聖書の話

2019年7月 2日 (火)

立派に生きるのはしんどい

バイブル・アワー イン ザ モーニング(大阪東教会 祝日&国民の休日を除く月・火・木・金 朝8時より)

今朝の聖書の言葉 2019.7.1

あなたがたの中で、知恵があり分別があるのはだれか。その人は、知恵にふさわしい柔和な行いを、立派な生き方によって示しなさい。 ヤコブの手紙3章13節

20190517-203222_20190702152201 「知恵にふさわしい柔和な行いを、立派な生き方によって示しなさい」こう言われると多くの人はひるんでしまうでしょう。そしてまたキリスト者というのはそういう「立派な生き方」をしないといけないのだと思うでしょう。また立派ではない自分はキリスト者にふさわしくない、立派ではないから教会に行けない、そういうように思う人もいるでしょう。大きな誤解を生む聖句だと思います。

しかしこの言葉の後でヤコブは繰り返し語ります。「知恵」とは上から与えられるものだと。つまり神によって「知恵」は与えられるのです。自分の中に知恵があり、自分の行いによって立派に生きると思っている時、それはとてもしんどい生き方になります。しかしなにより私たちは神からの「知恵」をいただくのです。上からいただいた知恵によって生かされる時、私たちは柔和なものに変えられます。自分の知恵であるならば、自分の知恵の正当性を示すことにやっきとなるでしょう。しかし上から与えられたものであるなら、そこには平安があります。上からの知恵は人間がやっきにならなくても良い実を結ぶのです。ですからおのずと柔和になれるのです。

 では人間は何も考えずに生きていったらいいのでしょうか?そうではありません。まず上よりの知恵を熱心に求めなければなりません。そして与えれた知恵がまことに上からのものか判断しなければなりません。私たちは自分の願望や誘惑からの思いを投影したものを、上からの知恵と考えてしまうこともあります。霊的にも知的にも正しく判断せねばなりません。そして与えられた知恵を、現実の中で、神から与えらえた自らの理性を使って、生かしていく責任はわたしたちにあります。私たちは神によってふさわしい行いをなすことができるように導かれます。


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2019年6月20日 (木)

神さまの背中に背負われて

バイブル・アワー イン ザ モーニング(大阪東教会 祝日&国民の休日を除く月・火・木・金 朝8時より)
今朝の聖書の言葉 2019.6.20
わたしはあなたたちの老いる日まで/白髪になるまで、背負って行こう。/わたしはあなたたちを造った。/わたしが担い、背負い、救い出す。 イザヤ書46編4節
20190510-070007  私たちは、人生の途上で孤独を味わったり、大きな試練の前で膝を折って力尽きそうになります。しかし、神は、そのような私たちを「担い、背負い、救い出す」とおっしゃってくださいます。とても慰められる力づけられる言葉です。
 しかし、この言葉を信じても、なお、試練の中で孤立するような思いを抱くことはあります。神はどこにおられるのか?やっぱり私は私の足でこの試練の崖を登って行かなくてはいけないではないか?結局、私のことなど背負ってくださらないではないか?そう感じる時もあります。
 でも、私たちには「わたしを背負ってくださらないのですか?あの言葉はどうなったのですか?」と問いかけることのできる神がおられるのです。苦しい崖を一人ぼっちでよじ登っているような時でも、私たちには問いかけることのできるお方がいるのです。そしてその問いかけにはかならず応えが与えられます。慰めと励ましが与えられます。
 そのとき私たちは知るのです。一人ぼっちで崖を登っているつもりだったけれど、実際は、自分が大いなる方に背負われていたことを。重い重いと思っていた私たちの重荷のほとんどを担ってくださっている方のおられることを。(重荷の大半は私たちの「罪」による重荷です)
 素直に神に問いながら、そして神が担ってくださっていることを知らされながら、歩んでいきましょう。神の大いなる背中に私たちをゆだねて今日も恵みの一日を過ごします。


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2019年5月24日 (金)

