ。その高政が弟たちを殺し、父との対決に向かっていく。そして、自分は道三の息子ではなく、土岐家の血を引く者だと語る。

それに対する道三の言葉「高政は人を欺き、自らを飾ろうとしている」「上に立つ者は正直でなくてはならぬ」「偽りを申す者は必ず人を欺く。そして国を欺く」は珠玉だった。

そもそも高政は、自らの「そこそこ」さを自覚できるほどに賢い。ゆえに、その「そこそこ」を突き破れないジレンマと、父への屈折した情念で、突き進んでいく。

考えたら多くの人間は「そこそこ」なんだ。突き抜けた才覚を持った人間なんて一握り。しかし、「そこそこ」な人間はそこそこなりに、豊かに生きてゆくことはできる。それは凡人の諦めとか、妥協ではない。

そもそも、人間の価値はそこそこの才覚か、突き抜けたものを持っているかではない。才覚、才能は神が与えるものだから、人間の側の価値にはならない。
人間の側の価値は、与えられたもののなかで、道三の言うように「正直」に自分を飾らず生きていくこと。他者を思いやって平和に生きようと努力すること。

聖書的にいえば、神と隣人を愛すること、それに尽きる。神が与えてくださったものを感謝し、隣人を愛して生きていくのだ。神は私たち一人一人にそれぞれに異なる「十分なもの」を与えてくださっているのだから。それを「そこそこ」(あるいは全然ダメなもの)と卑下するのか、感謝するのか、そこに一人一人の生き方がかかっている。

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2019年2月18日 (月)

教会って変なところだよ

20190118_084747 少し過激なことを書きます。

 異論もあるでしょう。

 教会にはいわゆる教会内、あるいはクリスチャン間で通用するクリスチャン用語というものが存在します。「お交わり」とか「兄弟姉妹」とか。初めて来た人は面食らうと思います。私も初めて教会に行ったとき面食らいました。

 だからそんな「外の人」に分からない言葉はなるべく使わないようにしましょうという意見もあります。クリスチャンの方は基本まじめだから、そう言われると「はい、気を付けます」という感じになります。でも私は少し疑問なんです。もちろん私は初めて教会に来た未信徒の方に、ばりばりのクリスチャン用語で接したりはしませんし、別にわざわざ使わなくてもいいようなクリスチャン用語は使いません。でも教会の中から努めてクリスチャン用語を排除しましょうと言うのはどうかと思うのです。もちろん、未信徒の方が何回か教会に来てみたけれど、信徒の人同士がやたらクリスチャン用語でしゃべっているのを聞いて、何回聞いてもどうしても違和感を覚える、いや嫌悪感すら感じるという場合もあるでしょう。

 ところで、2世紀だったか3世紀くらいだったかのローマ帝国で、クリスチャンは近親相姦をしているおぞましい集団だと忌み嫌われた時期があったようです。クリスチャン同士の「兄弟姉妹」呼びが原因だったと「教会史」の時間に先生から聞きました。血がつながっていないのに互いに「○○兄弟」「△△姉妹」と呼び合うへんてこな習慣が、ただでさえキリスト教ってあやしげな宗教だと思っていた周囲の人に嫌悪感を呼び起こしたようです。

 そもそも独特の言葉は、内と外を隔てるものとなります。外の人から見たら、内のことはわからないだけに、内で語られているらしい独特な言葉を聞くと場合によっては薄気味悪さを覚えます。だからそんな外からの障壁となるようなものはとっぱらってしまえ、専門用語や特別な言葉は使うな、という意見も出てきます。

 しかし、言葉というのは文化や伝統と分かちがたいものです。伝統や文化から言葉が生まれ、また新しい言葉から新しい伝統や文化が生まれます。専門の言葉、特定の領域で通じる言葉というのは、その専門や領域の、伝統や文化と結びついています。キリスト教に限らず、専門用語はあり、特定の領域だけで通じる言葉や言い回しはあります。それらを否定することは、その言葉が担っている文化や伝統を否定することです。もちろん、逆に安易に言葉に乗っかって、その言葉を使ってさえいれば専門家だと安心したり、「内側の人」として「外」の人を意識的・無意識的に差別するというような風潮は良くないと思います。教会の中でもそのような安易さや無神経さはあってはならないと思います。

