聖書の話

2018年12月14日 (金)

あなたは迷子です

バイブル・アワー イン ザ モーニング 今朝の聖書の言葉 2018.12.14
神が御子を遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。 ヨハネによる福音書3:17
20141129_160135_2
 私は方向音痴です。最近はスマホのナビに助けられて以前ほどは道に迷わなくなりました。以前は、ほんの目と鼻の先、本来なら徒歩五分くらいのところに行くのに30分以上かかったりしました。よく考えると自分は方向音痴だと自覚していながら、実は、違う方向にさっさと歩いて行ってしまうところがありました。なぜこっちの方向に向かっているのか分かっていないくせに、ずんずんと行ってしまって迷ってしまう。どうにもならなくなって、どうにか人に聞いたりしながら、ようやくたどり着いたりします。
 しかし、人生の歩みということを考えるとき、すべての人間は迷っているのです。こっちだ、と思って歩んでも目的地に着かない。真っ暗闇の中を手掛かりもなし歩んでいるようなものです。そして本当は迷っていながら、迷っている自覚がないのです。迷っていると思わないから人に道を聞いたり助けを求めたりしないのです。本来は、人間は一人では歩けないのです。助けがいります。迷っているとき救ってくれる人がいるのです。
 神の御子、イエス・キリストは救い主としてこの世界に来られました。迷っている人間を救うために来られました。暗闇の中で歩んでいる人が迷わないように、一筋の光が灯されるように、イエス・キリストは私たちの日々を灯してくださいます。
 都会にはいまクリスマスのイルミネーションが美しく輝いています。しかし、本当のクリスマスはあなた自身に灯されている、あなたに向かって輝いているただ一つの光に気づくことなのです。その光に気づいたとき、あなたは自分が暗闇の中で迷っていたことに気がつきます。そしてイエス・キリストが迷子になっていた私たちを救ってくださることに気がつきます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年12月13日 (木)

力づけてくださる神

バイブル・アワー イン ザ モーニング 今朝の聖書の言葉 2018.12.13
主はわたしのそばにいて、力づけてくださいました。 テモテへの手紙Ⅱ4:17
20150201_071009
 神様がそばにいて力づけてくださる、そう語っているのはキリスト教の草創のころの伝道者パウロです。神様がそばにいて力づけてくださるなんて、素晴らしいことです。そんなことはありえない、と思われますか?
 たしかに神様のお姿は目に見えませんし、声も聞こえません。落ち込んでいるとき肩をポンポンと叩いて励ましてくださることもありません。洗礼を受けてすぐのころ、不遜なこともかもしれませんが、私は「神様とお酒でも飲んで気楽に話せたら良いのに」なんてことも考えたことがあります。もちろん神様と居酒屋に行って愚痴を聞いてもらうようなことはできません。
 でも、神様はすでにそばにおられるのです。力づけてくださるのです。この言葉を語ったころ、パウロは仲間から見捨てられていました。迫害を受けて取り調べを受けたのに仲間は助けてくれなかったのです。でも、神様はそばにおられました。ですからパウロはむしろ見捨てた仲間のために祈ることができました。
 とても気持ちが沈んでいたとき、アメリカに出張に行くことがありました。アメリカに行ったのはその時が初めてでした。その日、サンブランシスコの夕暮れは、土砂降りでした。しかし、小高い丘の上に来たとき、雨がやみました。そして雲が切れて、その雲の間から美しい夕日が見えました。ああアメリカの夕日だと思いました。(太陽は一つですから、アメリカの夕日も日本の夕日も本当は変わらないのですけど)それまでの一年、本当に公私ともにたいへんなことがありました。しかし、その時、神の励ましを感じたのです。夕日を見ながら、今日だけではない、この一年神に守られていたことを感じました。
 だれも助けてくれない、孤独に戦ったいる、そう思っていても、神に心を向けるとき、すでに神が共にいてくださり助けてくださっていることが分かります。神は今日も私たちを力づけてくださっています。神に心を向けるとき、それは聖書のイエス・キリストを知るということでもありますが、神がたすけてくださっていることが、とてもよくわかります。


キリスト教ランキング

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年12月11日 (火)

