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2013年11月

2013年11月 6日 (水)

諸民族への祝福(創世記10章)

「地上の諸民族は洪水の後、彼らから分れ出た。」創世記10章32節

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 5章に続いて、この章には系図が記されています。旧約聖書には、このような系図や、部族ごとの人口調査の結果など、単語や数字が延々と羅列されている箇所があります。あるいはさまざまな細かい規定が長々と記述されている箇所もあります。特に初めて聖書を読まれる方は、そのような箇所には面食らわれるのではないかと思います。

 この章も、延々と人の名前が続いていきます。「ヤファトの子孫はゴメル、マゴク、メディア、ヤワン、トバル、メシュク、ティラスであった。ゴメスの子孫は、アシュケナズ、リフィト・・・」と日本人にはなじみのないカタカナが連なっています。ついついこういう箇所では聖書を読むことにめげてしまいそうになります。でも、ゆっくり声に出して読んでみてください。(黙読だと眠くなってしまうかもしれませんから!?)最初は、読んでも何も感じないかもしえれません。でも聖書全体が少しずつ解ってくるとき、全体の中でのこのような箇所の意味が少しずつ理解できるようになります。

さて、ここに記されているのは、ノアの三人の息子の子孫たちの系図です。この系図を見ると、ヤファトは海沿いの国々の民族(インド・ヨーロッパ族)の祖となり、ハムはエジプトからカナン、アッシリアの民族(フェニキアからアフリカにかけてと紅海のアジア側)の祖となり、セムは東の高原地帯(イラン山脈からメソポタミア、アラビア半島)の民族の祖となったとされています。

 当時の世界観からすると、この系図は世界の諸民族すべてを現していました。ちなみにここに記述されている民族の数は70だそうです。聖書においては、7は完全数と言われます。完全、成就、完成を現します。したがって70という民族数は、<世界すべて>を表現していると言えます。

ですからこの系図が示していることは、神の支配が、地上のそのすべての民族に及んでいることです。

そしてまた、この多くの人の名前の羅列を見るとき、私たちはそこに、人間の歴史があることを理解します。人間が生まれ、生活をし、次の世代へと、引き継がれていく、その長い長い歴史を、神が見守り支配されていることをこの系図のうえに見ます。

そしてそれは、洪水の後、神がノアに対して祝福して言われた「あなたたちは産めよ、増えよ/地に群がり、地に増えよ。(創世記97節)」という言葉が成就していることでもあります。

 これから先、旧約聖書は、イスラエルという民族にズームを当て、そのイスラエルの歴史を主軸に神の業を描いていきます。

 この系図に現れてくる諸民族の多くは、これから先に語られるイスラエルの歴史の中では、いわゆる「悪役」的な位置づけであるように感じられるかもしれません。しかしながら、イスラエル以外の諸民族を神は捨て去られるわけではないのです。

聖書において、ことに旧約聖書においては、イスラエルという民族は特別に選ばれた民とされています。しかし、それは神の全人類救済の物語のプロセスとしての「神の選び」です。

神の救いの業と愛は、すべての諸民族、国民へと、その歴史の始まりから注がれているのです。そのすべての民族への神の配慮があらわされているのがこの系図です。

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2013年11月 1日 (金)

約束の虹(創世記9章)

「あなたたちならびにあなたたちと共にいるすべての生き物と、代々とこしえにわたしが立てる契約のしるしはこれである。すなわち、わたしは雲の中にわたしの虹を置く。」創世記9章12節

P1000033_2  私事ですが、昨年、26年間勤めた会社を退職しました。会社と私の間には、当然、雇用に関する契約があったと思います。もっとも入社した当時のことはいまでは記憶が定かではなく、契約書みたいなものにサインしたとかそういう具体的なことは覚えていないのですが。

その雇用契約の場合、雇用主である会社と私がそれぞれに義務を負います。このように、雇用に関する契約でも、またその他の契約でも、人間の世界の実務的な契約は、契約の当事者双方がなんらかの義務を負うものです。

 しかし、今日の聖書箇所に出てくる「契約」つまり「約束」は、神から与えられた<恩恵>を表します。つまり神からの一方的なプレゼントを示しています。

 では、神は何をプレゼントしてくださったのでしょう。「わたしがあなたたちと契約を立てたならば、二度と洪水によって肉なるものがことごとく滅ぼされることはなく、洪水が起こって地を滅ぼすことも決してない」とあります。つまり「滅ぼさない」という約束がプレゼントなのです。でもそれがプレゼントと言われるとちょっと違和感があるかもしれません。「滅ぼす」というマイナスのイメージのものがゼロになっただけの印象を受けます。プレゼントというなら、もっとプラスのイメージのものじゃないとプレゼントらしくないですよね。

 でもやはりこれはプレゼントなのです。神の目からみたら罪人であるわたしたちは、本来、7章で書きましたように裁きから逃れることはできません。滅ぶべき存在です。それが滅ぼされないということは、神の恩恵であり、祝福です。この契約、約束、プレゼントは、本当に神からの決定的な恩赦、特赦の一方的な宣言と言えます。

そして、単にマイナスのものがゼロにされるのではありません。永遠に連なる無限大のプラスに転換されているのです。

神の裁きから赦されたとき、わたしたちは死や暗闇から解放され、本当の生き生きとした命や光へと置かれます。永遠へ続く希望という大きな大きなプレゼントをわたしたちはいただきます。

 その契約のしるしに神は虹を現されます。「雲の中に虹が現れると、わたしはそれを見て、神とすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた永遠の契約に心を留める」と、聖書には神の恵みが美しく書かれています。神も人間も、雲のなかに、光のただなかに、約束の虹を見たのです。

 <心を留める>と、ここにありますが、神はこの世界を、人間を、生き物を心に留めてくださる方です。全能にして完全な方でありながら、わたしたちひとりひとりに心を留めてくださるのです。高所にあって、私たちと関わりを持たれない方ではありません。私たちを機械的に査定したり、評価する方でもないのです。

 心に留め、配慮してくださる、待ってくださる、忍耐してくださる神です。

 「主よ、人間とは何ものなのでしょう/あなたがこれに親しまれるとは。人の子とは何ものなのでしょう/あなたが思いやってくださるとは。詩編144編3節」

 聖書の詩人たちは神の豊かな配慮に、こう嘆息しました。ちっぽけな人間を、罪にまみれた取るに足らないものを、神は親しみ、思いやってくださる。神の「聖」なることを思えば、それがどれほど畏れ多いことかがわかります。神は、しかしなお、わたしたちを貴い者、大切なものとして扱ってくださるのです。

 そのような配慮すなわち愛をただ一方的に注いでくださる神の配慮の中から、そして約束の虹によって示された永遠の契約のなかから、誰ひとりこぼれることはありません。

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