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2022年7月

2022年7月28日 (木)

人生、死で終わり?

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神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない。コヘレト3:11
 私がキリストを信じる信仰を持ったのは中年になってからだったが、それまでも何か「大いなるもの」を求めていたところがある。
 一般的にも、たとえば震災とか、身近な人の死とか、そういうときに、もともと特に信仰はなくても否応なく、命を思い、また霊的な何かを感じるということもあると聞く。
 しかしまた一方で、徹底した「この世主義」もある。神も霊もない。死んだらそれまで。私などは信仰を持つ前から、「死んだらそれまで」というのはそれはそれで恐ろしいなと思っていた。「死んだあとも何かあってほしい」そんな思いがあった。
 宗教って、ある意味、「死んだあとも何かあってほしい」という人間の思いを回収する側面がある。(だから宗教は死の問題を解決したい人間の思いが作り出したものという説もある。)
 最近「死んだらそれまで」そう考えている方のご家族が亡くなられ、葬儀は無宗教で、家族がパワーポイントで亡き人の思い出を語る形で行うと聞いた。それでそのご家族が納得されるのならよいだろう。
 ただ葬儀の形以前に、今生きている私たちの命って何なのか?たしかに物理的には「死んだらそれまで」が。しかし、死ですべて終わりと考えるとき、今生きている私たちの命は輝くのか?そういうことを思わされた。
 感覚的な言い方になるが、キリスト教ではなくても、死後のこと、霊的なことを思うとき、人間は今生きている命の尊さを思うのではないか。刹那開き、明日は枯れる花のような命へのいとおしさがわくのではないか。そうでなければまさに「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか」ではないか。もちろん「死んだらそれまで」と思う人も単純な意味での快楽主義、刹那主義には陥らないだろう。誠実に限りある人生を生きていくだろう。しかしまた、ほんとうの意味での命の豊かさを知ることはないのではないか。
 私たちには「永遠を思う心」が与えられている。そしてそれが人間の「良き生」への渇望の根幹にある。愛の根源と言ってもよい。「永遠の愛」なんて、ロマンチストの戯言だと思う人もあるかもしれない。しかし、永遠でない愛はないし、永遠の愛を求めることが「良き生」の姿だ。その「良き生」は死で終わりではない。愛なき人生はむなしい。
(facebookの記事を加筆修正)

 

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