あがない

バイブル・アワー イン ザ モーニング 今朝の聖書の言葉 2018.12.11
20140127_104312
キリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。 コリントの信徒への手紙Ⅰ1:30
 「贖い」という難しい言葉が出てきます。「贖い」は「償い」と似ているようにも感じます。「償い」は自分の故意や過失で起こした悪いことに対してをお金や行動で埋め合わせする、賠償するということです。それに対して「贖い」というのは、親族が失った財産をお金を払って取り戻したり、奴隷に対してお金を払って解放することをいいます。ざっくり言いますと、償いは自分自身で行うものですが、贖いは当事者ではない第三者が行うものです。
 キリストは贖いとなられました。私たちの贖いとなられたのです。私たちを買い取ってくださったのです。取り戻してくださったのです。私たちは奴隷だったのです。え?私は奴隷だったことなどない?そうでしょうか。私たちは皆罪の奴隷だったのです。もちろん、多くの人は犯罪は犯さず、きちんと社会生活、日常生活を送っておられます。しかし、なお人間には根源のところで罪があります。神と共に生きていない、神から離れているという罪があります。そこからさまざまな悪が生じてきます。罪という根っこから良くないものが起きてくるのです。神に対する罪は罪を犯している人間が償うことはできないのです。罪は神に対する借金のようなものです。その借金を返済できるのは罪のないキリストだけです。ですからキリストは贖いとなってくださり、罪人である私たちを救ってくださいました。罪の借金を返すには命を差し出さねばなりません。罪というのはそれほど重いことなのです。キリストは十字架に命を差し出して贖いとなってくださいました。
 クリスマスはキリストのこの世界での誕生を祝うものですが、実際のところ、キリストはこの世界に、十字架にかかりに来られたのです。私たちを贖うために来られたのです。街には華やかなイルミネーションが輝いています。クリスマスの装飾はロマンチックな雰囲気や、牧歌的な雰囲気にあふれています。しかし、クリスマスの出来事は、十字架へと向かって神がその御子を世界へと送り出された出来事です。そこにこそ神の愛があったのです。その神の愛に感謝してクリスマスを迎えましょう。


キリスト教ランキング

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年12月10日 (月)

祈りこそ力

バイブル・アワー イン ザ モーニング 今朝の聖書の言葉 2018.12.10
そこで、まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝をすべての人々のためにささげなさい。 テモテへの手紙Ⅰ2:1
20181203_181522
 よく万策尽きたとき「もう祈ることしかできない」と言います。この言葉は、人間が何もできない状態、人間の力や努力が及ばない状態において、否定的なニュアンスで語られます。しかし、神への祈りには力があります。祈りほど力があるものはないのです。私たちは神という存在に祈ることができます。そして祈りは神によってかならず聞かれます。
 「困ったときの神頼み」と言います。普段は神や仏のことなど考えていなくても、どうにも困った状態になったとき、神に頼んでしまう。この言葉も否定的に使われますけれど、困ったとき、どんどん神に頼んだらいいのです。
 ただし、その祈る先の神が聖書に記されている神であることは意識なさるべきでしょう。この世界の唯一の神であり、この世界を創られた全知全能の神に対して祈ることが大事です。ボールを投げるとき空(くう)に向かって投げません。受け止めてもらえる相手に向かって投げます。神は必ず受け止めてくださいます。私たちの投げ方がどんなに下手でも受け取ってくださいます。
 祈った瞬間、変わっていくのです。その変化は私たちにはすぐには感じられないかもしれません。いやそれどころか、祈っても祈っても何の変化も起こらないとすら感じられるときもあります。しかし、祈りは100%聞かれているのです。そして現実は変えられていくのです。神はもっとも良き時にもっともよい形で私たちの願いを聞いてくださいます。そのことを信じて祈りましょう。


キリスト教ランキング

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年12月 7日 (金)

自分探しは不要

20171122_103634_2バイブル・アワー イン ザ モーニング 今朝の聖書の言葉 2018.12.7
主よ。あなただけが地上のすべての王国の神であり、あなたこそ天と地をお造りになった方です。列王記下19:15
 神は天と地を創られました。天と地とは空と地上というのではなく、全宇宙ということです。この世界は神によって創られました。偶然によってできたのではなく、神によって創られました。その宇宙の中の一人一人の人間もまた偶然生まれてきたのではありません。神によって創られたのです。神が目的を持って創られました。私たち一人一人には生きる意味があり、生きる目的があるのです。
 最近ははやらないのかもしれませんが、「自分探し」というような言葉がありました。なぜ自分が生きているのか?生きている目的は何なのか?自分は何をしたらよいのか?それらは基本的には自分で探しに行く必要はないのです。神が一人一人に備えてくださることです。神が私たちに使命を与えてくださいます。その使命に生きるとき私たちは本当の生きがいや心からの喜びを感じるのです。
 それでは、神の使命に生きていれば、つらいことや悲しいことはないのか?そうではありません。やはり私たちの日々には困難はあるのです。八方ふさがりにみえるようなときもあります。神がおられるならなぜ困難があるのか?それは人間には理解できないことです。しかし、どのような困難やつらいことにも意味があるのです。その意味をすべて私たちが理解できることはできないかもしれません。しかし、神の使命に生きるとき、私たちの日々には無駄なこと、不要なことは何一つありません。
そしてまた、困難な時、わたしたちは神に助けを求めることができます。天と地を創られた、全宇宙を創られた神であるからこそ、私たちは助けを求めることができるのです。人間が勝手に作り上げた神ではありません。ですから私たちは信頼して助けを求めることができるのです。


