キリスト教

2019年1月21日 (月)

真実な方

バイブル・アワー イン ザ モーニング(大阪東教会 月・火・木・金 朝8時より)
今朝の聖書の言葉 2019.1.21
主は真実な方です。必ずあなたがたを強め、悪い者から守ってくださいます。 テサロニケの信徒への手紙3章3節
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 神様を信じれば、人生順風満帆で何一つ困ったことは起こらない、、、そんなことは残念ながらありません。辛いことも悲しいことも押し寄せてきます。じゃあ神様を信じてもあんまり意味はないのでしょうか。もちろんそんなことはありません。「主は真実な方です」、言われています。真実という言葉は信頼できる、とか、頼りになるという意味です。主は、つまり神は、頼もしいお方なのです。
 わたしたちは人生において何を頼りにするでしょうか?家族や友人でしょうか?力のある知人でしょうか?自分の能力でしょうか?お金でしょうか?地位でしょうか?そういったものはたしかにそれぞれに頼りになるでしょう。重い病になってもお金があれば有名な医者に、保険の効かない最新医療を施してもらえるかもしれません。ツテがあれば、良い就職先に就職できるかもしれません。
 しかし、この世界で頼りになるものが頼りにならない時が人生にはかならずやってきます。困難にひとりで立ち向かわなければいけない時がかならずあるのです。家族も友人もお金も地位も何の役にも立たない時があります。八方ふさがりの中、孤独にたたずむ時がきます。そのとき、真実な方、神だけが頼りになるのです。
 頼りになる神は、多くの場合、マジックのように状況を改善してくださるわけではありません。そういうこともないではありませんが、まず私たちが強められるのです。困難に耐えうる力を神が与えてくださるのです。そして気がつくと試練のなかからするっと抜けているのです。
 しかし、神はもともと真実なお方です。順風満帆のときも逆風にさらされているときも、いつも頼りになるお方です。今日も私たちは神の守りの内にあります。真実な方、頼りになるお方が共におられます。恐れず歩みましょう。


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2019年1月18日 (金)

信じたことが起こる

バイブル・アワー イン ザ モーニング(大阪東教会 月・火・木・金 朝8時より)
今朝の聖書の言葉 2019.1.18
そこで、イエスが二人の目に触り、「あなたがたの信じているとおりになるように」と言われると、二人は目が見えるようになった。 マタイによる福音書9章29~30節
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 イエス・キリストは旅をしておられました。その途上、ふたりの目の見えない二人の人がイエス・キリストに目が見えるようにしてもらいたいと願いました。そして二人はイエス様のあとをついてきました。どのくらいの距離をついて来たのかはわかりません。イエス様が家の中にお入りになると、目の見えない人たちも一緒に家の中に入りました。するとイエス様は目の見えない人たちに「わたしにできると信じるのか」とお聞きになりました。二人の目の見えない人が「はい、主よ」と答えると、イエス様は「あなたがたが信じているとおりになるように」とおっしゃり、二人は目が見えるようになりました。
 神は全能のお方であり、神にできないことは何一つありません。二人の目の見えない人はそのことを信じて目が見えるようになりました。神の御子である主イエスは「あなたがたの信じているとおりになるように」とおっしゃいました。「目が見えるようになりますように」とおっしゃったのではありません。
 神は全能ですが、その神を信じるとき、<わたしたちが信じているように>事はなるのです。神との関係の基盤は「信じること」なのです。神にはできっこないと思うとき、そこには何も起こりません。しかし、私たちが信じるとき奇跡は起こります。
 ところで、イエス・キリストは家にたどり着いてからではなく、出会ってすぐ、二人の目が見えるようにすることもできたでしょう。しかし、あえて彼らが道中をついてくるようにされました。家の中にまで彼らがついてきたとき、はじめて彼らに声をかけられます。そこにどういう意図があったのかはわかりません。たくさんの見物人がいるところで癒しをなさりたくなかったのか、二人の信仰を試されたのか、それはわかりません。しかし大事なことは、神は神のやり方で、神の適当と思う時にことをなされるということです。
 私たちはただ信じてついていくのです。イエス・キリストと共に旅をするのです。その旅の途上で、わたいたちの信じているとおりのことが起こるのです。