 しかし、また思うのです。そもそもイエス・キリストを信じる信仰って、一般的なことですか?と。2000年前、国家転覆とかをはかるような極悪人が受ける刑である十字架刑を受けた人間を信じる信仰ですよ。100歩譲ってそれが策略に基づく悲劇の殉教であったとしても、イエス・キリストを信じる信仰は、イエス・キリストを神だと信じる信仰なんです。人間を神に祀り上げているのではありません。もともと神だったお方が地上に来られたのがイエス・キリストだと信じる信仰なのです。そしてまた教会の中では、日ごろ善良な市民として一生懸命働いたり勉強したりしている人々を罪人呼ばわりします。それが「外」で、普通に受け入れられることでしょうか。

 とても「外」に普通には受け入れられないことを信じ語っているのが、教会という信仰共同体であって、そこに繋がっている人々がクリスチャンなんです。だから言葉だって特殊になりますよ。でもその言葉を否定したいとは私は思いません。

 ちなみにローマ時代、国家からの迫害は激化しながらも、じょじょにクリスチャンは、クリスチャンではない人々にも受け入れられるようになりました。教会という共同体は、社会的に認知をされていったのです。それは「兄弟姉妹」呼びを止めたからではありません。その他のクリスチャン用語を廃止して「開かれた教会」になったからではありません。もちろんいろんな要因があって単純には語れないことですが、結局、クリスチャンひとりひとりが教会の「外」で普通に生活をしていたからです。イエス・キリストを信じる信仰は普通のことではなくても、「外」に出ていくクリスチャンの普通の姿勢が細々と共感を得ていったのです。それは現代でも同じだと思います。

 普通ではないことを信じていて、変な言葉をしゃべる人たちがいる、それが教会という信仰共同体です。でもね、そこにはそこにしかない「救い」があるんですよ!「救い」ってなんやねん!?そんな専門用語使うな~とおっしゃるかもしれませんが、一度、教会にお越しくださったら懇切丁寧にご説明いたします!!


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2019年2月14日 (木)

根無し草でよし

20190213_124027 クリスチャンになって、精神的にというか気分的に楽になったことが二つある。

 一つは自分の才能や能力のなさを嘆かなくても良いと気づいたこと。世の中には「天才」っているし、持って生まれた才能というのがある、逆立ちしたってかなわない、そんな人たちやその人たちの才能を羨んで自分を卑下する必要はない、そう思えるようになった。天才ということではなくても、優秀だなあと感じる傍らの人にいちいち嫉妬する必要もない。才能は神様が与えられるものだから。

 もう一つは、自分が根無し草であっても良いと感じられるようになったこと。なんせクリスチャンの本国は天であって、この地上ではどこまでいっても「よそ者」なので、どこかの土地にどっしり根を下して、なんて発想はなくなった。自分の中に故郷を出てから、どこか落ち着かない「よそ者」感がいつもあった。自分が根無し草であって、それが妙なうしろめたさにもなっていた。

 「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。 ヘブライ人への手紙11:13」

 しかし聖書は、大々的に「みんなよそ者なんだ」と言ってくれている。根無し草でいいんだ!というのは大きな安心を私にもたらした。

 、、、と書いてきたこととを矛盾するようだけど、私は今住んでいる大阪をなかなか気に入っている。しかし、もう30年も住んでいるが、どこまでいっても生粋の大阪人とは違うという感覚はある、言葉も考え方も。それでも人から見たら十分に大阪に根付いて生きているように見えるかもしれない。

 最初からなじんでいたわけではない。ごくごく一般論的に言えば、たぶん九州人と大阪は相性が悪い。いまでこそ吉本が全国区になって、九州でも関西ノリというのは一定の理解を得ている。しかし私が若いころまではそうではなかった。福岡でのプロ野球の試合後、天神を練り歩く阪神ファンのノリを(別に阪神が嫌いというのではなくても)うざそうに冷ややかに見つめていた九州人の感覚というのがあった。大阪に本社のある会社に就職して、社内の九州出身者の集いに出たときも、「大阪なんか、、、、」という九州人のプライドぷんぷんだった(それはそれで九州ナショナリズムで良くないのですが)。

