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2014年2月

2014年2月17日 (月)

主を尋ね求めよ~湖蓮日日献身編

 面談の場で、私は聞いた。

 「すでに任地が決まっているのですが、どうしたら良いでしょうか?」

 面接官が慌てて私の受験書類に目を落とされた。しかし言われた。

 「それは、、、招聘先との話し合いになります。いったん話が白紙に戻るかもしれませんし・・・」

 招聘の関係者に連絡すると、基本的に信徒伝道者として予定通り4月から赴任する方向で調整する、と言われた。

 実際、そのように調整された。関係の皆さんに、ほんとうにご迷惑をおかけすることになってしまった。現在の所属教会から、赴任予定の教会へ信徒の身分でいったん転籍をして、「副牧師」的な仕事をしながら再度、試験を受けることになった。

 「赴任」は4月からであったが、3月の上旬に、主任となる牧師、および教会の方との顔合わせを兼ね、赴任予定の教会で主日礼拝をお捧げした。はじめて降りる駅で初めての教会に向かった。はじめて教会に行った日のようであった。赴任予定の教会は創立130年を超える伝統ある教会であり、そんな格式ある教会に、試験に落第したとんでもない「副牧師」候補はどのように迎えられるのか不安であった。

 前日に、佐世保から分骨してきていた母の骨を大阪教区の墓地へ納骨したところだった。試験には落ちてしまったが、いろんな意味で区切りの季節であった。

 古い木の香りのする教会に入り、吉浦であることを告げると、年配のご婦人の長老が

「ようこそおいでくださいました。お待ちしておりましたよ。」

 とおっしゃってくださった。その一言がほんとうに涙が出るほどうれしかった。

 4月からその教会に仕えながら、新しい生活が始まった。また、これは試験の結果に関係なく決めていたことであったが、神学校の授業を何科目か聴講(科目等履修を含む)をした。大阪基督教短期大学と関西学院大学でそれぞれ数科目を受講した。学校の構内を若い人たちに交じって歩きながら、心がふーっと、ほどけていくような感覚をもった。長い会社員生活と、K先生の指導はあったとはいえ孤独なCコースの学びからの解放感はとてつもなかった。試験勉強としての学びと本当の意味での神学や伝道者訓練の違いを肌で感じることができた。

 教会の仕事はとても楽しかった。ホームページ作りや事務作業ひとつひとつが、とてもやりがいがあった。休校していた教会学校も再開して、毎週、子供向けの説教をさせていただいた。

 また月に一回程度、無牧の教会で礼拝の奉仕を担当させていただいた。これは主日礼拝の司式も含めて説教も任せられた。ほんとうに畏れ多い仕事をさせていただき緊張とともに喜びも大きかった。

 そうこうしているうちに、次の試験はあっという間にやってきた。私の場合、筆記試験は残っていなかったので、7月初旬に事前提出する「旧約聖書釈義」「新約聖書釈義」が試験のすべてだった。

 8月になって、他のCコース受験者複数の人から、事前提出レポートの再提出要請が届いたという情報をいただいた。私のところには今回は再提出の要請は来ていなかった。え?それは合格点に達しているということ?

 とにかく前回の悪夢があるので、不安だった。でも自宅ポストを毎日覗いても通知は届いていなかった。再提出も不要なくらい出来が悪かったとか・・・まさか、、、、そんな不安が頭を巡った。

 不安なまま、9月の面接試験の日を迎えた。秋季試験は、東京で実施される春季試験と異なり大阪クリスチャンセンターで実施される。春は泊りがけで東京に行ったが、今回は地元ということで、多少、気は楽であった。筆記試験のない私は初日のオープニングなどには出席しなかったが、遠方から泊りがけで来ていたCコース受験の仲間と初日の夜、お好み焼きを食べに行き、さまざまな情報交換をした。私は試験もこれまで春季試験だけで毎年合格して来て、秋に追試(レポートの追試は一回あったが)を受けることはなく順調に来ていた。でも勤務の都合で春に全科目受けられず秋季に追試を受けながら苦労してきた仲間もいた。皆、任地もこれからの話だった。そういう話を聞くとき、自分がどれほど恵まれていたかを改めて思った。

