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2020年5月

2020年5月29日 (金)

朝の言葉「恵み」

朝の言葉~聖句短想「恵み」

あなたがたの救われたのは恵みによるのです。 エフェソの信徒への手紙2章5節

20140101-085319 命をいただいていること、生かされていることを感謝しましょう、というような言い方はクリスチャンでなくても言います。自分が自分の力だけで生きているわけではないこと、誰かのおかげであり、さらには神羅万象の恵みによる、ということは普通にも感じることです。

それに対して、あなたがたの救われたのは恵みによる、という言葉には、若いころの私であれば、反発を感じたと思います。

救いという言葉、そして恵みという言葉に、ネガティブな印象を持ったと思います。そこには自分の力はなく、ひたすら受け身的なように感じたと思います。もちろん自分が自分の力だけで生きているわけではないとは分かっていても、この言葉には人間の側の力を感じさせません。

たしかに、聖書は語るのです。神の一方的な恵みを。ひたすら注がれる恵みを。人間のちっぽけな努力や、思いを、はるかに凌駕する恵みを。

私たちが私たちの力で救いを得るのなら、それはとてもたいへんな道です。というよりも、罪深い人間には、それは不可能なことです。

それでもがんばってしまうのが人間です。

もう、頑張らなくても良い、そうおっしゃって恵みを注がれる、それが神です。

神の恵みに気づいたとき、不思議なことに(矛盾しているようですが)、新しく頑張れるようになった自分にも気づくのです。 

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2020年5月27日 (水)

朝の言葉「向かう先」

朝の言葉~聖句短想「向かう先」

すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。 ローマの信徒への手紙11章36節

20180126-223025 世界は混とんとしていて、時として、救いようがないように見えます。私たち一人一人の日々もはかなく移ろいやすい不安定なものです。

しかし聖書は、すべてのものは神が保たれている、と語ります。そして、神へ向かうという方向性を持っていると語ります。

私たちの日々は、時に大きな試練によって袋小路に入っているかのように見えながら、なおそこにも神の守りがあり、必ず出口へと私たちは向かっているのです。

そのことはどのようにして分かるのでしょうか?こう書くと、そんなことあるもんかと言われるかもしれませんが、それは心を静め、神を求めた時分かりますし、また聖書を読む時に分かります。私たちは神から「出た」ものだからです。私たちは神に造られたものです。神と無関係なものではないのです。ですから分かるのです。

鮭が生まれ故郷の川を覚えているように、私たちも出て来た元である神のことを知ることができるのです。神を知り、そして私たちの向かうべき先をも知らされます。 

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2020年5月26日 (火)

朝の言葉「貧しい人」

朝の言葉~聖句短想「貧しい人」

心の貧しい人々は幸いである。天の国はその人たちのものである。 マタイによる福音書5章3節

20190606-070230 経済的には貧しくても、心は豊かに生きましょう、と、ここで語られていないのは不思議です。

いやむしろ、みんな豊かに生きているでしょう?と聖書は問いかけているのです。この言葉の語られた時代であれば、人々は、神の律法を守り、聖書を学び、それこそ心豊かに生きていました。ローマ帝国の植民地に貧しく生きながら、人々はなお心豊かに生きていたつもりでした。

現代に生きる人々も、おおよそは、法律や社会道徳を守り、困ったときには助け合い、心豊かに生きています。日本で大災害が起きたとき、被災地で皆が礼儀正しく助け合っている姿は世界から称賛されるくらいです。

しかし、神なき豊かさは貧しいのだと聖書は語ります。律法を守り聖書を学んで、神を大事にして生きているようで、それは自分の豊かさ(力)に頼っているのだというのです。法律や社会道徳を守るのは確かに素晴らしいことですが、自分に頼って生きていくとき、それは必ず破たんするのです。実際、被災地で一生懸命復旧のために働いていた人々が燃え尽き症候群になってしまうということもあります。

自分の心の貧しさに気づくことが本当の豊かさへの道です。自分の心が貧しく、みじめで、罪深いことを知るとき、神を求めざるを得なくなります。そのとき、すでに天の国はその人のところへ到来しているのです。

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2020年5月23日 (土)