 そんな私が大阪、ひいては関西に心燃やされたのは、他でもときどき書いているように阪神淡路大震災のときだ。あの日、私はたまたま東京にいた。神田の蕎麦屋のテレビで神戸の映像を見て息を飲んだ。神戸は住んでいたわけでも、特に関係がある街ではなかった。しかし、大阪に住む者としては、ときどき訪れるお隣の親しい街。神戸だけでない、新大阪駅の映像もあった(大阪市でも北部は被害が大きかった)。心が固まったようになっている私の耳に「わあ、ビルが倒れてらあ~」といういかにも他人事の軽い声が聞こえた。その声を聞いた瞬間、「あそこは<私の街>ではないか!?私の故郷ではないか!」そう私はテレビに向かって叫びたい気持ちになった。

 幸い、当時住んでいた自宅や周辺には被害はなかった。しかし、職場は天井が落ち、窓ガラスが散乱していた。同僚で被災した人も多かった。また、それから数カ月の間、駅では登山姿っぽい重装備をして大荷物を抱えた人々を多く見た。ああ神戸に行くんだ、とすぐわかった。関西全体が痛みから立ち直ろうとしていた。(もちろん神戸や激震地域の人々からしたら、他の地域は「対岸の火事」みたいに思っていると感じられていた面もあるだろうけど)その頃から、大阪を自分の街だと感じるようになった。そう感じられるように神様がしてくださったのだと思う。

 とはいえ、人間はどこまでいっても「よそ者」で根無し草だ。でも、この地上を歩むとき、キリストが置いてくださる土地がある。そこに堂々と住んだらいいのだ。生まれてからずっと同じ土地に住む人もあるだろう(実際、生まれて70年、ずーーーっと同じ家に住み続けている大阪の女性の友人もいる)。あちこちを転々とする人もあるだろう。行きたくないところに行かないといけない時もある。でも、神が動かされない限り、私たちは神が置いてくださった土地に住む。別のところに行きたいと願ってそれが叶うのなら、それも神の御心だろう。神様が置いておられるのだから、と、目いっぱい神様に責任をとっていただくつもりで気軽にその土地にいたら良いのだ。(なので私は生粋の大阪人でないけれど、大きな態度で大阪に住んでいる)生まれ故郷に錦を飾りたいと思っても良いけれど、飾れなくてもそれはそれで良し。望郷の思い、ことに諸事情で帰れない故郷への思慕も、やがて行く御国への希望によって深く慰められる。

 究極のよそ者だから、徹底した根無し草だから、かえって気軽なのだ。今住んでいる土地と肌が合おうが合うまいが(もちろんそれが現実的に深刻な問題の時もあるけれど)、それはひとときのこと。私たちには安住の地がある。キリストが準備してくださった故郷がある。やがて故郷に帰るその日まで、今いる土地で生きていく。


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2019年1月27日 (日)

ふと、お酒のことなど

20181231_170447 禁酒の教派の方は眉をひそめられるかもしれないけど、お酒のことについて書いてみたい。といっても、ただの雑談です。何の深みも落ちもなし。。。

 私はお酒が強かった。今でも弱くないだろう。お酒飲むのが好きで、人ともよく飲んだし、自分一人でもよく晩酌をした。(過去形で書いているが、最近たまたま飲まないだけで、現時点で、禁酒しているわけではない。)会社員だったころの、職場の人との飲み会はまあまあ良い飲み方をしていたのではないかと勝手に思っているが、迷惑に思っていた人もいるかもしれない。いたらごめんなさい。ごく親しい人とのお酒の場はさまざま。どちらかというと飲み過ぎで、相手はつきあうのがたいへんだったかなと思う。基本強かったので、べろべろになって迷惑をかけることは、まずなかったが。

 そんな私がクリスチャンになった。勉強熱心だったので(?)、即、聖書はお酒を禁じていないことを理解した。パウロも弟子のテモテに「水ばかり飲まないで、少しぶどう酒を用いなさい」と言っているし、なんせヨハネによる福音書の最初のイエス様の奇跡は水をぶどう酒に変えることだったし。(この奇跡は酒飲みにとって慰めとなる奇跡、かな?)

