キリスト教

2022年8月17日 (水)

今日の祈り 2022年8月17日~熱を𠮟りつけられる

今日の祈り 2022.8.17
イエスが枕もとに立って熱を叱りつけられると、熱は去り、彼女はすぐに起き上がって一同をもてなした。ルカ4:39
20220817-061954 主なる神よ、あなたは、あなたと私たちの壁も、人間同士の壁も取り去ってくださいました。私たちを脅かし、孤独へと囲い込むものはありません。この日もあなたにより頼み、あなたの平和の内に歩むことができますように。あなたにあって、まことの健やかさに生かしてください。主イエス・キリストのお名前によって祈ります。

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2020年6月24日 (水)

朝の言葉「愛し合いなさい」

朝の言葉~聖句短想「愛し合いなさい」

互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。ヨハネによる福音書15章17節

20180103-165151 クリスチャンには、一般に宗教というもので考えられる戒律は基本的にはありません。食物規定も祭儀的義務もありません。

しかしこの聖句を見ますと「命令」という言葉が出てきます。「愛し合うこと」これが新約聖書が記すほぼ唯一の戒めといえます。

主イエスは、十字架において、愛を示されました。愛とは相手のために痛みを負うことです。

危険が迫った時、子供のために身を挺する親はいます。祖国のために命を捧げる人々もいます。

しかし、聖書が語る愛は、人間の自然の発露としての愛や意思的な愛ではありません。

聖書が語るのは、人間の自然なあり方に反する愛なのです。考えてみてください。大事な家族や友人であっても、本当に私たちは心から、毎日毎日、愛することができますか?自分が痛みを負って愛し続けることができるでしょうか。

しかし、その愛の実践を聖書は求めます。命令なのです。

もちろん、完全に従うことは困難です。しかし少しずつ従っていくとき、私たちは私たちの内に「実り」を与えられます。生涯に渡って、愛の実りを私たちはいただいていくのです。

 

 

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2020年6月 2日 (火)

朝の言葉「光」

朝の言葉~聖句短想「光」

わたしの魂よ、主をたたえよ。/主よ、わたしの神よ、あなたは大いなる方。/栄と輝きをまとい/光を衣として身を被っておられる。

     詩編104編1~2節

20151204-152150 主イエスは貧しい姿で地上にお越しになりました。都の権力者たちから、学問もない田舎者、そうみなされていました。主イエスの言葉と行いには、とてつもない力があったのに、「見た目」「肩書」で判断する人々は、その力を理解せず、主イエスが群衆に支持されれば支持されるほど、主イエスを妬み憎みました。

ただ一度だけ、主イエスが本来のお姿となられた場面が聖書にあります。「山上の変容」と言われる箇所です。

「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。マタイ17:2)

天においては、光り輝く衣を着ておられる神が、貧しい田舎者の衣をまとった人間として地上に来られました。しかし、貧しい姿は「世のしのぶ仮の姿」ではなく、それも主イエスの真実なお姿です。主イエスは貧しい私たちと同じ者となってくださったのです。私たちの真実の友となってくださるためです。

友である私たちのために死んでくださった主イエスは、その光の衣を私たちにくださいます。やがて、私たちはその光の衣被って、天の父の前に立つのです。

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2020年5月29日 (金)

朝の言葉「恵み」

朝の言葉~聖句短想「恵み」

あなたがたの救われたのは恵みによるのです。 エフェソの信徒への手紙2章5節

20140101-085319 命をいただいていること、生かされていることを感謝しましょう、というような言い方はクリスチャンでなくても言います。自分が自分の力だけで生きているわけではないこと、誰かのおかげであり、さらには神羅万象の恵みによる、ということは普通にも感じることです。

それに対して、あなたがたの救われたのは恵みによる、という言葉には、若いころの私であれば、反発を感じたと思います。

救いという言葉、そして恵みという言葉に、ネガティブな印象を持ったと思います。そこには自分の力はなく、ひたすら受け身的なように感じたと思います。もちろん自分が自分の力だけで生きているわけではないとは分かっていても、この言葉には人間の側の力を感じさせません。

たしかに、聖書は語るのです。神の一方的な恵みを。ひたすら注がれる恵みを。人間のちっぽけな努力や、思いを、はるかに凌駕する恵みを。

私たちが私たちの力で救いを得るのなら、それはとてもたいへんな道です。というよりも、罪深い人間には、それは不可能なことです。

それでもがんばってしまうのが人間です。

もう、頑張らなくても良い、そうおっしゃって恵みを注がれる、それが神です。

神の恵みに気づいたとき、不思議なことに(矛盾しているようですが)、新しく頑張れるようになった自分にも気づくのです。 

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2020年5月27日 (水)