キリスト教ランキング

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年12月 6日 (木)

あなたを支える言葉

20181204_115059バイブル・アワー イン ザ モーニング 今朝の聖書の言葉 2018.12.6
シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょう。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。」ヨハネによる福音書6章68節
 どんなに素晴らしい人であっても、尊敬できる人であっても、完ぺきな人はいません。不完全で欠けたところを持っています。この人についていこう、と思ってついて行っても、ある時、幻滅することも往々にしてあります。今日の聖書箇所でイエス・キリストの弟子であるペトロは「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょう。」、つまり、私たちはほかの誰にもついてはいかない、ただ、あなたと共にいます、と答えています。その理由は、「あなたは永遠の命の言葉を持っておられ」るから、というのです。
 イエス・キリストはその生涯において、多くの奇跡をなされました。病人を癒し、困った人を助けられました。しかし、そのような人間離れした能力や力を持っているから、あなたについていきます、とペトロは言っているわけではないのです。
 「永遠の命の言葉を持っておられるから」なのです。病気が治っても、人間はいつかは死にます。トラブルが解決できても、人生にはまた新たなトラブルがやってきます。根本的な解決、救いには至らないのです。もっとも大事なことは、あなたの命を根本的に支えてくれる言葉なのです。あなたが絶体絶命のピンチにあるとき、あなたを決定的に支えてくれる言葉が必要なのです。現実的な解決はそのあとに来るのです。あなたが仮に死の床にあるときであっても、もう残された時間が少ない時でも、なおあなたを支え、平安を与えることのできる言葉があるのです。それがキリストの語る言葉であり、聖書の言葉です。永遠の命をもった言葉です。肉体の命を越えて、湧き出でる水のようにあなたの心の深いところから渇きを癒してくれる言葉です。
 癒しとか、リラクゼーションと言った言葉をよく聞きます。マッサージとか、温泉とか、気の合った人と食事をするとか、そういうことでほっとできるというのはたしかにあります。わたしももちろんそういうことはします。しかし、人間の深いところからあなたを癒し平安を与えてくれるのは、永遠の命の言葉だけです。イエス・キリストの言葉によって、私たちは今日もまことの生き生きとした命に生かされます。


キリスト教ランキング

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年12月 4日 (火)

冒険が始まる!

20181204_114925_2バイブル・アワー イン ザ モーニング 今朝の聖書の言葉 2018.12.4
天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」ルカによる福音書1章28節

 少女マリアのところに天使ガブリエルが来て語りました。天使と聞いただけで何かおとぎ話のような、神話のような印象を持たれるかもしれません。皆さんや皆さんの周りにはおそらく天使と話をしたことがあるとおっしゃる方はおられないでしょう。
そしてこの場面は絵画などでも良く描かれている「受胎告知」の場面です。おとめマリアは処女でイエス・キリストをみごもったと聖書に記されています。その懐妊を知らせる場面の言葉なのです。浮世離れした作り話のように聞こえてしまう方もおられるでしょう。現実にあり得ないことだと感じられるでしょう。

 たしかにそうなのです。神の出来事はあり得ないことなのです。人間が思いつくようなこと、常識的なことではないのが神の出来事です。聖書には非科学的と思われる多くの奇跡物語が記されています。それらの奇跡を科学的に辻褄が合うように説明しようとする人々もいます。しかし本来、人間からは説明のつかないこと、それが神の出来事です。