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2019年1月17日 (木)

あなたには見えている

バイブル・アワー イン ザ モーニング(大阪東教会 月・火・木・金 朝8時より)
今朝の聖書の言葉 2019.1.17
あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。 マタイによる福音書13章16節
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 神様が見えます、とか、神の声が聞こえますというと、おかしな人と思われます。実際、私たちは肉眼で神を見ることはできませんし、神の声を聞くことはできません。しかし、神と出会うことはできるのです。いえ、神の方から出会ってくださるのです。イエス・キリストというお方として出会ってくださるのです。
 しかし、イエス・キリストは今は天におられます。どうやって出会ってくださるのでしょうか?それは聖書の言葉を読むとき、また祈るとき出会ってくださるのです。それは単に聖書に書かれているイエス・キリストの言葉を読んだり、祈るとき、なんとなく自分の心にイエス・キリストのイメージが湧いてくる、というようなこととは違います。出会いとしかいえない体験をするのです。
 私も教会に通い始めた頃、聖書を読み、いろんなキリスト教関連の本を読みました。短期間で知識は豊富になりました。しかし、ある時、ある聖書の言葉が自分から離れなくなりました。それは人間の罪にかかわる言葉でした。突然、その罪は私にも関係がある言葉だと感じました。感じただけではありません。涙があふれてきました。ああ、私はほんとうに罪を犯していたんだと感じました。その時から聖書の読み方が変わりました。「これは私に向けて語られている」と感じて読むようになりました。聖書の言葉によってキリストが出会ってくださったのです。
 そう思って振り返ると、なぜそもそも信徒でもないのに教会に通いだしたのか、そこには不思議な巡り合わせがあったことに気づきました。それもキリストが出会ってくださり(当時は気づいていませんでしたが)導いてくださったことでした。
 私たちはすでに見えているのです。聞いているのです。いえ、見せていただき、聞いているのです。そのことに気づくとき、私たちは幸いな者とされます。


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2019年1月15日 (火)

走り出す

バイブル・アワー イン ザ モーニング(大阪東教会 月・火・木・金 朝8時より)
今朝の聖書の言葉 2019.1.14
婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走っていった。 マタイによる福音書28章8節
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 婦人たちはイエス・キリストが十字架で亡くなったのち安息日(週の七日目。神を敬うための休息の日。働いてはいけない日。)となったため、十分な埋葬をすることができなかったことを悔み、安息日明けに急いで墓に行ったのです。男の弟子たちが捕まることを恐れて隠れていたのに対し、女性たちは勇敢です。大事な先生のために、せめてできる限りのことをしたいという思いが強かったからです。
 しかし、墓は空でした。天使にイエス・キリストが復活したことを告げられます。ありえないことが起こりました。当然、彼女たちは恐れました。しかしなお喜びました。そして走って行ったのです。その喜びの知らせを伝えるために。怯えて閉じこもっている男の弟子たちのところへ走ったのです。
 復活のイエス・キリストと出会うというのは、恐ろしくも喜ばしいことです。そしてそのとき走っていって伝えたくなるのです。新約聖書の時代から2000年後を生きる私たちは肉眼で復活のイエス・キリストと出会うことはできません。しかしなお、それぞれにキリストと出会います。キリストはかならずあなたと出会ってくださるのです。そのとき喜びに満たされます。走り出したくなります。2000年間、多くの人々が走り出したのです。恐れつつも喜びのあまりどうしてもキリストとの出会いを伝えたくて走ったのです。たくさんの人が走り続けてとうとうこの日本にまで喜びの知らせは伝わりました。
 イエス・キリストとの出会いは堅苦しいことや難しいことではありません。どうしても人に伝えたくなる喜びに満ちたものです。そしてそのイエス・キリストとの出会いは一度きりではありません。日々私たちは出会うのです。いえ、イエス・キリストから出会ってくださるのです。今日のあなたのもとにイエス・キリストは来て、出会ってくださり、共におられます。今日も喜びの日です。