朝の言葉「向かう先」

朝の言葉~聖句短想「向かう先」

すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。 ローマの信徒への手紙11章36節

20180126-223025 世界は混とんとしていて、時として、救いようがないように見えます。私たち一人一人の日々もはかなく移ろいやすい不安定なものです。

しかし聖書は、すべてのものは神が保たれている、と語ります。そして、神へ向かうという方向性を持っていると語ります。

私たちの日々は、時に大きな試練によって袋小路に入っているかのように見えながら、なおそこにも神の守りがあり、必ず出口へと私たちは向かっているのです。

そのことはどのようにして分かるのでしょうか?こう書くと、そんなことあるもんかと言われるかもしれませんが、それは心を静め、神を求めた時分かりますし、また聖書を読む時に分かります。私たちは神から「出た」ものだからです。私たちは神に造られたものです。神と無関係なものではないのです。ですから分かるのです。

鮭が生まれ故郷の川を覚えているように、私たちも出て来た元である神のことを知ることができるのです。神を知り、そして私たちの向かうべき先をも知らされます。 

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2020年5月26日 (火)

朝の言葉「貧しい人」

朝の言葉~聖句短想「貧しい人」

心の貧しい人々は幸いである。天の国はその人たちのものである。 マタイによる福音書5章3節

20190606-070230 経済的には貧しくても、心は豊かに生きましょう、と、ここで語られていないのは不思議です。

いやむしろ、みんな豊かに生きているでしょう?と聖書は問いかけているのです。この言葉の語られた時代であれば、人々は、神の律法を守り、聖書を学び、それこそ心豊かに生きていました。ローマ帝国の植民地に貧しく生きながら、人々はなお心豊かに生きていたつもりでした。

現代に生きる人々も、おおよそは、法律や社会道徳を守り、困ったときには助け合い、心豊かに生きています。日本で大災害が起きたとき、被災地で皆が礼儀正しく助け合っている姿は世界から称賛されるくらいです。

しかし、神なき豊かさは貧しいのだと聖書は語ります。律法を守り聖書を学んで、神を大事にして生きているようで、それは自分の豊かさ(力)に頼っているのだというのです。法律や社会道徳を守るのは確かに素晴らしいことですが、自分に頼って生きていくとき、それは必ず破たんするのです。実際、被災地で一生懸命復旧のために働いていた人々が燃え尽き症候群になってしまうということもあります。

自分の心の貧しさに気づくことが本当の豊かさへの道です。自分の心が貧しく、みじめで、罪深いことを知るとき、神を求めざるを得なくなります。そのとき、すでに天の国はその人のところへ到来しているのです。

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2020年5月23日 (土)

朝の言葉「知恵」

朝の言葉~聖句短想「知恵」

主を畏れることは知恵の初め。 詩編111:10

20140408-083459 知恵と知識は違うと良くいわれます。知恵は「物事の道理を判断し処理していく働き」と辞典には書かれています。それに対して知識は「ある事柄について、いろいろと知ること。その知りえた内容」と言われます。

つまり、知識として知っていても、それが物事を判断し処理することに益しないならば知恵とは言えません。

物事の道理を判断し処理する働きの最初にあるのは主(神)への畏れだと聖書は語ります。善悪や美醜を判断するには、刑法や倫理や芸術についての知識を豊富に持つことではなく、神を畏れることが最初に必要なのです。

神を畏れるのは、科学知識のない無学な昔の人のすることではありません。人間の限界をわきまえたとき、神への畏れは起こります。

逆に神への畏れがないとき、人間は傲慢になり、自分の知識に溺れ、判断を誤ります。

私たちは神というたしかに物事の道理を判断し処理していく知恵の源を与えられています。神こそが、私たちの人生の歩みの足元を照らす確かなともしびなのです。

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2020年5月22日 (金)