 で、私はクリスチャンになってもお酒は飲んでいた。でも、なぜかすごく変な思い込みで、牧師と言う人はお酒は飲まないのだと思っていた。なぜそう思い込んだのかは不明。その時は知らなかったが、たしかに教派によって、信徒はお酒OK、牧師(教職)NGというとこもある。そういうことは当時は知らずに漠然と、牧師という存在はこの世からは離れた偉い人であり、この世から離れた偉い人は世俗的なお酒などは飲まないと思っていたみたいだ。そう思い込んでいたとて、自分には関係がないことだったので支障はなかった。将来自分が牧師になるなんて思ってもいなかったし。

 そんな私が信徒時代のある時、牧師がお酒を飲む現場を初めて見た。驚愕した。

 「ぼ、牧師先生がビール飲んでる~!!」

 自分の中の(勝手な)牧師像が、がらがらと崩れた瞬間だった。(自分が牧師になったとき、自分はお酒を飲んでいたので、無茶苦茶、身勝手なものだが。)

 しかし、今、思う。いろいろな議論があると思うけど、やはり牧師は牧師だ。会社員とは違う。「特別に」神からの召しを受けた者だ。もちろんそれは単にお酒を飲む飲まないというレベルの話ではない。でもどこかで、「線」を引く必要はあると思う。もちろん牧師だって、人間であり、罪人だ。心弱くなる時もある。くわーっと一杯ひっかけたくなるときもある。でもそれはどうなんだろう?

 みんなで楽しいお酒ならいいかもしれない。一人で祝杯も、まあたまには。でも酒でストレス発散というのはどうだろうか?微妙だと思う。なんとなくそこで信仰を試されている気がする。特に牧師は。

 そういったこととは関係なく(本当に関係なく)実は少し前、一人で家でお酒を飲むのを原則止めることにした。(止めることにしたあと、実は缶ハイボール一本飲んでしまったが)健康上の理由とか、お酒で職務上支障をきたしたとか、そういうことではない。

 みんなで楽しく飲むときには飲もうと思うし、めったにしない外食のときは少し(人から見たら少しではないかもしれないが)飲もうと思っている。

 で、家で飲まないと決めたとき、瓶に残っていたスーパーで買った安ワインを捨てた。教会の庭に実った梅で作ってたウィスキー梅酒も(まだ一口も飲んでないのに)捨てた。料理用の糖質ゼロ日本酒は残したが、家で日本酒を飲むことはないので問題なし。

 、、、、と思ったのだが、あとから考えたら教会の庭の梅で作ったウィスキー梅酒はもったいなかった。捨てずにどなたかに差し上げれば良かった。それは少し悔やんでいる。

 しかし、まあいい。天の御国での大宴会では、むちゃくちゃ良いお酒が出されるそうだから、それに期待しよう。(←え、結局、そこ?)いずれにしても、すべての希望は天にある。

(写真は教会の庭の梅で作った梅酒。これはリカーに梅を漬けたもの。元旦礼拝で皆さんに持ち帰っていただいた)


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2019年1月 7日 (月)

あなたはそのままでいい、のか

20160102_141549「あなたはそのままで愛されている」

 これはとても重要なメッセージだ。人の存在の根幹を支えるメッセージだろう。このメッセージがその人の深いところに届いたとき、<わたしは生きるに値する>、<わたしは存在していい>、そんな自己受容が可能となる。

 でもクリスチャンは気をつけるべきだ。あまりにも安易にこの言葉を発するクリスチャンに私は少し危惧を感じている。それにそもそもこれは聖書にのみ固有のメッセージとはいえない。

事実、私自身、まったく教会やキリスト教を知らなかった20代の頃、このメッセージをスピリチュアル系の精神世界の本から受け取った。私は子供のころから、さまざまな事情で、極端に自己評価の低い人間だった。自分が生きていて良いとは思えなかった。生きるに値するとは思えなかった。自分には人並みのことは何一つ期待できないと本当に思っていた。

 そんな中、ある精神世界の本で、上記のメッセージを受け取った。衝撃だった。え?私も生きていていいの?