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2019年1月11日 (金)

豊かに生きよう

バイブル・アワー イン ザ モーニング(大阪東教会 月・火・木・金 朝8時より)
今朝の聖書の言葉 2019.1.11
高慢にならず、不確かな富に望みを置くのではなく、わたしたちにすべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。 Ⅰテモテ6:17
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 この世で富んでいる人へこう言いなさいと命じられている言葉です。私たちはお金を持った人、豊かな人が、時として高慢であると感じます。しかし逆に金銭的に豊かであっても、財産があっても、お金のゆえに財産のゆえに苦しむこともあります。今持っているものを失わないように腐心し、もっともっと豊かになろうとします。遺産争いという問題も起きてきます。かまらずしもお金や財産は人間を幸せにするものではありません。
 そもそも富というのは不確かなものだと聖書は語ります。たしかにため込んだ紙幣や株券が一晩で紙くずになってしまうこともあります。不確かなものであるゆえに、人間は富を持っても不安で、さらに富を増そうとします。
 そのような不確かな富ではなく、たしかなお方、神に望みを置くとき、人間は不安に陥ることはありません。そこには喜びと平安が満ちるのです。高級ホテルのディナーに勝る豊かな食卓を神は準備してくださいます。
 これは富んでいる人への言葉だと最初に申しました。多くの人は自分はお金持ちではないと考えておられるかもしれません。しかし、神に望みを置かず生きている人は、神の目から見ると富んだ人です。自分で富んでいると思っている人です。だから自分一人で生きていけると思っているのです。しかし神に望みを置くとき、本当の自分の貧しさが見えてきます。また自分の本当の貧しさに気づいたとき神に望みを置きます。そして高慢であった自分の姿が見えてきます。神の前で高慢で豊かであったことに気がつきます。もちろんその豊かさはちっとも人間を幸せにはしないのです。
神ご自身は人間の前でイエス・キリストとして貧しく生きられました。最後は何一つ持たず十字架でしなれました。私たちが神と共に本当に豊かに生きるためです。私たちの高慢の罪を砕き、神からいただく本当の豊かさの中に生きるためです。


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2019年1月10日 (木)

呼ぶ声

バイブル・アワー イン ザ モーニング(大阪東教会 月・火・木・金 朝8時より)
今朝の聖書の言葉 2019.1.10
わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたいは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。ヨハネによる福音書10章27節
 天王寺動物園や六甲の六甲牧場で羊を見ることができます。意外に大きな動物です。放し飼いされている六甲牧場では、小さなお子さんにとっては怖いくらいの大きさです。しかし、小さくはなくても、やはり羊は弱い動物です。肉食動物に襲われるとひとたまりもありません。パニックになりやすいとも聞きます。群れで生活をしますが、一頭が恐怖を感じてパニックを起こすと群れ全体が大混乱に陥ることもあるようです。ですから羊飼いをいう存在が必要になります。羊飼いが群れを守り、安全に導きます。ですから羊は羊飼いの声をしっかりと聞き分けるのです。その声に従っていれば大丈夫だと分かっているからです。
 イエス・キリストはご自分のことをそのような羊飼いだとおっしゃっています。そして羊である人間は自分の声を聞き分けるとおっしゃっています。しかし現実にどうでしょうか?人間は自分が守ってもらわなくてはならない羊だとは思わないのが必要です。弱くてすぐパニックになる羊とは違う。ことに大人であれば自分の力で自分の責任で生きていく、実際、そのように生きていると考えていると思います。
 しかし、大人であっても、知恵があっても、人間は羊と同じように道に迷うのです。神を知らない限り迷い続けるのです。その神へと導いてくださるのがイエス・キリストです。しかし、普段、わたしたちはなかなか羊飼いであるイエス・キリストの声を聞くことが出来ません。自分自身が聞こうとしていないからです。多くの場合、どうしようもない困難に陥ったとき、はじめてイエス・キリストの声が聞こえます。
 でも、イエス・キリストはずっと呼び続けておられます。今日も声をかけ続けてくださっています。その声を心すまして、耳をすまして、聞きましょう。その声はあなたを光の方へ、喜びの方へと導いてくださいます。