朝の言葉「知恵」

朝の言葉~聖句短想「知恵」

主を畏れることは知恵の初め。 詩編111:10

20140408-083459 知恵と知識は違うと良くいわれます。知恵は「物事の道理を判断し処理していく働き」と辞典には書かれています。それに対して知識は「ある事柄について、いろいろと知ること。その知りえた内容」と言われます。

つまり、知識として知っていても、それが物事を判断し処理することに益しないならば知恵とは言えません。

物事の道理を判断し処理する働きの最初にあるのは主(神)への畏れだと聖書は語ります。善悪や美醜を判断するには、刑法や倫理や芸術についての知識を豊富に持つことではなく、神を畏れることが最初に必要なのです。

神を畏れるのは、科学知識のない無学な昔の人のすることではありません。人間の限界をわきまえたとき、神への畏れは起こります。

逆に神への畏れがないとき、人間は傲慢になり、自分の知識に溺れ、判断を誤ります。

私たちは神というたしかに物事の道理を判断し処理していく知恵の源を与えられています。神こそが、私たちの人生の歩みの足元を照らす確かなともしびなのです。

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2020年5月22日 (金)

朝の言葉「賛美」

朝の言葉~聖句短想「賛美」

わたしは兄弟たちに御名を語り伝え
集会の中であなたを賛美します。 詩編22:23編

20190910-183357 賛美します、とはほめたたえますということです。
ほめたたえるというと、一般的には少し大仰な感じもします。かなり優れた功績をあげた人や立派な行いをした人を「ほめたたえる」イメージがあるかもしれません。日常的なことについては、ほめる、くらいが普通かと思います。
詩人は、あなた(神)をほめたたえると言います。もちろん全知全能の神は確かにほめたたえるにふさわしいお方であると思います。
しかし、神はほめたたえられて喜んだり良い気分になったりなさる方でしょうか?当然ながら、神はほめられたくて、良いことをなさるわけではありません。私たちがほめたたえようが、無視しようが、いえ、逆に罵ろうが、良いことをなさいます。
もっとも、人間の側からは、必ずしも神のなさることは良いこととばかり思えないこともあります。理不尽に思えること不条理なことが私たちの日々には起きてきます。
しかしなお、私たちはそのすべてを「神の良いこと」として受け取ります。
「そんなことは無理!」と思われるでしょう。もちろん無理はしなくていいのです。神に異議申し立てをしても良いのです。なぜ?と問うてもいいのです。
そのような自然な神との交わりをしながら、やはり神は良いことをしてくださるという確信に至るプロセスの中で、私たちは神をほめたたえるのです。
神をほめたたえ、賛美するとき、なにより私たち自身が神との良き交わりの内に入れられ、喜びを与えられるのです。

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2020年5月21日 (木)

朝の言葉「恥」

朝の言葉~聖句短想「恥」

わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシャ人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。ローマの信徒への手紙1章16節

20190925-181040 日本は<恥の文化>だと、かつて言われました。ひとさまの前で恥ずかしいことはしない、いやたとえ誰も見ていなくても、恥ずべき行いはしない、そのようなメンタリティがあったように思われます。今は、恥も外聞もない、自分さえ良ければよい、利益さえ得られればよい、そのような浅はかな風潮がはびこっているようです。

2000年前、パウロは「福音を恥としない」と言いました。かつての彼の誇りは自分が神から選ばれたユダヤ人であり、家柄も良く、聖書に精通して、学識があるということでした。自らを「ヘブライ人中のヘブライ人」というほどの誇りを持っていました。イエスなどという学問もない田舎者にたぶらかされ、変な新興宗教を伝えている人間を恥ずべき存在だと考えていました。

しかし、その彼が180度変えられました。自分自身が復活のイエスと出会い、まことにこの人こそがキリスト、救い主であることを知ったからです。それと同時に、それまで彼が誇りとしていたすべてのことが塵やあくたのように見えるようになりました。

一方で、世間一般では、イエス・キリストを信じることは恥ずべきことでした。まともなユダヤ人の社会のコミュニティから排除されるようなことでした。しかし、なお、彼はイエス・キリストを信じることを、イエス・キリストの教えを良き知らせ(福音)を伝えることを恥としませんでした。それは彼の信念の強さとか、信仰理解が正しかったからではなく、彼が神ご自身から力を与えられたからです。プライドで凝り固まっていた時には感じられなかった、本当の救いを与えられたからです。