 そんなとんでもない神の出来事と遭遇したマリアとは、聖母マリアとかアベ・マリアと言われる女性です。このときマリアは現代でいうと中学生くらいの少女でした。イスラエルの田舎町の少女でした。天使は「おめでとう」と言いましたが、少女にとっては実はおめでたいことではありませんでした。というのは、当時、マリアは婚約をしていましたが、まだ結婚をしていませんでした。結婚をしていない女性が妊娠するということは、当時はありえないことでした。もし妊娠が発覚したら、死刑になるようなことでした。ですから天使の告げたことはマリアにとって命の危険を伴うことでした。

 しかし、マリアは、天使のお告げを受け入れます。天使は神の使いですから、否応なく受け入れるしかなったから、ではありません。神は人間の自由意思を尊重される方です。ですからマリアはここで天使に断ることもできたのです。しかし、マリア断りませんでした。天使ガブリエルがいった「主があなたと共におられる」という言葉を信じたからです。「主が共におられる」つまり神が共にいてくださる、そのことを信じたのです。

 しかし、神が共にいてくだされば、何一つ不自由はなく、毎日幸せで平和か、というとそうではありません。神が共におられる時、神は私たちの日々に介入なさいます。もちろん、神は悪いことをなさるわけではありません。しかし、神のなさることは人間には理解できないことが多いのです。人間から見たら、「なぜこんなことが起こるのだ?!」というようなことも起こるのです。

 クリスマスが近づいています。クリスマス前の4週を教会では「アドベント」と言います。「アドベント」は「到来する」というラテン語ですが、英語の「アドベンチャー」、冒険という言葉も同じ語源を持つと言われます。つまり神の御子であるイエス・キリストが到来するということは、新しいことへ踏み出す冒険の始まりも意味します。イエス・キリストが到来する、神が共にいてくださる、それは冒険なのです。マリアはその冒険を受け入れたのです。平坦な道ではない、でも喜びに満ちた神と共に歩む冒険の日々を受け入れたのです。私たちにもアドベントがやってきました。冒険の季節がやってきました。神と共に歩むのです。喜びの内に歩むのです。困難はあるでしょう。ハラハラドキドキ、絶体絶命と思えるときもあるでしょう。しかしなお、神が共にいてくださるとき、それは大いなる喜びの歩みなのです。


キリスト教ランキング

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年12月 3日 (月)

もっともへりくだってくださった方

20181202_1010431バイブル・アワー イン ザ モーニング 今朝の聖書の言葉 2018.12.3

「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

マタイによる福音書2312

 高ぶる者、偉そうにしている者は、低くされる、とあります。最近、大企業の有名なトップが逮捕されましたが、地位や権力に溺れる者はその座を失い、謙虚な者は道が開かれるというような、人生訓のようにも聞こえる言葉です。人間は謙虚でなくてはいけない、それはたしかにそうでしょう。しかし、現実はどうでしょうか?高ぶる者は結局、高ぶり続け、へりくだる者は、へりくだり続けなければならないのが現実なのではないでしょうか?ガンガン自分を押し出してアピールした方が上に行き、へりくだっていたらずっと下でくすぶっている、そんな世界ではないでしょうか。良い意味でも悪い意味でも、高さを求めるとき、そこには過酷な戦いがあります。生き馬の目を抜くような戦いがあります。戦いに負けた者でも、本当のところは高ぶりたいという心があります。へりくだるより高ぶりたいというのが多くの人間の心です。

 聖書はそのようなこの世界のことを語っているのではありません。神のことを語っています。神の前で高くされることを語っているのです。神の前で安らかな心を持つことを語っているのです。私たちはただ神の前にへりくだって、その恵みを受ければいいのです。神の前で自分の正しさや立派さをアピールする必要はないのです。神は何もかもご存知です。私たちの良いところも悪いところも。でも安心してください。悪いところを断罪したり、査定されるわけではありません。自分の弱さも欠点もそのままに神の前にへりくだるとき、本当の平安が与えられます。そして本当に私たちにとって大事なことは何かということがわかります。

 世間はクリスマスシーズンです。クリスマスはイエス・キリストという方がお生まれになったことを祝うものだということはご存知でしょう。イエス・キリストは、神の御子でした。その神の御子のこの世界でのその生涯の最後は、犯罪者としての死刑でした。十字架という、当時ではもっとも恥ずべき刑罰をお受けになり亡くなられました。犯罪者の中でももっとも悪質な犯罪者として死なれたのです。王や権力者になられたのではありません。もっともこの世界の下の者として死なれました。神の御子であられた方が、天の高みからへりくだってこの世界に来られた、それがクリスマスの出来事です。そしてその生涯の最後にさらにもっともへりくだってくださった。そのへりくだってくださったお方はただ、何の意味もなく殺されたのではありません。へりくだることのできない私たちを救うために死なれました。

