根無し草でよし
クリスチャンになって、精神的にというか気分的に楽になったことが二つある。
一つは自分の才能や能力のなさを嘆かなくても良いと気づいたこと。世の中には「天才」っているし、持って生まれた才能というのがある、逆立ちしたってかなわない、そんな人たちやその人たちの才能を羨んで自分を卑下する必要はない、そう思えるようになった。天才ということではなくても、優秀だなあと感じる傍らの人にいちいち嫉妬する必要もない。才能は神様が与えられるものだから。
もう一つは、自分が根無し草であっても良いと感じられるようになったこと。なんせクリスチャンの本国は天であって、この地上ではどこまでいっても「よそ者」なので、どこかの土地にどっしり根を下して、なんて発想はなくなった。自分の中に故郷を出てから、どこか落ち着かない「よそ者」感がいつもあった。自分が根無し草であって、それが妙なうしろめたさにもなっていた。
「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。 ヘブライ人への手紙11:13」
しかし聖書は、大々的に「みんなよそ者なんだ」と言ってくれている。根無し草でいいんだ!というのは大きな安心を私にもたらした。
、、、と書いてきたこととを矛盾するようだけど、私は今住んでいる大阪をなかなか気に入っている。しかし、もう30年も住んでいるが、どこまでいっても生粋の大阪人とは違うという感覚はある、言葉も考え方も。それでも人から見たら十分に大阪に根付いて生きているように見えるかもしれない。
最初からなじんでいたわけではない。ごくごく一般論的に言えば、たぶん九州人と大阪は相性が悪い。いまでこそ吉本が全国区になって、九州でも関西ノリというのは一定の理解を得ている。しかし私が若いころまではそうではなかった。福岡でのプロ野球の試合後、天神を練り歩く阪神ファンのノリを(別に阪神が嫌いというのではなくても)うざそうに冷ややかに見つめていた九州人の感覚というのがあった。大阪に本社のある会社に就職して、社内の九州出身者の集いに出たときも、「大阪なんか、、、、」という九州人のプライドぷんぷんだった(それはそれで九州ナショナリズムで良くないのですが)。
そんな私が大阪、ひいては関西に心燃やされたのは、他でもときどき書いているように阪神淡路大震災のときだ。あの日、私はたまたま東京にいた。神田の蕎麦屋のテレビで神戸の映像を見て息を飲んだ。神戸は住んでいたわけでも、特に関係がある街ではなかった。しかし、大阪に住む者としては、ときどき訪れるお隣の親しい街。神戸だけでない、新大阪駅の映像もあった(大阪市でも北部は被害が大きかった)。心が固まったようになっている私の耳に「わあ、ビルが倒れてらあ~」といういかにも他人事の軽い声が聞こえた。その声を聞いた瞬間、「あそこは<私の街>ではないか!?私の故郷ではないか!」そう私はテレビに向かって叫びたい気持ちになった。
幸い、当時住んでいた自宅や周辺には被害はなかった。しかし、職場は天井が落ち、窓ガラスが散乱していた。同僚で被災した人も多かった。また、それから数カ月の間、駅では登山姿っぽい重装備をして大荷物を抱えた人々を多く見た。ああ神戸に行くんだ、とすぐわかった。関西全体が痛みから立ち直ろうとしていた。(もちろん神戸や激震地域の人々からしたら、他の地域は「対岸の火事」みたいに思っていると感じられていた面もあるだろうけど)その頃から、大阪を自分の街だと感じるようになった。そう感じられるように神様がしてくださったのだと思う。
とはいえ、人間はどこまでいっても「よそ者」で根無し草だ。でも、この地上を歩むとき、キリストが置いてくださる土地がある。そこに堂々と住んだらいいのだ。生まれてからずっと同じ土地に住む人もあるだろう(実際、生まれて70年、ずーーーっと同じ家に住み続けている大阪の女性の友人もいる)。あちこちを転々とする人もあるだろう。行きたくないところに行かないといけない時もある。でも、神が動かされない限り、私たちは神が置いてくださった土地に住む。別のところに行きたいと願ってそれが叶うのなら、それも神の御心だろう。神様が置いておられるのだから、と、目いっぱい神様に責任をとっていただくつもりで気軽にその土地にいたら良いのだ。(なので私は生粋の大阪人でないけれど、大きな態度で大阪に住んでいる)生まれ故郷に錦を飾りたいと思っても良いけれど、飾れなくてもそれはそれで良し。望郷の思い、ことに諸事情で帰れない故郷への思慕も、やがて行く御国への希望によって深く慰められる。
究極のよそ者だから、徹底した根無し草だから、かえって気軽なのだ。今住んでいる土地と肌が合おうが合うまいが(もちろんそれが現実的に深刻な問題の時もあるけれど)、それはひとときのこと。私たちには安住の地がある。キリストが準備してくださった故郷がある。やがて故郷に帰るその日まで、今いる土地で生きていく。
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