ほんとうの誇りとは、自分の内にあるのではなく、自分を救ってくださる神からやってくるものです。神ならぬものにプライドを持つことこそ恥なのです。

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2020年5月19日 (火)

朝の言葉「わたしの岩」

朝の言葉~聖書短想「わたしの岩」
主はわたしの岩、砦、逃れ場/わたしの神、大岩、避けどころ/わたしの盾、救いの角、砦の塔。詩編18編3節

20141113-083142 神さまを信じたからといって、病気にならないとか、お金が入るとか、人生順風満帆ということはありません。それは神が無力だからではありません。厳しい言い方になりますが、自分にとって不都合な現実もまた、神が許されている現実なのです。私たちは私たちにとって喜ばしくない現実、時に不条理とも思える現実の中で生きていきます。
そんな神様は不要な神さまでしょうか?
しかし、不思議なことに、神の現実を受け入れて生きていくとき、たしかに私たちは守られていることを知らされます。
困難の中で、弱音を吐き、怒りを覚え、涙を流します。しかし、その思いをぶつける相手がおられることを知ります。嘆きがむなしくならず、心から嘆くことができるようになります。そしてそのことが支えであり慰めであることを知ります。
私たちの思いを受け止めてくださる神の御元に身を寄せる時、たしかにそれは救いの岩であり、ただ一つの砦であることを知ります。
兵士が前線から、いったん退却をし、休息をとり、ふたたび、前線へと向かうように、私たちにも退却できる場所があるのです。そこで神と出会い、神に力と知恵と安息を与えられ新しく歩み出すのです。神を岩として持つ者は人生をタフに生きていくことができるのです。

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2020年5月18日 (月)

朝の言葉「相続人」

朝の言葉~聖書短想「相続人」

もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。 ローマの信徒への手紙8:17

20160613-193032 聖書の世界においては「法」ということがたいへん重視されています。日本では「血は水よりも濃い」というように、血縁、血のつながりが大事にされますが、聖書の世界では法的なつながりを大事にします。

ここで、相続人という言葉が出てきます。そもそもキリストを信じる者は、<神の子供>と言われます。それは厳密には養子、法的な子供のことです。しかし、法的に子供であるということは、すでに聖書に置いては揺るぎなく正式な相続人であるということです。神のもともとの御子であるキリストと同等の権利を有するということです。

相続というとき、この世でつきものなのは、揉め事です。ことに財産のあるところの方が、揉めます。もちろんわずかな財産であっても相続において揉めることもありますが、概して、莫大な財産があるところほど、泥沼といっていいような揉め方をします。家族や親族が疑心暗鬼でいがみ合います。

しかし、神の財産相続には揉め事はありません。だれにでも莫大な相続財産が与えられるからです。永遠の命において使い切ることのない喜びが与えられます。

相続においては、もめ事はありませんが、これはキリストが先立って戦って勝ち取ってくださった相続権です。キリストが戦い、血を流して、私たちに与えてくださった権利です。私たちはただ感謝してそれを受けます。無条件で平和に相続するのです。

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2020年5月15日 (金)

朝の言葉「聞きなさい」

朝の言葉~聖書短想「聞きなさい」

イスラエルよ、静かにして聞きなさい。あなたは今日、あなたの神、主の民とされた。 申命記27:9

 20200513-160105 教室に先生が入って来て、それまでざわざわしていた生徒たちに向かって、「静かに!」と言います。あるいは会議の始まる前、司会者が「ご静粛に」と言います。

しーんと場が静まります。皆の目と耳が集中します。第一声に期待が膨らみます。

そんな場面で告げられたことは「あなたは今日、神の民とされた」ということです。あなたが神を選び、自分の神と認めたというのではなく、神の側があなたを自分の民と認め、愛する者として受け入れられたということです。人間の側がなにかの条件をクリアしたわけではありません。ただ、そこには神の愛と憐れみがあるのです。私は、あなたを受け入れるとおっしゃってくださっているのです。

学校であれば、学業やスポーツで評価され、社会では能力や実績や地位や財力で評価されます。家庭にあっても、良い子であるか、良い夫であるか妻であるか、立派な親であるか等々、私たちは他者からも自分からも評価されます。