世界でもっともへりくだられた方は、今はもっとも高くされ、父なる神のもとにおられます。そして私たちが自分自身のへりくだることのできない罪によって父なる神の前で滅びることのないようにとりなしてくださっています。だから私たちは安心していいのです。もっともへりくだってくださったお方のゆえに、私たちはかならず父なる神のみ前で高くしていただけるのですから。


キリスト教ランキング

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年11月30日 (金)

20181122_111853バイブル・アワー イン ザ モーニング 今朝の聖書の言葉 2018.11.30
「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。」
ヨハネによる福音書10章9節
 門というのは内側と外側をつなぐ入口です。開いているときもあれば閉じているときもあります。「狭き門」という言い方もします。固く閉ざされて人の入ることを拒むときもあれば、開かれて多くの人が入ってくるときもあります。
 人間には閉ざされていた門がありました。神への門です。アダムとエバの話を聞かれたことはないでしょうか?アダムとエバは神に逆らいました。神に対して罪を犯したのです。アダムとエバの出来事は昔話や神話ではありません。私たち一人一人のことです。私たち一人一人が神から離れ、神に背いていたのです。ですから神と私たちの間には断絶がありました。神と私たちの間の門は閉ざされていたのです。
 2000年前、イエス・キリストは「わたしは門である」とおっしゃいました。イエス・キリストが神と私たちの間の門となってくださったということです。イエス・キリストという門を通れば、私たちは神と出会えるのです。閉ざされた門を力づくでこじ開けるのではありません。門を開けるために特別な修行や訓練をするわけでもありません。ただイエス・キリストというお方を知り、その方を通じて私たちは神と出会うことができるのです。
 キリストという門を通って入る者は救われるのです。神と出会うとき救われるのです。私たちの日々のさまざまな苦しみや悲しみの根っこには「神から離れている」という原因があります。しかしいまや神への門は開かれました。それが2000年前のクリスマスの出来事です。神から離れていた私たちに神への門は閉ざされていました。しかしいまやキリストご自身が門となってくださいました。私たちはその門を通って神と出会います。そのときすべてのことが変わります。私たちはキリストの門をくぐるとき、まったく新しく生きていくことができるのです。


キリスト教ランキング

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年11月29日 (木)

見えない者は見えるようになる

 バ20181115_151147イブル・アワー イン ザ モーニング 今朝の聖書の言葉 2018.11.29

「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」

ヨハネによる福音書939

 生まれつき目の見えない友人がありました。その方の家に行くと、玄関に花が飾ってあるのです。やはり目の見えないご主人と二人暮らしで、ちゃんと自活しておられました。目が見えない彼女が、来客のために、花を飾ってくださっていたのです。花に触れた感触、香りそういうものを手掛かりに、来てくださる方のことを思って美しく飾ってくださっていました。彼女は肉体の目は見えませんでしたが、訪ねてくださる人々の心が見えていたのです。訪問してくださる方が少しでも和むようにと自分には見えない花を飾っておられました。目の見える人間が豪華な調度品やおいしい食事でもてなすよりも、もっと大切なことを彼女は知っていたのです。

 彼女に比べて私はいろんなことが見えていないのではないか?彼女と楽しく歓談しながら感じることが多くありました。肉体的な目が見えている、さらにいえば、目の見えない彼女より自由に行動できて、いろいろなことを知っている、経験がある、でも、私には見えなくて彼女には見えていることがある、そう感じました。

 そもそも自分にはよくよくものの道理が見えている、そう思っているとき、私たちはおそらく見えていないのです。一番、見えていないのは、自分の心の底にある罪です。自分の経験、スキル、財産、そういうものは見えていても、自分の心の底の罪は見えないのです。

 <見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる>なぞかけのような言葉です。でも私たちは、自分がいろいろなことを見えている、知っていると思っているとき、本当は見えていないのです。でもそのことが自分ではわかりません。私たちは見えていると思うのです。しかし、イエス・キリストと出会うとき初めて、私たちは自分が見えていないことを知ります。自分の罪が分かっていなかったことを知ります。知らせていただけるのです。その時から私たちは変えられていきます。見えていなかった私たちが見える者とされます。本当の光、本当の優しさ、そして何より、本当の命を見ることのできる者とされます。


キリスト教ランキング

| | コメント (0) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