神の必要十分の内に生きる

バイブル・アワー イン ザ モーニング(大阪東教会 祝日&国民の休日を除く月・火・木・金 朝8時より)
今朝の聖書の言葉 2019.5.24
だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。 マタイによる福音書6章34節
20170101-134821  この言葉は「人生なるようにしかならないのだから、明日のことまでくよくよ思い悩まず生きなさい」ということではありません。ある種のポジティブシンキングでもありません。
 「だから」で言葉は始まりますが、この言葉の前には「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」と書いてあります。これらのもの、とは、生活の必要すべてです。つまり神の国と神の義を求める者は、神が生活の必要はみな与えられるのだから、明日のことを思い悩まなくて良いと聖書は語っているのです。つまり思い悩まなくてよい根拠は、人間の心の持ち方にあるのではなく、神にあるのです。
 では、神さまを信じていたら衣食住すべて満たされてラッキー!なのでしょうか。しかし、聖書は「その日の苦労はその日だけで十分である」と語っています。神様が必要を満たしてくださるからといって苦労がないわけではないのです。私たちの日々には、やはり苦労があるのです。試練があり、困難があるのです。
そしてまた神様は確かに必要を満たしてくださいますが、それは人間からみて十分と思えるものでないこともあるかもしれません。荒れ野を旅したイスラエルの民はそれまで食べていた肉鍋でなく、マナという不思議な食べ物を与えられました。来る日も来る日もマナばかり。民は肉を食べたい!と叫びました。自分の命を狙う権力者から逃亡した預言者は水とパン菓子で養われました。
 しかし、荒れ野を旅した民も、逃亡した預言者も、それぞれに神の特別な意思の内に生かされていました。なぜマナを与えられたのか、なぜパン菓子と水だったのか。それぞれに意味があったのです。人間の側からしたら、欠乏や不便と思えることの内に豊かな神の恵みがあるのです。
そもそも、神と共に歩むこと、神の恵みを感じて平和に生きていくこと、それが人間にとってもっとも「必要」なことです。あり余るほどのモノや贅沢や地位や権力よりももっともっと必要なもの、そのもっとも必要なことへと神は人間を導かれます。そのために神は日々の必要をも満たしてくださいます。人間から見て必ずしも十分ではないことの内に、神の必要十分があるのです。その必要十分の内に、思い悩むことなく、私たちは今日を生きて行きます。


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2019年5月23日 (木)

みことばを内側に

バイブル・アワー イン ザ モーニング(大阪東教会 祝日&国民の休日を除く月・火・木・金 朝8時より)
今朝の聖書の言葉 2019.5.23
幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。  ルカによる福音書11章28節
20160529-083842  神の言葉を聞き、守る、それは信仰者として当たり前のことのように聞こえます。信仰を持っていない人でも、信仰者って神様の言葉を聞いて守っている人だろうと一般的に考えているでしょう。
 逆に、自分には到底、そのような生き方はできないから信仰からは遠ざかっておこうと思う人もあるでしょう。信仰者は立派な人で、自分にはそれは無理と考える人もいるでしょう。実際、クリスチャンでない人からそういったニュアンスの言葉を聞くことは多いのです。また自分自身、クリスチャンになって(自分のことは棚に上げて!)他のクリスチャンの立派でないところ、神の言葉を守っているとは到底思い難いところ、を見て、「クリスチャンのくせにあの人は何なんだ!」と憤ったりしたことがあります。
 そもそも守る、という言葉の原語には、保管するというニュアンスもあるそうです。つまり神の言葉を自分の内側に持っておく、自分の中で大事に管理しておくというニュアンスです。そしてまたそれは、イエス・キリストご自身に自分の内側にいていただくということでもあります。聖書の言葉を聞いて、「ああ良い言葉だなあ」と<外側>で聞くのではないのです(もちろんそれも大事ではありますが)。言葉そのもの、そしてイエス・キリストそのものが<内側>にあることが大事なのです。
 たとえば「あなたの敵を愛せ」という聖書の言葉を聞いて、すぐにこの言葉の内容を100%行える人はいないのではないでしょうか。しかし、とうてい行うことは無理と思えるその言葉を、私たちは内側に携えておくのです。そして、実際に十字架の上で、ご自分を殺そうとする人々、侮蔑する人々のために祈られたイエス・キリストのお姿を自分の内側に抱いておくのです。そうすると少しずつ私たちは内側から変えられていくのです。自分で努力をして敵を愛する者になるのではなく、内なるイエス・キリストに変えていただくのです。
 私たちは神の言葉を内側に持って生きていくとき、まさに神の言葉を行う人とされていくのです。幸いな人とされるのです。今日も神の言葉を携えて幸いな人としてこの世界に出て行きましょう。


