キリスト教

2019年7月 2日 (火)

悪に勝つ!

バイブル・アワー イン ザ モーニング(大阪東教会 祝日&国民の休日を除く月・火・木・金 朝8時より)

今朝の聖書の言葉 2019.7.2

悪に負けることなく、善を持って悪に勝ちなさい。 ローマの信徒への手紙12章21節

20170820-051759  子供が大好きな正義のヒーローたちは力と技によって、悪役である悪い奴らに勝ちます。人間の世界も力ある者が勝ちます。もっとも現実には善が悪に勝つとは限りません。正直者は馬鹿を見て、憎まれっ子が世にはばかるのが現実です。

 善を持って悪に勝ちなさいというのは現実を無視したきれいごとでしょうか?

 聖書は善の具体的な形として、あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ、と語ります。でも、こちらの食べ物や水を奪うかもしれない敵にそのようなことができるでしょうか?

 しかし聖書は語るのです。わたしの敵をもイエス・キリストは愛し、その敵のためにも十字架にかかられたのだと。また「自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい」とも語られます。私たちには、イエス・キリストが愛しておられる私たちの敵に対して自らの手で復讐はできないのです。私たちにできることは食べさせ、飲ませることだけです。そのように親切にしたら敵も心を変えてくれるかもしれないなどと思うのではないのです。親切にしても仇で返されるかもしれません。しかしなお、そのような敵もイエス・キリストは愛しておられるゆえに食べさせ、飲ませるのです。

 それは忍耐が必要な気の乗らないことかもしれません。しかし、食べさせ飲ませるとき、私たちは気がつくのです。私たちの側にも善や正義はないことに。相手への怒りで頭がいっぱいのとき、私たちは自分自身の罪を忘れているのです。

 敵に善をなすことは、罪深い私たちが罪を重ねないためなのです。私たちの内なる悪に勝つためです。そのように善によって悪に打ち勝っていくとき、みこころならば主は敵の悪をも砕かれます。


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立派に生きるのはしんどい

バイブル・アワー イン ザ モーニング(大阪東教会 祝日&国民の休日を除く月・火・木・金 朝8時より)

今朝の聖書の言葉 2019.7.1

あなたがたの中で、知恵があり分別があるのはだれか。その人は、知恵にふさわしい柔和な行いを、立派な生き方によって示しなさい。 ヤコブの手紙3章13節

20190517-203222_20190702152201 「知恵にふさわしい柔和な行いを、立派な生き方によって示しなさい」こう言われると多くの人はひるんでしまうでしょう。そしてまたキリスト者というのはそういう「立派な生き方」をしないといけないのだと思うでしょう。また立派ではない自分はキリスト者にふさわしくない、立派ではないから教会に行けない、そういうように思う人もいるでしょう。大きな誤解を生む聖句だと思います。

しかしこの言葉の後でヤコブは繰り返し語ります。「知恵」とは上から与えられるものだと。つまり神によって「知恵」は与えられるのです。自分の中に知恵があり、自分の行いによって立派に生きると思っている時、それはとてもしんどい生き方になります。しかしなにより私たちは神からの「知恵」をいただくのです。上からいただいた知恵によって生かされる時、私たちは柔和なものに変えられます。自分の知恵であるならば、自分の知恵の正当性を示すことにやっきとなるでしょう。しかし上から与えられたものであるなら、そこには平安があります。上からの知恵は人間がやっきにならなくても良い実を結ぶのです。ですからおのずと柔和になれるのです。

 では人間は何も考えずに生きていったらいいのでしょうか?そうではありません。まず上よりの知恵を熱心に求めなければなりません。そして与えれた知恵がまことに上からのものか判断しなければなりません。私たちは自分の願望や誘惑からの思いを投影したものを、上からの知恵と考えてしまうこともあります。霊的にも知的にも正しく判断せねばなりません。そして与えられた知恵を、現実の中で、神から与えらえた自らの理性を使って、生かしていく責任はわたしたちにあります。私たちは神によってふさわしい行いをなすことができるように導かれます。


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2019年6月21日 (金)