 地元の私はその翌々日が面談だった。前日、面談をすでに終了していた遠方からきた仲間たちから、補教師試験の合格者は1名(A,B,Cコースすべて合わせて)と聞いていた。残り半数くらいが「保留(追試レポートあり)」だとのこと。仲間たちは皆、「保留」でそれぞれにレポートの課題を与えられたそうだ。彼らは「合格の一名はきっと吉浦さんでしょ」と言ってくれたが、どうにも不安だった。

 いよいよ自分の面談の番となり部屋に入ると面接官の一人が話し始められた。

「前回の試験では、吉浦さんのご希望に沿うことができませんでした。でも、そののちの半年間、吉浦さんがたいへんなご努力をなさってきたことを、わたしたちは皆、知っています。」

 その言葉だけで目頭が熱くなって、ここで泣いてはいかんと思いつつ踏ん張り、その後の諮問に答えた。試験結果は合格であった。

 うれしいのだが、やったーという気分ではなく、いろんな感情があって胸がいっぱいであった。

 試験場となった大阪クリスチャンセンター1階の喫茶店のママさんのNmさんのところへ行った。Nmさんの顔を見ると、また胸が詰まってしまった。Nmさんの背後の壁にはこの喫茶店を立ち上げたNさん・・・私の献身の背中を押し三年半前に亡くなったNさんの小さな写真が貼ってある。 私が黙ってるのでNmさんが少し不安な顔をされた。慌てて私は

「合格でした」

 と報告した。Nmさんの顔が緩んだ。亡くなったNさんが、晩年、監事をつとめられ尽力されたこの大阪クリスチャンセンターで合格の報を聞けたのは良かったのかもしれない。Nさんからは「そんな人間的な甘ったるいことゆうたらあかん」と叱られそうだが。

 重い大きな扉がようやく開いた。やっと第一歩を踏み出すところへ、たどり着いた。学びを導いてくださったK牧師からは

「おめでとう。あなたにこの半年の時間が与えられた理由は、のちのち、神様が教えてくださるでしょう」

と言われた。

 その後、12月に教区で准允を受け、正式に伝道師として招聘を受けて歩むこととなった。でも今、その歩みの困難さを改めて思っている。「明日はどっちだ!?」振り出しに戻るかのような思いも持つ。ある牧師がツイッターのDMで准允を祝してくれた。

 「ジェットコースターがてっぺんに届いて前に動き始めました。もはや脱出はできません。もう誰にも止められません。あとは主の導かれるままに。でも、ジェットコースターは基本的に安全なので、安心してください。神様のコースターなら、なおさらです。祝福を祈ります。」

 でもやはり神様のコースターであっても怖いし絶叫したくなる。・・・いや絶叫してごらんと神様はおっしゃっているのかもしれない。私を呼べ、と。いつも私を呼べ、とおっしゃっている。会社を辞めて1年ちょっと、また、不合格だった春季試験から1年たった今、新たに真剣に(いままで不真面目だったのかい!?、と突っ込みたくなるが・・)神と向き合うように示されていると感じている。

 新たなみことばとともに歩んでいきたい。

Dendousi_2主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。

呼び求めよ、近くにいますうちに。 

   イザヤ書55章6節

 

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2014年2月 7日 (金)

遣わされたものとして~湖蓮日日献身編

P1000548  母は軽い心筋梗塞とのことでカテーテル手術をすることになった。母とは、12月の退職前、最後の出張の仕事が博多でだったので、その前に佐世保まで足を伸ばして母のいるグループホームで会ったのが最後だった。認知症が進んでいて私のことはまったくわからなかった。

 昔のことならわかるかもと思って、持っていった私の子供の時の写真や息子(母の孫)の赤ん坊の時の写真を見せたが、「かわいかね。」「ふたりともあなたのお子さんですか?」ときょとんとしていた。が、体はいたって元気そうだった。ホームの職員さんも「このホームで一番体は元気で健康です」とおっしゃっていた。