朝の言葉「賛美」

朝の言葉~聖句短想「賛美」

わたしは兄弟たちに御名を語り伝え
集会の中であなたを賛美します。 詩編22:23編

20190910-183357 賛美します、とはほめたたえますということです。
ほめたたえるというと、一般的には少し大仰な感じもします。かなり優れた功績をあげた人や立派な行いをした人を「ほめたたえる」イメージがあるかもしれません。日常的なことについては、ほめる、くらいが普通かと思います。
詩人は、あなた(神)をほめたたえると言います。もちろん全知全能の神は確かにほめたたえるにふさわしいお方であると思います。
しかし、神はほめたたえられて喜んだり良い気分になったりなさる方でしょうか?当然ながら、神はほめられたくて、良いことをなさるわけではありません。私たちがほめたたえようが、無視しようが、いえ、逆に罵ろうが、良いことをなさいます。
もっとも、人間の側からは、必ずしも神のなさることは良いこととばかり思えないこともあります。理不尽に思えること不条理なことが私たちの日々には起きてきます。
しかしなお、私たちはそのすべてを「神の良いこと」として受け取ります。
「そんなことは無理!」と思われるでしょう。もちろん無理はしなくていいのです。神に異議申し立てをしても良いのです。なぜ?と問うてもいいのです。
そのような自然な神との交わりをしながら、やはり神は良いことをしてくださるという確信に至るプロセスの中で、私たちは神をほめたたえるのです。
神をほめたたえ、賛美するとき、なにより私たち自身が神との良き交わりの内に入れられ、喜びを与えられるのです。

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2020年5月21日 (木)

朝の言葉「恥」

朝の言葉~聖句短想「恥」

わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシャ人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。ローマの信徒への手紙1章16節

20190925-181040 日本は<恥の文化>だと、かつて言われました。ひとさまの前で恥ずかしいことはしない、いやたとえ誰も見ていなくても、恥ずべき行いはしない、そのようなメンタリティがあったように思われます。今は、恥も外聞もない、自分さえ良ければよい、利益さえ得られればよい、そのような浅はかな風潮がはびこっているようです。

2000年前、パウロは「福音を恥としない」と言いました。かつての彼の誇りは自分が神から選ばれたユダヤ人であり、家柄も良く、聖書に精通して、学識があるということでした。自らを「ヘブライ人中のヘブライ人」というほどの誇りを持っていました。イエスなどという学問もない田舎者にたぶらかされ、変な新興宗教を伝えている人間を恥ずべき存在だと考えていました。

しかし、その彼が180度変えられました。自分自身が復活のイエスと出会い、まことにこの人こそがキリスト、救い主であることを知ったからです。それと同時に、それまで彼が誇りとしていたすべてのことが塵やあくたのように見えるようになりました。

一方で、世間一般では、イエス・キリストを信じることは恥ずべきことでした。まともなユダヤ人の社会のコミュニティから排除されるようなことでした。しかし、なお、彼はイエス・キリストを信じることを、イエス・キリストの教えを良き知らせ(福音)を伝えることを恥としませんでした。それは彼の信念の強さとか、信仰理解が正しかったからではなく、彼が神ご自身から力を与えられたからです。プライドで凝り固まっていた時には感じられなかった、本当の救いを与えられたからです。

ほんとうの誇りとは、自分の内にあるのではなく、自分を救ってくださる神からやってくるものです。神ならぬものにプライドを持つことこそ恥なのです。

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2020年5月19日 (火)

朝の言葉「わたしの岩」

朝の言葉~聖書短想「わたしの岩」
主はわたしの岩、砦、逃れ場/わたしの神、大岩、避けどころ/わたしの盾、救いの角、砦の塔。詩編18編3節

20141113-083142 神さまを信じたからといって、病気にならないとか、お金が入るとか、人生順風満帆ということはありません。それは神が無力だからではありません。厳しい言い方になりますが、自分にとって不都合な現実もまた、神が許されている現実なのです。私たちは私たちにとって喜ばしくない現実、時に不条理とも思える現実の中で生きていきます。
そんな神様は不要な神さまでしょうか?
しかし、不思議なことに、神の現実を受け入れて生きていくとき、たしかに私たちは守られていることを知らされます。
困難の中で、弱音を吐き、怒りを覚え、涙を流します。しかし、その思いをぶつける相手がおられることを知ります。嘆きがむなしくならず、心から嘆くことができるようになります。そしてそのことが支えであり慰めであることを知ります。
私たちの思いを受け止めてくださる神の御元に身を寄せる時、たしかにそれは救いの岩であり、ただ一つの砦であることを知ります。
兵士が前線から、いったん退却をし、休息をとり、ふたたび、前線へと向かうように、私たちにも退却できる場所があるのです。そこで神と出会い、神に力と知恵と安息を与えられ新しく歩み出すのです。神を岩として持つ者は人生をタフに生きていくことができるのです。

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