祈りは格闘技だ

バイブル・アワー イン ザ モーニング(大阪東教会 祝日&国民の休日を除く月・火・木・金 朝8時より)
今朝の聖書の言葉 2019.6.21
わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ。 コリントの信徒へ手紙Ⅱ12章9節
20190614-084358  パウロは自らの病の癒しを求めて三回(これは何度も、ということらしい)祈ったのですが癒されませんでした。そのとき、神から与えられた言葉がこの有名な聖句です。
 むしろ病の中、そして弱さの中にあってこそ、神の力が十分に発揮されるのだというのです。人間が人間の力を発揮する以上の素晴らしい神の力が、人間の弱さの中で発揮されるのです。
 しかし、この聖句をあきらめの聖句として読まないように注意しないといけません。願って与えられないのはそれが神の御心なのだと無理やり納得して、もう十分に神様の恵みは与えられているから感謝しないといけないんだと思い込むのではないのです。
 この言葉をいただくまでパウロには祈りの格闘があったと思います。なんとしても癒してほしい、どうか癒しの恵みをいただきたいと心から願ったと思います。そうしたら福音宣教をもっと進めることができるという思いがあったと思います。そんな祈りの格闘もなく、与えられなければそれが「御心」だと思い込むのは本当の意味での祈りの姿勢ではありません。

 「わたしの恵みはあなたに十分である」とは高望みするなという意味でもなく、足るを知れということでもありません。祈りの格闘の末に、パウロは神の豊かな恵みに気づいたのです。格闘したからこそ知ることができたのです。癒さることにまさる恵みがすでに与えられていることをパウロは心から知ったのです。
 神の恵みの第一は、罪からの赦しと救いと解放ですが、日々の生活にあっても、私たちの願いを越えた恵みが神から与えられています。その恵みの神にゆだねるとき、私たち自身が、神が豊かに力を発揮してくださる神の宮とされるのです。


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2019年6月20日 (木)

神さまの背中に背負われて

バイブル・アワー イン ザ モーニング(大阪東教会 祝日&国民の休日を除く月・火・木・金 朝8時より)
今朝の聖書の言葉 2019.6.20
わたしはあなたたちの老いる日まで/白髪になるまで、背負って行こう。/わたしはあなたたちを造った。/わたしが担い、背負い、救い出す。 イザヤ書46編4節
20190510-070007  私たちは、人生の途上で孤独を味わったり、大きな試練の前で膝を折って力尽きそうになります。しかし、神は、そのような私たちを「担い、背負い、救い出す」とおっしゃってくださいます。とても慰められる力づけられる言葉です。
 しかし、この言葉を信じても、なお、試練の中で孤立するような思いを抱くことはあります。神はどこにおられるのか?やっぱり私は私の足でこの試練の崖を登って行かなくてはいけないではないか?結局、私のことなど背負ってくださらないではないか?そう感じる時もあります。
 でも、私たちには「わたしを背負ってくださらないのですか?あの言葉はどうなったのですか?」と問いかけることのできる神がおられるのです。苦しい崖を一人ぼっちでよじ登っているような時でも、私たちには問いかけることのできるお方がいるのです。そしてその問いかけにはかならず応えが与えられます。慰めと励ましが与えられます。
 そのとき私たちは知るのです。一人ぼっちで崖を登っているつもりだったけれど、実際は、自分が大いなる方に背負われていたことを。重い重いと思っていた私たちの重荷のほとんどを担ってくださっている方のおられることを。(重荷の大半は私たちの「罪」による重荷です)
 素直に神に問いながら、そして神が担ってくださっていることを知らされながら、歩んでいきましょう。神の大いなる背中に私たちをゆだねて今日も恵みの一日を過ごします。


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2019年5月27日 (月)