 妹の連絡をうけて、翌日、佐世保へ行き母の手術に妹と一緒に立ち会った。手術は無事終了し、一か月の入院予定とのことだった。

 大阪に戻り、ふたたび再提出のレポートの準備を始めたが、今度は私の体調が思わしくなかった。疲れから風邪をひいたかなと思った。熱があるようだったが、いま、体温を測って熱があるのがわかったら、ぐったりして寝込んでしまうと思って、とにかくレポートを仕上げた。レポートを提出してから熱を測ると、38.6度だった。私は年に数回、疲れた時などに突発的に高熱を出すのであまり気にしてなかったが、病院に行ったら、インフルエンザと診断された。記憶にある限り、生まれて初めてのインフルエンザ罹患だった。高熱に慣れている?私だったがこのインフルエンザはきつかった。体のあちこちが痛み、1週間近く寝込むことになった。

 ようやく回復して、試験勉強を再開した。試験が迫り、かなり焦っていた。実はちょうどそのころ、指導してくださっているK先生は夏に診断された癌の放射線治療を開始されていた。毎日通院されながら、私からの過去問題の解答への添削もほとんど毎日してくださった。

 試験まで2週間と迫ったとき、母が入院している病院から連絡があった。母の容態が急に悪化したので緊急再手術を今から開始するとのことだった。その数時間後、今度は妹から電話があった。

 「手術したけど、だめって・・・。もう、24時間もたんって・・・・。」

 ふたたび佐世保へ向かった。今度は息子と一緒に向かった。

 私は混乱した。実は母が認知症になる前の数年間、私は母と疎遠になっていた。さまざまな確執があった。思い起こせば、その確執について相談したのがN姉と親密になった最初のきっかけだった。それまでは華やかで押しの強いN姉とはむしろ私は意識的に距離を置いていた。ただ、母とのことで悩んでいた時、彼女ならこんな私的なややこしいことでも相談できそうに思えて、突然電話をしたのが最初だった。彼女のアドバイスはどのようなときでも信仰的だった。きびしくズバッと言われることもあったが最後にはかならず神様のことに話はいきついた。

 母へは、本当に複雑な思いがあった。妹が素直に母を思って泣いている横で私はそのような思いになれなかった。そんな自分が嫌だった。

 いっぽうで虫の良い思いも持っていた。私がいつか牧師となったとき、母に万が一のことがあったら、私自身の手で葬儀をしたい。母の葬儀の司式をしたいとも思っていた。

 でもいま、母が亡くなってしまったら、それもできない。私はまだ牧師にもなっていない。まだ補教師になる試験にすら通っていないのだから。

 東京のある親しい牧師に電話をして事情を話した。いつも相談事をすると柔らかく対応してくださり、ほっとした気持ちにしてくださる先生だった。

 しかしそのときの口調は厳しかった。

 「吉浦さん、あなたとお母さんの間にこれまで何があろうが、あなたがいまおかあさんのことをどう思っていようが、そんなことはまったく関係ありません。

 大事なことは、あなたはもうすでに神様によって、お母さんのもとに、家族のもとに遣わされているということです。いいですか?遣わされているんですよ。 

 だから行って、なすべきことをするんです。あなたのするべきことをするんです。」

 さらに言われた。

 「そして、もし仮にお母さんの地上での命が終わったとしても、、、、それで終わりではありません。神の業は死では終わりではありません。そんなもので神さまのなさることは終わらない。だから、行って、遣わされた者としてあなたは家族の中でなすべきことをなしなさい。」

 その言葉を胸に私は佐世保へ向かった。その夜、母は地上での生涯を終えた。

 葬儀と納骨を済ませて帰阪し、試験までの数日、全力で勉強をした。任地も決まっているので落ちるわけにはいかなかった。

 ・・・・しかし、結果は不合格だった。筆記試験の「組織神学」「旧約聖書神学」「新約聖書神学」「宗教法人法/教憲・教規」、事前レポートの「牧会学」は合格だったが、再提出した「旧約釈義」「新約釈義」が不合格だった。筆記試験の不合格なら、一年目の時のように<追試>という場合もあるが、レポートの場合は、次回試験(9月)を受験のこと、ということであった。

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