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2019年1月 8日 (火)

力づけてくださる神

バイブル・アワー イン ザ モーニング(大阪東教会 月・火・木・金 朝8時より)
今朝の聖書の言葉 2019.1.8
気落ちした者を力づけてくださる神はテトスの到着によってわたしたちを慰めてくださいました。 コリントの信徒への手紙Ⅱ7章6節

20140225_103318_2 現実的な助けについて書いてあります。宗教というのは心の問題だとみなさん考えておられるかもしれません。心に平安が与えられるのが宗教である、と。あるいは心を鍛えてどのような現実にも負けないようにする、動揺しないようにするものが宗教だと。この言葉を書いたのは初期のキリスト教の伝道者パウロでした。彼はこの言葉の前に「わたしたちの身には全く安らぎがなく、ことごとく苦しんでいました」と書いています。パウロは当時、迫害にあい、また教会の内部でも大きな課題を抱えていました。とはいえ宗教の伝道者であるにもかかわらず、神を信じているにもかかわらず、安らぎがなく苦しんでいるというのはどうしたことでしょうか。
 聖書は私たちに「悟りきったような何事にも動じない人になれ」と言っているのではないのです。あるいは「強い信仰を持って乗り越えろ」と言っているわけでもありません。「おろおろしているのは神への信頼が足りないからだ」と言っているのでもありません。おろおろしたり、不安で押しつぶされそうなとき、神に助けを求めなさいと語っているのです。そして実際に助けが来るのです。今日の聖書箇所の場合、現実にテトスという人がやってきて、良い知らせを告げました。そのことによって慰められたのです。神は困難の中で助けてくださる方です。打ちひしがれているとき慰めてくださる方です。それは現実の力です。わたしたちではなく神がなしてくださることです。今日もその力は私たちに及んでいます。今日も神の助けと慰めの中を生きていきます。


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2019年1月 7日 (月)

あなたはそのままでいい、のか

20160102_141549「あなたはそのままで愛されている」

 これはとても重要なメッセージだ。人の存在の根幹を支えるメッセージだろう。このメッセージがその人の深いところに届いたとき、<わたしは生きるに値する>、<わたしは存在していい>、そんな自己受容が可能となる。

 でもクリスチャンは気をつけるべきだ。あまりにも安易にこの言葉を発するクリスチャンに私は少し危惧を感じている。それにそもそもこれは聖書にのみ固有のメッセージとはいえない。

事実、私自身、まったく教会やキリスト教を知らなかった20代の頃、このメッセージをスピリチュアル系の精神世界の本から受け取った。私は子供のころから、さまざまな事情で、極端に自己評価の低い人間だった。自分が生きていて良いとは思えなかった。生きるに値するとは思えなかった。自分には人並みのことは何一つ期待できないと本当に思っていた。

 そんな中、ある精神世界の本で、上記のメッセージを受け取った。衝撃だった。え?私も生きていていいの?