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2019年5月20日 (月)

一分一秒たりとも

バイブル・アワー イン ザ モーニング(大阪東教会 祝日&国民の休日を除く月・火・木・金 朝8時より)
今朝の聖書の言葉 2019.5.17
わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者、初めであり、終わりである。  ヨハネの黙示録22章13節
20190517-203222  最初があり、終わりがあります。一直線に、初めから終わりへと流れる時間軸のなかに神の救いの壮大な物語があります。世界の時間はぐるぐると循環するのではありません。人間の一生の時間も最初があり終わりがあります。
そして、世界の最初から終わりまでおられるイエス・キリストが救いを成就されます。イエス・キリストは2000年前、ポンとこの世界に来られたのではなく、<最初から>おられたお方です。
 私たちの人生の時間は、この世界においては、一瞬のようです。どれほど大きな功績を残そうが、とてもはかないものです。しかしそのはかない私たちの一生の時間を豊かに導いてくださるのが、初めであり終わりである方です。初めから終わりを貫いて、永遠までも私たちの命を輝かせてくださるのがイエス・キリストです。
 徒労のように見える歳月も、辛い日々も、すべてに意味があり、初めであり終わりである方によって、輝かせていただくのです。一分一秒たりとも私たちの人生には無駄な時はありません。今日もすべての時をイエス・キリストによって輝かせていただきましょう。


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2019年5月14日 (火)

逃げるは恥だが

バイブル・アワー イン ザ モーニング(大阪東教会 祝日&国民の休日を除く月・火・木・金 朝8時より)
今朝の聖書の言葉 2019.5.14
主がその御翼のもとに逃れて来たあなたに十分に報いてくださいますように。ルツ記2章12節
20180424-093804    旧約聖書のルツ記に出てくるルツは賢婦人と言っていいでしょう。ルツは、夫を亡くしたのち、まだ若く再婚のチャンスもあったはずなのに、姑に仕え、姑の故郷のイスラエルにまで、ついていきます。ルツはイスラエル人ではなく、ルツにとってイスラエルは未知の国でした。姑とイスラエルに戻ると、ルツは当然、外国人のやもめ女として好奇の目にもさらされたでしょう。しかし、彼女は堅実に働き、その健気さゆえ、周囲の人々にも受け入れられていきます。そのルツに対して、「神が報いてくださるように」と、のちに夫となるボアズは祈りの言葉を語ります。
 ルツのように健気な女性であるゆえ、神は報いてくださるのでしょうか。そうではありません、神は「その御翼のもとに逃れて来た」者にはだれにでも報いてくださいます。よく、困った時の神頼みと言います。普段は神のことなど考えていなくても、どうにも困ったことがあると神や仏にすがろうとする姿勢を揶揄した言葉です。しかし、仮に困った時の神頼みであっても良いのです。神を逃れ場としてやってきたあなたを神はけっして追い返したりなさいません。
 大事なことは、御翼のもとに逃れていくことです。私たちは多くの重荷を負い、多くの傷を受け、日々生きていきます。その重荷や傷をすべて神のもとに持っていくのです。数年前、「逃げるは恥だが役に立つ」という面白い題のテレビドラマが話題になりました(私はドラマは観ていませんが)。私たちは逃げて良いのです。神のもとに逃げていくことはちっとも恥ではありません。神は逃げて来た私たちの重荷を軽くし、傷を癒してくださいます。存分に神は私たちに報いてくださいます。そしてまた新しく生きる力を与えてくださいます。
 繰り返し繰り返し、神のもとに逃れて行きましょう。豊かに報いを受けましょう。神の報いは、祝福です。


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2019年4月25日 (木)

喜びの人生?そんなの嘘?

