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2014年1月 2日 (木)

明日はどっちだ~湖蓮日日献身編

20131217  2014年が始まった。昨年秋から創世記を読み始めてほどもなく、アドベント前から、多忙を極めて中断中。とほほ、である。

 聖書を読み進めることも再開したいが、昨年末、ふと自分が教会にはじめて行ってからちょうど10年だということに気がついたのもあって、受洗編の続編として献身編を書いてみるのもいいかと思っている。更新は不定期と思うし、聖書を読む記事と交互になるかもしれない。まあ献身編も受洗編同様、数回で終わる予定だが。。。。

 ということで、発端は、、、受洗後3、4年後くらいのことだったと思う。諸般の事情から母教会から別の教会に移ったけど、そこの教会の牧師と当時なんだか気が合ったこともあって、それなりに楽しい教会生活を過ごしていた。

 ただ、なんとなく食い足りないというか、すっきりしない思いもあった。いろんな、いわゆる<信仰の養いのための本>はあれこれ読んでいたが、もっとなにかぐっと勉強をしたい気がしていた。

 K.バルトの「ローマ書講解」が名著であると聞き、高価であったが買って読もうとしたが、なんだかやけにテンションの高い訳語で辟易したのと、やはり内容が今一つ私には難解で読み進めなかった。

 牧師に言った。

「『ローマ書講解』買ったんですけど、10行しか読めませんでした。」

 牧師は、呆れ顔で言った。

「情けない。10行だなんて。」

と、とっとと2Fの牧師館に駆け上り、ふたたび1冊の本を手にして降りてこられた。

『K.バルト 教義学要綱』

曰く「バルト読む気なら、まず基礎を固めてから読め」

 当時、その本をどんなに胸を高鳴らせて読んだか。ほんとうに胸を高鳴らせるという言葉はそのときの私のためにあったのかというくらいワクワクして読んだ。

 教義学、神学、そんな畏れ多い学問に関する書物を私が読むことがあろうとは。

 もっとも私がその本の内容を当時しっかり理解したとは言い難い。それでも、読むときは必ず正座して、ポイントと思われる内容をノートに書き記しながら最後まで読んだ。

 そしてさらに私は思った、神学をもっと勉強をしたい!

 で、あるとき、牧師に聞いた。

「通信教育かなんかで神学を学べませんか?」

「通信教育は他教派にはあるけど、うちの教会の教義と少し異なるから、あまりお勧めしない」

 わたしががっかりしていると牧師が聞いた。

「なんのために学ぶのか?牧師になるつもりか?」

「ま、まさか~。牧師だなんてとんでもありませんっ」

「じゃあ、この間、貸した『教会教義学』とxxとxxをひとまず読めば神学の概要はわかる。」

と何冊かの本をまた教えていただき、それらを読んだ。

しかし、ずっとその時の会話は心の中にわだかまっていた。

「牧師になりたいのか?」「ま、まさか~」

ほんとうに「まさか~」である。まったく<なりたくなかった>。冗談ではない。私には子供がいて、住宅ローンもある。会社を辞めて牧師になるなんてありえない。いやそもそも、この短気で鼻っ柱の強い私が、教会の人にへりくだって仕える牧師になんて、適正があるわけない。それに私の思想信条として「先生」と呼ばれるなんてまっぴら御免である。

でもなにかその時の会話は心に引っ掛かったままであった。

それからさらに数年後、あんまり歳のことは書きたくないが、50歳になった。

その50歳の時、ご親切に会社で「節目研修」というのをやってくれた。まあこれは要するに昨今の公的年金受給開始年齢の引き上げやら、企業業績の悪化に伴い、定年後は、「公的年金+企業年金」で悠々自適なんてことは夢のまた夢ですよ、ということを警告するための研修だった。あなたたちは定年後も自活して生きていかないといけないですよという、セカンドライフ設計の啓発と、会社をあてにしないでね、できれば、満期定年と言わずもっと早い時期からリタイアしてくれてもいいですよ、というような内容だった。

いろんなフィナンシャル関係のレクチャーと、私自身がこれからの人生なにをしたいのか、何を喜びとして生きていくかということを考える「演習」があった。

「演習」では自分のやりたいことと、それをやるための準備などをこれから10年間のタイムスケジュールのなかに書き込んだ。

私はそのとき、自分のこれまでの仕事上のスキル(ソフト開発、ネット関係)とやりたいこと=短歌を軸にそれなりにタイムチャートを埋めた。

そのタイムチャートを研修の規定時間中に埋めて、家に持ち帰って、つくづく眺めてみた。

私のこれからの人生ってなんだろうね?あくまでも業務の一環としての研修だったし、義務として埋めたチャートだから致し方ないのだけど、何かが違う。そのタイムチャートには何か大事な視点が欠けているように思った。

クリスチャンとしてどのような使命をもって生きるんだろう?