火をかざして

バイブル・アワー イン ザ モーニング(大阪東教会 祝日&国民の休日を除く月・火・木・金 朝8時より)
今朝の聖書の言葉 2019.5.24
わたしたしは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです。 使徒言行録4章20節
20190525-062945  私は、洗礼を受けてクリスチャンになったころ、割と「伝道に燃えていた」と思います。良くも悪くも「話さないではいられない」思いがありました。職場の方を何人も教会の集会やコンサートに誘い、実際、来ていただきました。でもその当時、教会に足を運んでくださった方たちは、基本的には、わたしへの「義理」で来られたと思います。それらの方が福音を信じていただくには至りませんでした。逆に、むしろ私の熱さゆえの勇み足でキリスト教へのつまづきを感じられた方もおられたと思います。思い起こすと返す返す残念な気がします。
 でも、個々の言動については反省しながらも、後悔はありません。やはり「話さないではいられない」思いのゆえだったと思うからです。ただひとつだけ思うことは、「話さないではいられない」思いを、しっかり聖霊にゆだねる必要があったということです。「話さないではいられない」思いは聖霊から与えられているのです。だからこそ、話すべき言葉も話し方ややり方を聖霊にいただく必要があったのです。思いだけで、あとは自分の力で突っ走っていたような私がうまくいくはずはありません。
 しかし、うまくいかなかったことがすべて無駄であったかというとそうでもありません。神が共にいてくださるとき、失敗も意味を与えられます。私自身に関して言えば、のちに牧師として献身をすることになりましたが、過去の失敗経験は現在の伝道において生かされていると思います。押しつけがましくしないように、でも機会を逃さないように、という押したり引いたりの呼吸に生かされています。(といっても、難しくて、今でもうまくはいきませんが)
 そしてもうひとつは、私自身の直接の失敗というわけではなかったのですが、ある方を教会に招いたときのことです。その方はとても喜んでくださいました。ところがそれから帰宅後、宗教の嫌いな家族(心を病んでおられた)と、その方は教会に行ったことが原因となってぶつかられたのです。その方からたいへん困った様子で「どうしたらいいでしょうか」と電話がかかってきました。その電話の背後で怒っておられる家族の声(叫び声といってもいい声)も聞こえました。たいへんなことになってしまった、そのとき私もおろおろしました。わたしはしどろもどろになって、その方に何とお答えしたかはっきり覚えていません。その後、その方が教会に来られることは二度とありませんでした。教会に来られ、牧師先生とも話をされ、笑顔で帰られたことを思い返すにつけ、今でも胸が痛くなります。
 私自身が、真剣に「魂の救い」ということを思わされたのはその時でした。電話をかけてこられた方も、ご家族も救われてほしい、そう思わされました。それが牧師として献身をする契機のひとつでもありました。
 伝道や特別な献身だけでありません。私たちの人生において火をつけてくださるのは聖霊です。聖霊が最初に心に火をつけられ、そしてまたその火を豊かに燃やし続けてくださいます。聖霊を悲しませることなく、私たちはそれぞれに与えられた火をかざして歩みます。


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2019年5月24日 (金)

神の必要十分の内に生きる

バイブル・アワー イン ザ モーニング(大阪東教会 祝日&国民の休日を除く月・火・木・金 朝8時より)
今朝の聖書の言葉 2019.5.24
だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。 マタイによる福音書6章34節
20170101-134821  この言葉は「人生なるようにしかならないのだから、明日のことまでくよくよ思い悩まず生きなさい」ということではありません。ある種のポジティブシンキングでもありません。
 「だから」で言葉は始まりますが、この言葉の前には「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」と書いてあります。これらのもの、とは、生活の必要すべてです。つまり神の国と神の義を求める者は、神が生活の必要はみな与えられるのだから、明日のことを思い悩まなくて良いと聖書は語っているのです。つまり思い悩まなくてよい根拠は、人間の心の持ち方にあるのではなく、神にあるのです。
 では、神さまを信じていたら衣食住すべて満たされてラッキー!なのでしょうか。しかし、聖書は「その日の苦労はその日だけで十分である」と語っています。神様が必要を満たしてくださるからといって苦労がないわけではないのです。私たちの日々には、やはり苦労があるのです。試練があり、困難があるのです。
そしてまた神様は確かに必要を満たしてくださいますが、それは人間からみて十分と思えるものでないこともあるかもしれません。荒れ野を旅したイスラエルの民はそれまで食べていた肉鍋でなく、マナという不思議な食べ物を与えられました。来る日も来る日もマナばかり。民は肉を食べたい!と叫びました。自分の命を狙う権力者から逃亡した預言者は水とパン菓子で養われました。
 しかし、荒れ野を旅した民も、逃亡した預言者も、それぞれに神の特別な意思の内に生かされていました。なぜマナを与えられたのか、なぜパン菓子と水だったのか。それぞれに意味があったのです。人間の側からしたら、欠乏や不便と思えることの内に豊かな神の恵みがあるのです。
そもそも、神と共に歩むこと、神の恵みを感じて平和に生きていくこと、それが人間にとってもっとも「必要」なことです。あり余るほどのモノや贅沢や地位や権力よりももっともっと必要なもの、そのもっとも必要なことへと神は人間を導かれます。そのために神は日々の必要をも満たしてくださいます。人間から見て必ずしも十分ではないことの内に、神の必要十分があるのです。その必要十分の内に、思い悩むことなく、私たちは今日を生きて行きます。