「あなたは幸せになる権利があります。これまで幸せでなかったら、これから幸せになったらいいのです」

 その本には深いことが書いてあるわけではなかった。でも「これから幸せになったらいい」という今思えばおそろしく単純な言葉に心底驚いた。ええっ!?私も人並みに幸せになって良いのかと。

 それから私は変わった。自己評価の低かった私が「人並み」に生きていいのだと明るい気持ちになった。気持ちが変わっただけではない、たしかに生き方も変わったのだ。

 でも、そこで終わりではない。やはりそれだけではダメだった。

 「あなたはそのままで愛されている」そこで終わりではない。

 かつてのわたしのように極端に自己評価の低い人間や、存在を否定されているような環境にいる人々には「あなたはそのままで愛されている」「あなたは生きてよいのだ」というメッセージは絶対に必要だ。

 しかし、それが安易な自己肯定というところにとどまるならば、本当の生き生きとした人生にはたどりつけないのだ。ここから先が神とかキリストとか聖書という話になってくる。「あなたはそのままで愛されている、だから、、、」という「だから」の先がある。

 しかしその前に、そもそも「あなたはそのままで愛されている」という言葉自体に、もう少し明確にしないといけないことがある。これもまた聖書のメッセージとなる。

 第一に「あなたはそのままで愛されている」というのは誰から愛されているのか?「あなたは生きていい」というのは、誰から私の存在を許容されているのかということがある。私自身が信念を持って許容するのか?あるいは本来人間というものは誰でも生きる権利を持っているから生きていいのか?人間は必然的に愛されるべき存在だから愛されるのか?いや違う。自分自身が幼いころから自分を許容できなかったことを振り返るとき、そういうものではない。ここでようやく「神」という存在にたどり着く。いや自分で推論したり瞑想したり思索してたどり着くのではない、神と出会うのだ。さらにいえば神から出会っていただくのだ。そのとき、ようやく人間は本当に神に自分が愛され、神に生きることを許容されていることを知る。「愛されている自分」というものがムード的なものであったり、耳当たりのよいきれいな言葉に過ぎないというものではなく、ほかでもない「神に」愛されているのだと知るとき、「愛されている自分」は真にリアリティが与えられる。本当に私は愛されているということに気づくのだ。

そして第二に「そのままで」という「そのまま」とは何なのか?ということが問題となる。弱くてダメなありのままの自分の「そのままで」なのだろうか?何のとりえもない自分のままでだろうか?性格の悪い嫌われ者のわたしのままでなのか?それらは全部半分は当たっている。どうしようもない自分の「そのままで」、たしかに神は愛してくださる。でも本当のところは「そのままで」というのは、神と離れている自分のままで、ということだ。神はご自分と離れている人間を愛してくださっている。神を敬うどころか、まったく無関心で興味も持たない、そして神を悲しませるようなどうしようもないことばかりしている人間をそのままで愛してくださっているということだ。神は本来「正しい」方なので、どうしようもない人間はお赦しにならない。<にもかかわらず>神はそんな人間を愛してくださっているのだ。

 つまり、本来は愛されるはずのない私が、たしかに愛されている、漠然となんとなく誰かから愛されているのではない。神から、私は、そしてあなたは、愛されている、それが聖書のメッセージだ。

 そしてそこから先が「だから」の話になる。ここに行くには実際のところ、救いとかキリストという話が必要になる(ほんとうはここまででも必要だけど)。でもごく単純にいうとすれば、愛されるはずのない私がそのままで愛されている、「だから」その愛にふさわしく生きることが大事ということ。

 あなたはたしかに(ありえないことに)そのままで<神から>愛されている、<だから>、そのままでいい、わけではない。あなたはすでに神に愛されているのだから、その愛にふさわしく生きていきなさい、愛されている者として、あなたも愛に生きなさい、それが聖書のメッセージだ。そのメッセージこそ、本当に人を生かしていくメッセージなのだ。


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2018年12月18日 (火)