そういう評価とは無縁の愛があります。それが神の愛です。

その愛の言葉を私たちは聞きます。静かにして聞くのです。あれこれと思いまどうこと、ざわざわと波立つ心を静め、ひととき静かにして聞くのです。静かにして聞くとき、その愛の言葉は聞こえてくるのです。

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2020年5月13日 (水)

朝の言葉「暗闇の中にとどまらないように」

朝の言葉~聖書短想「暗闇の中にとどまらないように」

わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。ヨハネによる福音書12章46節

20190726-185606 光あふれる日々と聞くとなにを感じるでしょうか?悩みのない順風満帆な日々でしょうか。脚光を浴びる人生でしょうか。春の穏やかな日よりのような平安な日々でしょうか。そんなものは自分には無縁だと感じるでしょうか。子供じゃあるまいし、お日様に向かって能天気には生きられない、大人は人生の闇を知って耐えながら生きていくのだと感じる人もいるかもしれません。

私は、自分自身が穏やかな家庭で育ったわけではなかったので、自分に子供ができて、曲がりなりにも穏やかな家庭ができた時、幸せを感じました。夫と私の間に子供がいて、手をつないで一緒に公園に行った日の、あの穏やかな午後の光を今も忘れることはできません。

しかし、人生は移ろいやすく、光が闇に暗転することもままあります。

たしかに人生には暗闇と思える時があります。しかし聖書は語るのです。「暗闇の中にとどまることのないように」と。しかし、私たちが自分で暗闇のなかで光を求めてさまようのではありません。すでに光として世に来られたイエス・キリストがおられるのです。

すでに光として来られた方を信じる時、真っ暗闇に見えていた日々に光が射しこみます。絶望しか見えない世界に希望が見えてきます。

いま、コロナ禍で、世界は暗澹としています。宗教ではウィルスには勝てないだろうという声も聞こえます。たしかにイエス・キリストを信じたら、感染症にかからないとか、守られるということはありません。しかし、どのように暗澹とする状況であっても消えることない光を与えてくださる、それがイエス・キリストです。キリストによって私たちは闇から光へと移されるのです。

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2020年5月12日 (火)

朝の言葉「言葉を守る」

朝の言葉~聖書短想「言葉を守る」

わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。ヨハネによる福音書14:23

20200506-085439 聖書の言葉は、倫理的規範、道徳のようにも聞こえます。「隣人を愛せ」とか「盗むな」といった言葉はたしかにそのように聞こえます。

そもそも、宗教とは、倫理的道徳的に優れた人となるためのもの、という先入観は多くの人にあるかと思います。実際、クリスチャンでない人には、「クリスチャンは敬虔な立派な人」と思われている節があります。逆に「クリスチャンのくせに」と後ろ指を指されることもあります。

一見、倫理的規範、道徳に見える言葉でありながら、聖書が語るのは「愛に基づく」言葉です。愛する者同士がお互いの言葉を大事にするように、わたし(イエス・キリスト)を愛するあなたはわたしの言葉を聞いて、聞き流したりせず、守ってくれますよね、と語りかけます。そしてキリストもまた、わたしたちの言葉を聞いてくださるお方です。愛し愛される関係における言葉には信頼と相手への犠牲があります。(犠牲といっても、いやいやではなく、喜びのうちに捧げる犠牲です)

キリストが私たちの罪のために十字架にかかってくださった、すべてを差し出してくださった、その信頼の内に、私たちはキリストを愛し、その言葉を聞き守ります。キリストが命がけで私たちの命を守ってくださったように、私たちもキリストの言葉を愛し、守ります。

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2020年5月 8日 (金)

朝の言葉「記念として」

朝の言葉~聖書短想「記念として」

世界中どこでも、この福音が宣(の)べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。マタイによる福音書26章13節

20200507-162407  「この人」はとんでもないことをしました。香油という強烈な匂いのするものを主イエスにぶちまけたのです。香油は死体の防臭のために塗られるものでもありました。高価なものでもありました。それを壺ごと注いだのです。香水でも、大量につかうとむせかえるような状況になります。皆が食事をしようとしていた部屋中に、ひどく匂いが満ちて、人々は憤慨しました。