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2019年5月23日 (木)

みことばを内側に

バイブル・アワー イン ザ モーニング(大阪東教会 祝日&国民の休日を除く月・火・木・金 朝8時より)
今朝の聖書の言葉 2019.5.23
幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。  ルカによる福音書11章28節
20160529-083842  神の言葉を聞き、守る、それは信仰者として当たり前のことのように聞こえます。信仰を持っていない人でも、信仰者って神様の言葉を聞いて守っている人だろうと一般的に考えているでしょう。
 逆に、自分には到底、そのような生き方はできないから信仰からは遠ざかっておこうと思う人もあるでしょう。信仰者は立派な人で、自分にはそれは無理と考える人もいるでしょう。実際、クリスチャンでない人からそういったニュアンスの言葉を聞くことは多いのです。また自分自身、クリスチャンになって(自分のことは棚に上げて!)他のクリスチャンの立派でないところ、神の言葉を守っているとは到底思い難いところ、を見て、「クリスチャンのくせにあの人は何なんだ!」と憤ったりしたことがあります。
 そもそも守る、という言葉の原語には、保管するというニュアンスもあるそうです。つまり神の言葉を自分の内側に持っておく、自分の中で大事に管理しておくというニュアンスです。そしてまたそれは、イエス・キリストご自身に自分の内側にいていただくということでもあります。聖書の言葉を聞いて、「ああ良い言葉だなあ」と<外側>で聞くのではないのです(もちろんそれも大事ではありますが)。言葉そのもの、そしてイエス・キリストそのものが<内側>にあることが大事なのです。
 たとえば「あなたの敵を愛せ」という聖書の言葉を聞いて、すぐにこの言葉の内容を100%行える人はいないのではないでしょうか。しかし、とうてい行うことは無理と思えるその言葉を、私たちは内側に携えておくのです。そして、実際に十字架の上で、ご自分を殺そうとする人々、侮蔑する人々のために祈られたイエス・キリストのお姿を自分の内側に抱いておくのです。そうすると少しずつ私たちは内側から変えられていくのです。自分で努力をして敵を愛する者になるのではなく、内なるイエス・キリストに変えていただくのです。
 私たちは神の言葉を内側に持って生きていくとき、まさに神の言葉を行う人とされていくのです。幸いな人とされるのです。今日も神の言葉を携えて幸いな人としてこの世界に出て行きましょう。


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2019年5月16日 (木)

私たちは倒れない

バイブル・アワー イン ザ モーニング(大阪東教会 祝日&国民の休日を除く月・火・木・金 朝8時より)
今朝の聖書の言葉 2019.5.16
家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。マタイによる福音書21章42節
20151130-160816 親石とは建造物のかなめとなる石のようです。何の役にも立たない、捨てられた石が、立派な建物を支える親石として用いられたというのです。捨てられたのはイエス・キリストでした。奇跡を行うヒーローとして持ち上げられ、最後には人々に裏切られて十字架にかけられました。まさに捨てられたのです。みじめに捨てられ殺されたイエス・キリストが親石となりました。私たちの救いの親石となられました。
聖書のことをご存じない方でも、なんとなく、神とか人間を超えた存在というのは感じられます。(まったくの無神論という方もおられますが)私自身も聖書や教会を知らなかったときから、人間を超えた何かがあることをぼんやりと思っていました。
しかし、人間を超えた何かは、まばゆいばかりに輝く姿で、あるいは威厳ある姿で私たちの前にお越しにならなかったのです。王や賢い学者の姿で来られたのですらありませんでした。貧しい田舎者の姿をして来られました。人々を愛し、癒し、尽くされて、捨てられました。
しかし、この方は悲劇的なヒーローではありませんでした。殉教者でもありませんでした。復活をされ、私たちの救いを成就してくださったのです。いま、私たちの内にそのお方の石がしっかりと親石として組み込まれています。この方を信じる時、私たちは崩れないのです。この世の建物はすべてやがて崩れます。しかし私たちはとこしえに立たせていただきます。内なる親石があるからです。