私の命は神によって生かされている、その命の使い方が、このチャートだろうか??なにか違う、そう感じた。でもまあ、まだ定年は先のこと、まだ考える時間はある。違和感を感じつつもそのチャートはそれっきりしまってしまった。

その二か月くらいあとのこと、教会でN姉から声をかけられた。

N姉は活動的なクリスチャンで、信徒ながら多くの人を信仰へ導いていた。そして当時は大阪クリスチャンセンター(OCC)の監事もされていた。

姉曰く

「あのな、OCCで今度、信徒伝道者養成のための学校つくるねん。伝道者を出すことがOCCの長年の夢やったんや。いよいよその夢が実現するんや。」

「あ、そうですか~」

とわたしはのんびり受け答えした。

しかし急にN姉はキッと私の方を見て言った。

「でな、その学校できたら、あんたを入れようと思ってんねん。」

「え?」

私の中で何かが弾けた。

(つづく)

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キリスト教」カテゴリの記事

コメント

カール・バルトの「ローマ書講解」はワタシも買いました。20代後半のころ、東京で牧師をしている知人が「バルトのローマ書くらい読めないとダメだ」と言うので買ったわけです(この知人もCコースの人でした。当時、まだ補教師だったと思います)。読み始めましたが、全く理解できず、投げてしまいました。当時、お世話になっていた師(H川師ではありません。当時、ワタシは他教派でまだ美陵教会員ではありませんでした)が、「あれは、危機神学だから、その時代の背景やバルトの苦悩、心情を、状況が分からないと理解しにくい」といわれてあきらめました。今も書棚で眠っています。

投稿: 花光 | 2014年1月 2日 (木) 17時43分

たまたま見つけて読ましてもらいました。
洗礼の下り、ネットで説教みてとか同じだし「うーん私は牧師ですから」と唸る顔とか、あの先生の顔を思い浮かべながら懐かしく自分のこと思い出してにやにやしながら読みました。バルトは自分も受洗後、買って2pで挫折したのも被るしw
年末から年明けにかけて、帰京しあの先生の年越しテゼで一年がはじまりました。今年もよろしうお願いします。

投稿: D | 2014年1月 3日 (金) 03時39分

Dさん
 おおお、コメントいただいていたのですね。まったく気づいていませんでした。つたないブログを読んでいただいてありがとうございます。
 あの「わたしは牧師ですから・・」、あれがあったから今の私がある!?(^_^)と思います。それにしてもDさんとの出会いも奇遇でしたねぇ。

投稿: 湖蓮 | 2014年1月20日 (月) 10時09分

花光さん
コメント気づきませんでした。すみません。ブログ読んでいただきありがとうございます。
バルトは最近ようやくちょっと気合を入れて勉強をしはじめたところです。補教師のくせになんなんですが。(勉強すること多すぎておっつきません・・・)
いつか勉強会とかできたらいいですね。今後ともよきお交わりをお願いいたします。

投稿: 湖蓮 | 2014年1月20日 (月) 10時20分

そうですね。何年まえでしたか、渡辺信夫牧師(カルヴァンのキリスト教綱要の翻訳で知られる)が、「キリスト教綱要の読書会がかつてはあちこちで開かれていた」と言っておられました。バルトは難解ですが、綱要なら、ボリュームはありますが、皆で読み学ぶ機会が出来ればと常々思います。念のために申しておきますが、私自身は、もともとはメソジスト出身です。

投稿: 花光 | 2014年1月27日 (月) 00時37分

花光さん
渡辺先生の「カルヴァンの『キリスト教綱要』を読む」はわかりやすそうですよ。
と言いつつまだ私もしっかり読んでないのですが。
きっと主が良き導きと学びの道を備えてくださいます。

投稿: 湖蓮 | 2014年1月28日 (火) 17時03分

それ、読みました。改革派の神学校での講義をまとめて書籍化したものだったと思います。大阪キリスト教書店で買って読みました(その帰りに「綱要」の新翻訳出版記念の講演会のチラシがあったので、後日、出席しました。渡辺牧師の講演の後、その場で新しい「綱要」を購入し、記念に渡辺牧師にサインをしていただきました)。
今日も樋川先生にも言いましたが、ワタシはやはり、信仰的にはメソジストが抜けきらないですね。苦笑。前の教会でハイデルベルグ信仰問答を学んだので、教会政治は監督制ではなく長老制がよいのかなと思っています。でも、ウェストミンスター信仰告白あたりになるとついていけないような気もします。

投稿: 花光 | 2014年1月29日 (水) 20時55分

花光さん
メソジストが抜けないというのは、ウェスレーがやはり合うということですか?

投稿: | 2014年2月 1日 (土) 14時11分

はい、抜け切れていません。というか、今後もメソジストの影響が抜けることは無いでしょうし、ジョン・ウェスレーの説教や日記を読み続けると思います。若いころに影響受けて、それで育ったものですから、簡単には抜けないと思います。
長老派の流れの教会に出席するメソジスト(?)ということになりそうです。苦笑

投稿: 花光 | 2014年2月 1日 (土) 23時22分

それはある意味、信仰の豊かさ、深さを形作ると思いますよ。

投稿: 湖蓮 | 2014年2月 5日 (水) 19時18分

昨日、24日。久し振りに教会の礼拝に出席しました(久し振りに仕事が休みだったので)。H川師は、東教会の総会で戻られていないので、説教は、T教会のK幸伝道師でした。この方が神学生の頃から、何度か聞いていますが、メソジストの雰囲気が感じられる説教をしておられました。ご本人に「メソジストなの?」と聞いたことがあります。「学校が関西学院なので」と言っておられました。
昨日24日の説教は、J.ウェスレーの標準説教みたいな説教でした。礼拝が終わるとスグに「やっぱりメソジストの説教をするんだなー」と言いました。やはりワタシは、個人的には、メソジストの説教の方がわかりやすいと言うか、親しみやすさを感じています。

投稿: 花光 | 2014年2月24日 (月) 21時32分

個人的にはH川先生の説教が長老派、あるいは改革派的とは思っていません。K伝道師の説教は聞いたことないのでわかりません。
説教が伝わる(伝わりやすい)に教派の肌が合うかどうかの影響は全くないとは言えませんが、それを越えてゆくのが説教だと思ってます。

投稿: これん | 2014年2月26日 (水) 11時30分

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