バイブル・アワー イン ザ モーニング(大阪東教会 祝日を除く月・火・木・金 朝8時より)
今朝の聖書の言葉 2019.4.25
朝にはあなたの慈しみに満ち足らせ、生涯、喜び歌い、喜び祝わせてください。 詩編90章14節
20150518-075121  神と共に歩む人生には、生涯、喜びがあります。現実生活には困難があり、苦しみがあろうとも、なお喜びは取り去られません。それは、物質的には満たされていなくても、心は満足をしている、という精神論ではありません。
 神と共に歩む時、私たちは私たちの人生におけるもっとも大きな重荷を取り去られているのです。罪という重荷を取り去られているのです。逆に言うと罪という重荷を取り去られたので、神と共に歩むことができるのです。根本的な苦しみの源、痛みの源を取り去られ、神と共に歩むことができるのです。ですから私たちは喜び歌い、喜び祝うのです。
 神と共に歩む時、現実生活も変えられます。困難があっても、神は私たちの祈りに応えてくださいます。私たちは神の助けを祈り求めることができます。そして神は必ず助けてくださるお方です。その助けに信頼して歩む時、どのようなことがあろうとも、私たちの心から喜びは取り去られません。
 私たちは歯を食いしばって忍耐して神に従っていくのではありません。重荷を取り去られ、身も心も軽く、助けてくださる神と共に喜びを持って歩んでいくのです。子供がリュック一つ背負って遠足に行くように、神と共に、身も軽やかに歩んでいきます。まだ知らぬ道、少し風の強い丘、ちょっと怖い森、美しい園etcを神と共に喜びながら歩んでいきます。


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2019年4月23日 (火)

気を落とさずに絶えず祈り続ける

バイブル・アワー イン ザ モーニング(大阪東教会 祝日を除く月・火・木・金 朝8時より)
今朝の聖書の言葉 2019.4.23
言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。ルカによる福音書18章8節
20140703-1944381  この言葉は「気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために」主イエスが語られた言葉の最後にあります。裁きというと硬いイメージを持たれるかもしれません。イエス様の時代、不正がはびこり、正しいことが正しいとされず、弱者は虐げられ、悪を犯したものは正しく裁かれませんでした。聖書の中の裁きは神の裁きであり、人々はその正しい裁きの時を待っていました。裁きの時は、待望の時だったのです。
 もっとも、正しい裁きがないという点では、現代でも同様でしょう。権力への忖度やら有形無形の圧力によって、社会から公正さが失われています。若い人はご存じないかもしれませんが、水戸黄門やら大岡裁きみたいな、最後に悪がぎゃふんといわされるドラマで溜飲を下げるということがかつてはありました。(今でも、かつてより、やや屈折した流れながら最後には正義が勝つというパターンのドラマはありますが)しかし、そういうドラマのように、悪がぎゃふんといわされるようなことは現実にはほぼありません。
 一方で聖書は語ります。仮に神の正しい裁きの時が来るとき(つまり裁き手として「人の子=イエス・キリスト」が来るとき)「果たして地上に信仰を見いだすだろうか」と。私たちは自分を正義の方に置いて、悪が滅ぼされればよい、悪い奴が懲らしめられたら良いと考えがちです。しかし、私たち自身はどうなのでしょうか?ただしい裁き手の前で潔白であると言える存在でしょうか?けっして言えないと思います。人間は裁き手(=神)の前で誰一人として潔白ではないのです。ただ、イエス・キリストを信じる信仰によって、「潔白とみなしていただける」存在なのです。
 もちろん、私たちは誰一人として神の前で潔白でないといっても、この世界の不正に目をつむって良いというのではありません。むしろ、だからこそ、自分と世界の正しい裁きのために、気を落とさずに絶えず祈り続けなければなりません。それが信仰です。


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2019年4月22日 (月)

