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2014年1月 6日 (月)

押し出される~湖蓮日日献身編

P1000038_2 N姉がその信徒伝道者養成学校に「あんたを入れようと思ってる」と言われた時、私の心の中でなにかが弾けた。

 私はもともと神学を勉強したかったし(といっても、実はそのころは一時期よりあんまり熱心には思っていなかった)渡りに舟という気持ちで、

 「ぜひ入りたいです!」

と答えた。答えると同時に不安にもなった。「信徒伝道者」という言葉にである。<信徒>が頭についているけど、「伝道者」という言葉に重荷を感じた。自分自身、これまでも教会に仕えながら、それなりに人一倍熱心に伝道ということは考えて実践してきたつもりではあった。でもそれはあくまでもクリスチャンとして当然のことであって、教会に来られた新来会の人の対応をしたり、受洗のおすすめしたり、教会のHP作ったり、、、、そういう範囲では、これからも頑張って「伝道」はしたかった。しかし、改めて「伝道者」といわれると、なんだか分不相応な気がした。

 正直にN姉に言った。

 「でも、、、勉強はしたいですが、<伝道者>というのはちょっと良くわからないんです」

 N姉は即座に言った。

 「<伝道者>ってな、自分がなりたい!と思ってなるんちゃう。押し出されるもんや。だからな、なんも心配せんでええ。押し出されるときは自然に押し出されるんやから。勉強したいという思いがあったら、まずは勉強したらええ。」

 N姉はしっかりと私を見て、柔らかく語られた。

 思い出すことがあった。その少し前のことだった。

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 教会で、平日の夜にちょっとした交わり会をしていた。当時、若い受洗したての方や求道者が数名おられた。青年会を作るほどの人数ではなかったのだけど、せっかく集われている方の、ちょっとした学びと交わりの機会があればということで、はじめた会だった。

 晩御飯を準備したこともあって(それも若い独身男子が満腹するような牛丼とか、豚の生姜焼きとかがっつり系メニュー(^_^.))10名以上の参加があった。もちろん若い人限定の会ではなかったので、私はそこに自分の友人も何名か誘った。

 あるときお誘いした方は交わり会をとても喜んで帰られた。これまで来られた友人はどちらかというと私への義理でちょっと来てみようかという感じもあったのだけど何かその人は違うように感じた。

 そもそもお誘いしたら即座にOKされたので、むしろ不安になって念を押した。

「あの、誰でも参加できる交わり会、懇親会って言いましたけど、あくまでも教会の集会ですよ。もちろん信仰の強要はしませんが、キリスト教を知っていただきたいという<下心>はもった会ですよ?それでもいいんですね?」

 それでもその方は来てくださった。会のなかでの様子を見ても、ひょっとしたらこの方は継続的に集会に来てくださるかも、と期待した。

 ところがその交わり会の翌日、その方から電話があった。詳細は書けないが、その方のご家族が、その方が教会に行ったということで大変怒っている、そしてそのご家族はもともと精神的な病を抱えておられ、自分が教会に行ったと聞いて精神的に動揺して大混乱になっている、もともと宗教が嫌いなところへ自分が病気でたいへんな時にその方が勝手にそういうところへいったということで精神的な状態も悪化している、ということだった。実際、電話の背後で、怒っておられるご家族の激しい叫び声が聞こえていた。

 私はその方にたいへんなことをしてしまったと動揺をした。その方のため、ご家族のために祈り、牧師に相談し、またN姉にも相談した。

 次の日曜日、礼拝の後、礼拝堂でN姉と共に祈った。数日前の、ご家族の電話の向こうでの激しい声が耳にまだ残っていた。病の中でどうしようもない怒りを発しておられた声。祈りながら涙が出てきた。N姉も泣いて祈ってくださった。

そのときN姉に言われたことは、

「この出来事は、あなた自身に神様がなさったことやで。交わり会にこられた方やご家族の姿を、神様があなたにお見せになったんや。今回のことはあなた自身に示された問題や。だからあなたは自分のこととしてしっかり考えなあかんのやで。」

 この言葉は今でも心に残っていて、なにかびっくりするようなことがあったとき、想定外の出来事を前にしたとき、いつも心で繰り返している。「今、神様は私にこのことをどのような意図でお見せになっているのか・・・ 」と。

 帰宅後、N姉に「今日はいっしょに祈っていただいてありがとうございました」とメールしたら、どういたしまして、とレスが来た。ただ、そのメールの最後に、「あなたは救霊の思いが強い方だ」という意味のことが好意的に書かれていた。

 「救霊」?不思議な気がした。そんなことは今まで考えたこともないと思った。

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 「押し出されるものや」と、いま、N姉は目の前でおっしゃっている。N姉の中でわたしはどう見えていたのだろう?以前言われた「救霊」ということと関係があるのかどうか。。。

 「押し出されるものや」という言葉は心の中でそれからずっと気になっていた。この言葉はいわゆる「受動態」であるから、自分で考えても仕方ないことなのだと思いつつも考え込んだ。自分は押し出されていないのか?押し出されるっていうのは明確に背中を押されるようにわかるものなのか?そもそもなぜ神学を学びたいのか?教養のため?神様が好きだから神様の学問はしたいのは当たり前だから?

 年が明けた。

 自分の中で結論を出した。自分の中でなにかもやもやとしたものがあった。そのもやもやがなんなのかわからない。でも「信徒伝道者」というのはどう考えてもぴんと来なかった。自分が押し出されているかどうかはわからないけど、とにかく、勉強をする。「信徒伝道者」ではなく、専任の「伝道者」を目指して。

 教団に神学校を経ず、試験で伝道者になる「Cコース」というのがある。ひとまずこれを目指そう。信徒伝道者の学校に通いながら「Cコース」受験の準備をしよう。勉強をやっていくうちに、自分が押し出されていないのなら、それは示されるだろう。いずれにせよ勉強することは無駄にはならないだろう。「救霊」の役には立つだろう。

 安易な一歩だったかもしれない。すべてをなげうって献身をする、そのために会社も辞めて神学校に行くという心意気というのではなかった。

 でも、今思えば、あれも「押し出された」のだ。

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