 しかし、主イエスは「この人」は良いことをした、この人のしたことは記念として伝えられる、とおっしゃいました。主イエスの十字架の時が迫っていました。香油を注ぐというのは、十字架で死なれる主イエスの葬りを先立って行ったということでもあります。「この人」自身にその自覚があったかどうかは定かではありません。しかし、実際に、2000年に渡り「この人」のしたことは、主イエスの死への葬りの貴い奉仕として伝えられました。

 人間の側に自覚があろうとなかろうと、神は私たちを大事な良き業のために用いてくださいます。「この人」のように、私たちの小さな行いが大々的に2000年も伝えられていくことはないかもしれません。しかし、神は「記念」として大事に覚えていてくださるのです。事の大小にかかわらず、私たちの自覚の有無に関わらず、神は私たちの小さな行いを「記念」としてくださるのです。

 私たちは、神と共に歩む日々に、ただ淡々と、日々のことをこなしていきます。誰の目にも止まらない、当たり前のことをしているだけかもしれません。しかし、神は、慈しみをもって、私たちの小さなひとつひとつを「記念」としてだいじにしてくださるののです。

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2020年5月 7日 (木)

朝の言葉「目を覚ましていなさい」

朝の言葉~聖書短想「目を覚ましていなさい」

だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。 マタイによる福音書25章13節

20190802-191907 <その日、その時>は終わりの日、神の裁きの時と考えて良いでしょう。目を覚ましていなさい、とは、いつ神にまみえても良いように生活をしなさいということです。

そう言われると、四六時中、緊張して、立派に生きていないといけないように感じます。しかし、そもそも、私たちは、いつも起きていることはできません。眠るときもあれば、ぼんやりしたり、だらだら過ごすこともあるのです。四六時中、神さまの前で恥ずかしくない生活を私たちはできません。(いや、できる人もあるかもしれませんが、たいていの人は無理でしょう)

では、これは無理難題を私たちに押し付けている言葉でしょうか?この聖書箇所の前を読むと、花婿を迎える乙女たちが(乙女たちは婚礼の場所までの案内役のようです)ともしびに油を準備して待っている場面があります。乙女たちは花嫁の到着が遅く、皆、眠ってしまったのです。でも、「花婿だ」と知らせる声で彼女たちは目を覚まし、ちゃんとともしびに油を用意していたので、油が切れることなく、花婿を無事迎えることができます。

乙女たちのように、私たちも眠ってしまうのです。しかし、<その日、その時>には呼び起こしてくれる声があるのです。その声がした時に、油を準備していた乙女たちのように備えてさえいれば、私たちは恐れずに神に出会うことができます。備えは、神を待つ心です。

私たちが眠っているときも、守ってくださる神を信頼して、私たちは<その日、その時>を待ちます。

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2020年5月 6日 (水)

朝の言葉「あの世ではなくこの世で」

朝の言葉~聖書短想「あの世ではなくこの世で」

神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。マタイによる福音書22章32節

20180918-141735 この世をあきらめて、あの世での幸せを望むのではありません。死ではなく命に生きることを聖書は語ります。もちろん、聖書は肉体的な死ののちのことも語ります。しかし、肉体的に生きているにせよ、死んでいるにせよ、そこに生き生きとした喜びがなければ価値はありません。「退屈な天国」にいても仕方がありません。

聖書は神と共に「今」を生き生きと生きることを示します。もちろん日々には試練も、つまらないことを多くあります。どんよりとした気分になることもあります。しかしなお、「今生きている私」の神であるお方と共にあるとき、日々から希望が消えることはありません。

私は、神を知る前、それなりに生きがいをもって生きていたつもりでした。多忙に、でも楽しみも多く生きてきたつもりでした。しかし、そこには本当の希望はなかったのです。私は本当には生きていなかったのです。

神による希望を知った時、本当の命が始まります。「わたしは<あなたの神>だ」とおっしゃってくださる方と共に本当に生き始めるのです。

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2020年5月 5日 (火)

朝の言葉「ろばに乗った王」

朝の言葉~聖書短想「ろばに乗った王」

弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにし、ろばと子ろばを引いて来て、その上に服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。マタイによる福音書21章6-7節