「あなたは幸せになる権利があります。これまで幸せでなかったら、これから幸せになったらいいのです」

 その本には深いことが書いてあるわけではなかった。でも「これから幸せになったらいい」という今思えばおそろしく単純な言葉に心底驚いた。ええっ!?私も人並みに幸せになって良いのかと。

 それから私は変わった。自己評価の低かった私が「人並み」に生きていいのだと明るい気持ちになった。気持ちが変わっただけではない、たしかに生き方も変わったのだ。

 でも、そこで終わりではない。やはりそれだけではダメだった。

 「あなたはそのままで愛されている」そこで終わりではない。

 かつてのわたしのように極端に自己評価の低い人間や、存在を否定されているような環境にいる人々には「あなたはそのままで愛されている」「あなたは生きてよいのだ」というメッセージは絶対に必要だ。

 しかし、それが安易な自己肯定というところにとどまるならば、本当の生き生きとした人生にはたどりつけないのだ。ここから先が神とかキリストとか聖書という話になってくる。「あなたはそのままで愛されている、だから、、、」という「だから」の先がある。

 しかしその前に、そもそも「あなたはそのままで愛されている」という言葉自体に、もう少し明確にしないといけないことがある。これもまた聖書のメッセージとなる。

 第一に「あなたはそのままで愛されている」というのは誰から愛されているのか?「あなたは生きていい」というのは、誰から私の存在を許容されているのかということがある。私自身が信念を持って許容するのか?あるいは本来人間というものは誰でも生きる権利を持っているから生きていいのか?人間は必然的に愛されるべき存在だから愛されるのか?いや違う。自分自身が幼いころから自分を許容できなかったことを振り返るとき、そういうものではない。ここでようやく「神」という存在にたどり着く。いや自分で推論したり瞑想したり思索してたどり着くのではない、神と出会うのだ。さらにいえば神から出会っていただくのだ。そのとき、ようやく人間は本当に神に自分が愛され、神に生きることを許容されていることを知る。「愛されている自分」というものがムード的なものであったり、耳当たりのよいきれいな言葉に過ぎないというものではなく、ほかでもない「神に」愛されているのだと知るとき、「愛されている自分」は真にリアリティが与えられる。本当に私は愛されているということに気づくのだ。

そして第二に「そのままで」という「そのまま」とは何なのか?ということが問題となる。弱くてダメなありのままの自分の「そのままで」なのだろうか?何のとりえもない自分のままでだろうか?性格の悪い嫌われ者のわたしのままでなのか?それらは全部半分は当たっている。どうしようもない自分の「そのままで」、たしかに神は愛してくださる。でも本当のところは「そのままで」というのは、神と離れている自分のままで、ということだ。神はご自分と離れている人間を愛してくださっている。神を敬うどころか、まったく無関心で興味も持たない、そして神を悲しませるようなどうしようもないことばかりしている人間をそのままで愛してくださっているということだ。神は本来「正しい」方なので、どうしようもない人間はお赦しにならない。<にもかかわらず>神はそんな人間を愛してくださっているのだ。

 つまり、本来は愛されるはずのない私が、たしかに愛されている、漠然となんとなく誰かから愛されているのではない。神から、私は、そしてあなたは、愛されている、それが聖書のメッセージだ。

 そしてそこから先が「だから」の話になる。ここに行くには実際のところ、救いとかキリストという話が必要になる(ほんとうはここまででも必要だけど)。でもごく単純にいうとすれば、愛されるはずのない私がそのままで愛されている、「だから」その愛にふさわしく生きることが大事ということ。

 あなたはたしかに(ありえないことに)そのままで<神から>愛されている、<だから>、そのままでいい、わけではない。あなたはすでに神に愛されているのだから、その愛にふさわしく生きていきなさい、愛されている者として、あなたも愛に生きなさい、それが聖書のメッセージだ。そのメッセージこそ、本当に人を生かしていくメッセージなのだ。


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試練とは?