あなたは遣わされています

バイブル・アワー イン ザ モーニング(大阪東教会 祝日を除く月・火・木・金 朝8時より)
今朝の聖書の言葉 2019.4.22
あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。ヨハネによる福音書20章21節
20190419-093858  通常、平和というと戦争や争いのない状態を考えます。しかし、聖書における平和はなにより神と人間の間に平和があることを示します。神と人間が争っていた、という実感は多くの人にはないでしょう。しかし、神を知らない、あるいは神に無関心である、そこにすでに神に対する罪があります。神を知らず自分中心に生きていく人間は、神から見たら神へ敵対している存在です。
 しかし、イエス・キリストの十字架と復活によってその敵対関係は解消されました。イエス・キリストが神と人間の間の和解のための使者となってくださいました。イエス・キリストを信じる時、わたしたちは神との平和をいただきます。神との平和はすべての基盤となります。神との平和を得た者は隣人との平和も得るのです。逆に言いますと、隣人との平和は、神との平和があってはじめて実現されるのです。
 そして神との平和を得た者は、平和の使者として、この世界に出て行くのです。それはなにか大げさなことをするのではないのです。神との平和を得た喜びのうちに日々を歩む時、おのずとその平和が広がっていくのです。それは見た目には分からないことかもしれません。平和どころか、いつも周囲との人間関係に悩まされているということもあるかもしれません。しかしなお、あなたは平和の使者なのです。あなたの一歩一歩がだれかの平和の源となっているのです。平和の源となるようにあなたはすでに遣わされているのです。


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2019年4月19日 (金)

キリストのそばに

バイブル・アワー イン ザ モーニング(大阪東教会 祝日を除く月・火・木・金 朝8時より)
今朝の聖書の言葉 2019.4.19
「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。ルカによる福音書23章42-43節
20190317-194739  十字架にはイエス・キリストのほかにふたりの犯罪者がつけられていました。そのふたりは、過激派の政治犯とも、強盗とも言われています。いずれにせよ、おそらくふたりとも十字架につけられても、自分の為してきたことへの後悔とか罪悪感ということは感じていなかったであろうと思われます。
 ふたりのうちの一人は、イエス・キリストの横で十字架にはりつけにされながら、同じように十字架にはりつけにされているイエス・キリストの様子を見て、なにごとかを感じました。イエス・キリストは自分と同様、残酷な刑罰を受けて、極限の苦しみの中にありながら、人々のために祈っておられました。苦しみのあまり、自分を十字架につけた人々を罵ったり呪ったり泣き言を言うことはありませんでした。そのお姿を見て、この犯罪者は分かりました。このお方こそ、神のもとから来られた方であると。
 それが分かったとき、初めて、その犯罪者は自分の罪を悟りました。自分の正義に基づいて自分が為してきたこと、あるいは、なんの罪悪感もなくなしてきたことが神の前で大きな罪であったことを悟りました。
 人間が罪を悟るのは、懲らしめられたからでも(実際、というとてつもない懲らしめを犯罪人は受けていたのです)理路整然と諭されたからでもなく、大きなる愛に触れたときなのです。弱弱しくみじめなお姿で、なお、人々のために祈っておられた主イエスの姿に犯罪者は大いなる愛を感じました。そして自分の罪の大きさを知りました。
 その罪の大きさゆえ、この人はイエス・キリストに「あなたの御国に入れてください」とは言えませんでした。救ってくださいとは言えなかったのです。自分の罪の大きさを思えばそのようなことは願えないと考えたのです。
 しかしこれは十字架にかかるような犯罪者だけのことではありません。私たちも、神の前で、「御国に入れてください」とは到底言えない人間です。それぞれに神の前で大きな罪を抱えた人間にすぎません。
 しかしすべての人間に対して、イエス・キリストはおっしゃるのです。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と。いつか天国に行くのではなく、今日、今、あなたはもう私と楽園にいるとおっしゃるのです。楽園にいる、とは罪を赦され、神と共に平安に生きることです。その言葉は、ただイエス・キリストと共にいる、キリストのそばから離れずにいるときに語りかけていただくものです。犯罪者は自分でイエス・キリストのもとに向かったのではありません。イエス・キリストの恵みのゆえに、その傍らにいさせていただいたのです。私たちもまたイエス・キリストの傍らから離れずに生きていきます。聖書の言葉と共に生きるとき、私たちもまたイエス・キリストの言葉を聞きます。「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」という恵みの言葉を聞くのです。


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