20140401-172221 白馬にまたがって威風堂々と王がお越しになったのではありませんでした。主イエスは、労役に使われるろばにのって、都エルサレムに入られました。お付きの者たちも、立派な武人や騎士ではなく、元漁師の田舎の人々を中心としていました。想像すると貧相な場面です。

しかし、やはり、主イエスは王として都に来られました。武力をもって制圧するこの世の王ではありませんでしたが、権威と力を持ったお方として来られました。

民主的と言われる現代社会に生きる私たちは、王というような特権的な存在に服従して生きるあり方に慣れていません。自由と自立を大事にします。言ってみれば、私たち一人一人が王です。

しかし、私たちは本当に自由に自立的に生きているでしょうか?自由に、判断、選択しているつもりが、メディアや他者に知らず知らずのうちに流されていないでしょうか?組織や慣習に縛られて生きていないでしょうか?私たちは王というより奴隷に近いのではないでしょうか?何より私たちは自らの内なる悪(罪)をどうすることもできません。

逆説的になりますが、絶対的な王、権威を私たちの内にお迎えする時、私たちは本当の自由と自立をいただきます。この世の権威や、慣習から自由になります。何より内なる悪から解放されます。

今日も私たちの戸口に、ろばに乗った柔和な王は待っておられます。

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2020年5月 4日 (月)

牧師のつぶやき、高政という息子


斎藤道三の息子

歴史にはとんと疎い私が、ほぼ人生初めて大河ドラマを見ている。(子供のころ、家で親は見ていたけれど、私はまったく興味がなく一応テレビ20140211-131421は見ていたはずだが、全然記憶にない)

その大河ドラマ「麒麟がくる」の斎藤道三の嫡男高政は、最初、マザコンのバカ息子と思っていたが、決してそうではなく、「そこそこ」に能力はあることがわかる。だからこそ父道三から家督を譲られ、国衆も一定の支持をするのだ。その高政が弟たちを殺し、父との対決に向かっていく。そして、自分は道三の息子ではなく、土岐家の血を引く者だと語る。

それに対する道三の言葉「高政は人を欺き、自らを飾ろうとしている」「上に立つ者は正直でなくてはならぬ」「偽りを申す者は必ず人を欺く。そして国を欺く」は珠玉だった。

そもそも高政は、自らの「そこそこ」さを自覚できるほどに賢い。ゆえに、その「そこそこ」を突き破れないジレンマと、父への屈折した情念で、突き進んでいく。

考えたら多くの人間は「そこそこ」なんだ。突き抜けた才覚を持った人間なんて一握り。しかし、「そこそこ」な人間はそこそこなりに、豊かに生きてゆくことはできる。それは凡人の諦めとか、妥協ではない。

そもそも、人間の価値はそこそこの才覚か、突き抜けたものを持っているかではない。才覚、才能は神が与えるものだから、人間の側の価値にはならない。
人間の側の価値は、与えられたもののなかで、道三の言うように「正直」に自分を飾らず生きていくこと。他者を思いやって平和に生きようと努力すること。

聖書的にいえば、神と隣人を愛すること、それに尽きる。神が与えてくださったものを感謝し、隣人を愛して生きていくのだ。神は私たち一人一人にそれぞれに異なる「十分なもの」を与えてくださっているのだから。それを「そこそこ」(あるいは全然ダメなもの)と卑下するのか、感謝するのか、そこに一人一人の生き方がかかっている。

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朝の言葉「仕える者」

朝の言葉~聖書短想「仕える者」

あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。マタイによる福音書20章26節

 20191108-171921あの人は腰の低い人だ、とか、へりくだっているというのは褒め言葉です。腰の低い人、へりくだっている人を悪く思う人はあまりいません。(もっとも性格の悪い私などは、「それが本心か?」と疑って見てしまって、むしろ、奔放な態度を取る人の方が正直で良いなと思ったりもしますが)

 イエス・キリストの弟子たちの間でも、誰が一番偉いのかという争いが起こったことが聖書に記されています。愚かな人間の争いが弟子たちの間でもあったのです。そんな弟子たちに対して主イエスが語られたのが、今日の言葉です。