バイブル・アワー イン ザ モーニング(大阪東教会 月・火・木・金 朝8時より)
今朝の聖書の言葉 2019.1.7

試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです。 ヤコブへの手紙1章12節

20190102_090032 試練を耐え忍ぶ人は幸いだと言われます。試練は、普通に考えて幸いだとは思われません。願わくば避けたいことです。しかしまた、一般的に宗教というと苦行をするというイメージがあります。禁欲的な生活をしてさらには水に打たれるような荒行までも行うというイメージもあります。ですから宗教の言葉として試練を耐え忍ぶというのは、ある意味、受け取りやすいと思われます。
 しかし、ここで言われているのは、宗教一般に考えられるようなイメージのことではありません。「試練」というのは「誘惑」「試み」でもあります。私たちは日々、誘惑にあうのです。お金の誘惑、異性の誘惑、権力志向の誘惑。一方で人間には健全な状態での必要もあります。お金も必要です。異性との関係も必要です。社会的に必要な立場もあります。人間にとって何が健全か、そうでない誘惑なのか切り分けることは難しい面があります。しかし、単純な言い方になりますが、それは神が喜ばれることか?という一つの判断基準があると思います。他者を踏みにじってお金を儲けることは当然良くないことです。異性との関係でも当然不倫などは神は喜ばれないでしょう。家族をないがしろにして出世だけを目指すのも良くないでしょう。
 しかしまたその良くないと思われることに意識的、無意識的に惹かれるのも人間です。人間には本質的に神を無視して自分の思い通りに行きたいという性質があるからです。そのような人間にとって誘惑は時として耐え難い試練となります。どうしても離れがたいのです。
 その離れがたいものから引き離してくださるように神に祈りつつ歩みましょう。そのとき私たちは少しずつ変えられていきます。苦行ではなく、我慢ではなく、いつか自然に誘惑から離れていけるように神は私たちを変えてくださいます。


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2018年12月27日 (木)

自由

バイブル・アワー イン ザ モーニング(大阪東教会 月・火・木・金 朝8時より)
今朝の聖書の言葉 2018.12.27
自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。 ガラテアの信徒への手紙5章1節
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 みなさんは自由ですか?みなさんがたは奴隷ではありません、ですから自由であるといえると思います。しかし、完全に自由かというとそれぞれに制約のある中を生きておられると思います。職場や家庭や社会から有形無形の「縛り」を受けておられるでしょう。
では完全な自由を得たら私たちは幸せでしょうか?幸せに決まっていると思われますか?すべての人間が自由に生きたら、社会が混乱することは容易に想像できます。ハロウィンの日、渋谷や心斎橋に集まっていた人々は自分たちの自由を行使したのです。ワールドカップで盛り上がったとき、道頓堀にダイブする自由を行使した人たちもいます。そんな自由が幸せでしょうか?本人たちは幸せに感じているかもしれません。
しかし、本人たちは自分たちの自由を行使して幸せに感じていたとしても、その状態はむしろ自由ではなく奴隷なのだと聖書は語ります。罪の奴隷なのだと語ります。しかし、それは人騒がせな迷惑行為をしているから罪の奴隷ではありません。人間はみな罪の奴隷なのです。罪とは神から離れていることです。神から離れているとき、人間は良く生きたいと願っても良く生きることはできません。自分たちは渋谷や心斎橋で人に迷惑もかけていないし、犯罪も犯していない、ちゃんと社会生活をしている、そう考えられるかもしれません。でもそこには本当の自由はありません。自分の本当の欲求や願いを押し殺しているのです。
 イエス・キリストは私たちに本当の自由を与えるために来られました。私たちを罪の奴隷から解放するために来てくださいました。私たちは罪から解放されたとき、本当の自由を得ます。本当に自分と出会います。キリストと共に生きるとき、無理に自分の欲求や願いを押し殺すことなく、本当に自由にのびのびと生きていくことができるのです。
 自由をいただきましょう。本当の自由を得て生き生きと生きていきましょう。そのためにキリストは来られたのですから。
(バイブルアワー イン ザ モーニングは年内12月28日までです。新年は1月7日からです)


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