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2019年5月14日 (火)

逃げるは恥だが

バイブル・アワー イン ザ モーニング(大阪東教会 祝日&国民の休日を除く月・火・木・金 朝8時より)
今朝の聖書の言葉 2019.5.14
主がその御翼のもとに逃れて来たあなたに十分に報いてくださいますように。ルツ記2章12節
20180424-093804    旧約聖書のルツ記に出てくるルツは賢婦人と言っていいでしょう。ルツは、夫を亡くしたのち、まだ若く再婚のチャンスもあったはずなのに、姑に仕え、姑の故郷のイスラエルにまで、ついていきます。ルツはイスラエル人ではなく、ルツにとってイスラエルは未知の国でした。姑とイスラエルに戻ると、ルツは当然、外国人のやもめ女として好奇の目にもさらされたでしょう。しかし、彼女は堅実に働き、その健気さゆえ、周囲の人々にも受け入れられていきます。そのルツに対して、「神が報いてくださるように」と、のちに夫となるボアズは祈りの言葉を語ります。
 ルツのように健気な女性であるゆえ、神は報いてくださるのでしょうか。そうではありません、神は「その御翼のもとに逃れて来た」者にはだれにでも報いてくださいます。よく、困った時の神頼みと言います。普段は神のことなど考えていなくても、どうにも困ったことがあると神や仏にすがろうとする姿勢を揶揄した言葉です。しかし、仮に困った時の神頼みであっても良いのです。神を逃れ場としてやってきたあなたを神はけっして追い返したりなさいません。
 大事なことは、御翼のもとに逃れていくことです。私たちは多くの重荷を負い、多くの傷を受け、日々生きていきます。その重荷や傷をすべて神のもとに持っていくのです。数年前、「逃げるは恥だが役に立つ」という面白い題のテレビドラマが話題になりました(私はドラマは観ていませんが)。私たちは逃げて良いのです。神のもとに逃げていくことはちっとも恥ではありません。神は逃げて来た私たちの重荷を軽くし、傷を癒してくださいます。存分に神は私たちに報いてくださいます。そしてまた新しく生きる力を与えてくださいます。
 繰り返し繰り返し、神のもとに逃れて行きましょう。豊かに報いを受けましょう。神の報いは、祝福です。


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2019年5月 9日 (木)

スローな怒りにしてくれ

20190506-190109_1 バイブル・アワー イン ザ モーニング(大阪東教会 祝日&国民の休日を除く月・火・木・金 朝8時より)
今朝の聖書の言葉 2019.5.9
だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。 ヤコブの手紙1章19節
   怒りということでいえば、イエス・キリストも怒りの感情を爆発させられたことが聖書には載っています。神殿で商人たちが不正な商いをしていたことに怒りを覚えられ、さい銭箱はひっくり返すわ捧げもの用の鳩を売ってる人の腰掛をひっくり返すわ、とド派手な大立ち回りをなさいました。イエス様だってブチ切れられたのだから普通の人間である私が短気を起こしても仕方がない、とつい思ってしまいます。
しかし、ヤコブは「人の怒りは神の義を実現しない」と今日の聖書箇所のあとのところで語っています。そもそも人の怒りは、自分の正当性や安全を脅かされたときに爆発します。もちろん、人間には怒りの感情が与えられており、それは必要なものだからです。しかし、人間が自分の正当性を主張して怒るとき、神の義(=神の正しさ)は往々にして引っ込むのです。怒るとき、人間は自分の正当性に固執してしまうのです。怒るとき、人間は、自分が神になっていると言ってもいいでしょう。
私たちは、怒る前に、私たちの怒りが、イエス・キリストが神殿で怒られたような「聖なる怒り」であるかどうかよくよく吟味する必要があります。ですから「怒るのに遅く」なければならないのです。
たしかにこの世界には怒らねばならないこともあるように感じます。巨悪があり、不公平や差別がまかり通っています。目を覆いたくなる悲惨があります。しかし、だからこそ、私たちは神の義がなされるように、まず神の言葉に耳を傾けなければなりません。人間の罪ゆえの悪に立ち向かうのは、人間の怒りではなく、神の義と愛です。その神の義と愛の言葉を聞かねばなりません。聞くことに早くなければならないのです。


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