 ここで、仕える者とは、給仕のことであり、僕とは奴隷のことです。単に腰を低くせよ、へりくだれというレベルではないのです。食事をする人の脇で自らは食べずサービスをし、主人のために自らの自由なく働く奴隷のようになれ、とおっしゃるのです。これは、端的に言って「愛しなさい」ということです。

 しかし、人間にはできないことです。仕えることも、僕になることもできません。自分が仕えられたいし、僕にかしずかれたいのです。

 ただお一人、皆に仕え、僕になられたのがイエス・キリストでした。みじめな自由を奪われた罪人として十字架におかかりになりました。その姿こそ仕える姿であり、僕の姿でした。私たちへの愛のゆえです。

 私たちはそのキリストを思いつつ、生涯かけて愛を学んでいきます。

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2020年5月 2日 (土)

朝の言葉「沈む」

朝の言葉~聖書短想「沈む」

しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。 マタイによる福音書28章30~31節

20191022-173210 主イエスは湖の上を歩いてペトロたちの方に向かって来られました。ペトロは主イエスに自分も湖の上を歩いて主イエスの方に行きたいと願いました。主イエスが「来なさい」とおっしゃると、なんと、ペトロも湖の上を歩けたのです。でも、強風が吹いていることに気づき、怖くなった途端、沈みそうになりました。

信仰のビギナーズラックのようなことがあります。無邪気に神様を信じて、どんどんと道が開かれるような時があります。しかし、それは長く続かないのです。強い風にふと気がつくのです。この世界の常識やら、試練やら、そういったものに、ふと心を向けてしまいます。すると湖に沈み込むように、事態が悪化します。

疑うなと言われても、私たちは疑う者です。現実の壁は厚いのです。主イエスは「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と問われます。しかし、その問いの前に「すぐに手を伸ばして捕まえ」てくださっています。

私たちの信仰は薄く、疑いやすい者です。そして失敗をするのです。でも、私たちは完全な信仰を求められているのではありません。疑ったり失敗したりということを繰り返すのが人生です。沈みそうになったら「助けてください」と叫ぶのです。叫ぶとき、必ず、主の手が捕らえてくださいます。いえ、叫ぶ前から、主は私たちを捕らえ、守ってくださっています。意気揚々と自分の力で湖の上を歩いていたつもりの時から、ずっと主イエスは私たちを守ってくださっていたことに、風が去ったあと、気づくのです。

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2020年5月 1日 (金)

朝の言葉「喜びながら帰り」

朝の言葉~聖書短想「喜びながら帰り」

天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。 マタイによる福音書13章44節

20200424-095022   この聖書箇所は天の国はすごく価値のあるものなのだ、全財産を売り払うほどの価値のあるものだいうたとえ話として、さらっと読んでも良いかもしれません。

 しかし、少しひっかかるところもあります。まず、宝が隠されているのに、それを申告をせずに買い取るというのは不正取引ではないかということ。元の持ち主は宝のことを知らず売ったのではないかと思われます。

 そしてまた、天の国はすごく価値がありますよ、と言われても、じゃあ自分のすべてを売り払えと言われると躊躇します。逆に言いますと、それほどに信仰が強く、すべてのものを捨てる覚悟でないと天の国には入れないのかという疑問もあります。

 畑の宝は、おそらく、他の人には「隠されていた」ものだと考えられます。そもそも宝の価値は見つけた人にしか分からなかったのです。それが黄金とか、埋蔵金とかであれば、誰にでも分かったでしょう。しかし、神が与えてくださる宝はキリストによる救いです。そこに宝があるといっても、その価値は多くの人には分からなかったと考えられます。買い取った人は、この世の商取引としては不正をしていなかったのではないかと考えられます。

 ではその宝は、自分のすべてを捨てなければ、得られないものでしょうか?

 ここで、一つ言えることは、イエス・キリストはすべてを捨ててくださったということです。命も名声もすべて捨ててくださった。私たちに宝を与えるために。私たちの全財産以上のもののために、イエス・キリストはすべてを捨ててくださった。

 私たちは、すべてを捨てることはできません。ただ、すべてを捨ててくださったイエス・キリストのゆえに、喜びながら帰るのです。そしてその感謝のゆえに、いただいた宝を生涯かけて神と隣人のために用いていくのです。

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