新しい言葉へ

20181218_104853 怒涛のクリスマス・年末進行のなかで現実逃避。。。。。。

 今年は短歌の所属結社に三回しか作品を提出できなかった。

 R.ボーレンの「祈り」を読んで、祈りは詩の言葉となるし、霊的な響きは詩の言葉の響きの中にある、と感じた。それまでキリスト者であることと、「悲の器」としての短歌というものに齟齬があるように考えていたのだけど、そうではないと気づいた。なので、短歌を作ろう!と思ったが、、、、、三ヶ月しか続かなかった(涙)

 そもそも、短歌という詩型とキリスト者であることの折り合いはついたけど、まだ自分の中に別のわだかまりはある。本当に自分に短歌という詩型への愛があるのかなあという思いだ。

 率直に言って、牧師の中に詩を理解していない人がいる。理解していないだけならいい。でも理解していないのに、説教と詩について語るのだ。明らかに詩を誤解して語っているのだけど。。。。それがどうしても我慢ならない。繰り返すが、どーーーーーしても我慢ならないのだ。

 しかし、新米の牧師であり無名の歌人である私がそういう人に論理的にきちんと説明するなんてことはできない。いやそもそも詩を理解しない人に詩を説明することは不可能なのだ。

 でもなあ、少しくらいは言いたいよ。

 言うよすがとして、自分が無名であってもせめて短歌を書き続ける人でなければ、と思うのだ。だから短歌を作り続けよう、、、、もちろんこれって、短歌に対して失礼な動機だ。

 しかし、どーーーーーしても我慢ならないものは我慢ならない。

 詩を知らない人間が知ったかぶりして詩を語るなんて詩への冒涜だと思う。

 この情念の根源に<短歌愛>があると信じて、来年こそは、しっかり短歌を作ろう。

 詩は祈りであり叫びであり、言葉による世界の新しい創造だ。

 主が開かれる世界を言葉によって漕ぎ出すのだ。

 (にしても、2000円程度でKindleで斎藤茂吉全歌集が読めるようになろうとは、驚きの時代の進歩だ)


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2018年12月17日 (月)

同窓会のない人生

20140211_131418 大学時代や、最初に就職した会社の友達とは年賀状レベルでの付き合いはあるけれど、小中高時代の友達とはまったく疎遠に過ごしている。同窓会もない。いやあってるのかもしれないけど、案内は来ない。

 牧師になる前に退職した会社には26年勤めた。こちらは数人の方とは時々お会いするくらいのお付き合い。SNSでつながっている人もいる。つながっている方のSNSを見ると、その方のかつての職場の同窓会的なものが開催されていることがわかる。メンツを見ると、知っている人もいれば知らない人もいる、旧職場名を見ると、自分が直接所属していた職場ではない。だから当然、私は呼ばれない。

 職場によって、その職場が、組織変更で消滅したとしても、かつての仲間と同窓会的な集いをするような団結の固かったところもあるようだ。私自身は、比較的、異動の多い会社員生活で、どこかの職場でどっぷりと仲良く過ごしたという経験がほぼない。だから職場の同窓会もない。

 学校でも職場でも同窓会のない、なんだか人とのつながりの薄いさびしい人生のようにも思う。いや実際さびしい人生なのだ。

 では教会はどうか?

 洗礼を受けてから比較的早い時期に牧師として献身してしまったので、どこかの教会で長く信徒生活を送ったことがない。だからどこかの教会にたくさん懐かしい人がいるということもない。(懐かしい人はいますけどね)

 ずいぶん前、ある牧師から言われた。

 「あなたは短歌を作るような人だから、どこに行っても孤独だよ。」

 それは良く私のことを分かっているなあと感じる言葉だった。

 短歌というと新聞短歌とか中高年の趣味の投稿みたいな印象をもたれるかもしれないが、私は若い時期から中年に至るまで、かなり本気で短歌に心を砕いていた。詩の言葉を求めていた。表現者たろうとしていた。

 そう、そういう人間は孤独なんだ。

 いまも、言葉の中に生きている。いや、生きようとしているというのが正確かもしれない。

 こんなだから、天国に行っても同窓会はないな。

 まあそれも良いと思っている。イエス様相手に下手な詩を披露しよう。


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