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2013年10月

2013年10月31日 (木)

あなたの心に平和はありますか(創世記8章)

「鳩は夕方になってノアのもとに帰って来た。見よ、鳩はくちばしにオリーブの葉をくわえていた。」創世記8章11節

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雨が止み、水が引き始めたとき、箱舟はアララト山の上に止まっていました。地上から洪水の水が引いたかどうか確かめるために、箱舟に乗っていたノアは鳩を放してみました。

 最初はまだ水が引いていなかったので、鳩はもどってきました。七日後に、再度、鳩を放すと、鳩はオリーブの葉をくわえて戻ってきました。そこでノアは地上から水が引いたことを知りました。

アララト山は4880メートルもある高峰です。オリーブはそのような高山には育たないので、鳩がその葉をくわえてきたことによって、ノアは低地においても水が引いたことを知ったのです。

 この<オリーブをくわえた鳩>は、平和のシンボルマークとして広く知られています。

しかし、この旧約聖書のオリーブをくわえた鳩の帰還の物語の後の世界においても、平和ではなく、いさかいや亀裂や不信が満ちています。現代においてもそうです。

また、私たち自身の心の中にもなかなか平和は訪れません。私たちは、多くの不安や悩みといつも戦っています。

聖書では、平和という言葉はまず第一に神と人間のあいだの平和を指します。神から離れた人間は、神とのあいだに平和を持っていません。神から離れているとき、一時的な喜びや平安はあったとしても、未来に続く不安が常にあります。そのような心は平和ではありません。そしてまた、神との平和を持っていない人間同士においても、やはり平和はありません。心の内側に平和を持っていない人間は、他者との間にも真の平和はなく、不用意に他者を傷つけたり、また自分自身も傷つきます。

しかし、神は人間が平和のない状態に置かれることを望んでおられません。

 ノアは箱舟からふたたび地上へと降りたとき、まず祭壇を築いて神を礼拝しました。これは神に強いられたものではなく、ノアの心からなる神への思いを表したものでした。神はこのノアの心を喜ばれ、そして人間の罪への怒りを納められました。ここで描かれているのは、神とノアとの間の平和です。

 私たちは私たちの自由な意思によって、神を礼拝したり祈ったりすることもできますし、神を無視することもできます。神は私たちを強制はなさいません。

 しかし、神を神と認め愛する人間に対して神はご自分との間に平和をお与えになります。正確に言いますと、神ご自身がまず私たちを愛し、招いてくださいます。その招きに応じる者は神との間に平和を与えられます。

 ノアの礼拝に対して神は言われました。「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。」

 ノアの後の時代の人間もまた、神を無視し、神との平和がない状態で生きてきました。罪ということを問われるなら、本来、とっくの昔に神によって呪われ取り去られなければならなかった人間の世界が今日まで保たれています。それはひとえに「大地を呪うことは二度とすまい」という神のあわれみの心のゆえです。

 そして、神は呪いではなく、平和の主であるイエス・キリストを私たちに与えてくださいました。神の愛とあわれみのゆえに、そして主イエスゆえに私たちは神との最終的な平和をいただけるのです。

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2013年10月28日 (月)

怯えない生き方(創世記7章)

「七日が過ぎて、洪水が地上に起こった。ノアの生涯の第六百年、第二の月の十七日、この日、大いなる深淵の源がことごとく裂け、天の窓が開かれた」創世記7章10~11

20131027_183407 大きな天変地異、災害が起こる都度に、それを「天罰だ」というような心ない発言をする人がいます。

 主イエスは、はっきりとそのようなことを否定されます。たとえばルカによる福音書の13章では、ガリラヤで悲惨な事件があったことを指してこうおっしゃています。「(事件で亡くなった)そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。けっしてそうではない。」聖書は単純な因果応報的な幸・不幸の構図を否定しています。

 しかし、一方で神の裁きというのは、厳然として、やがてやってくるのだとも聖書は語っています。それは、個々の災害や不幸というレベルではなく、「終わりの日」のこととしてやってきます。今日の聖書箇所では、その神の裁きが、かつて地上にくだされた出来事として書かれています。これは私たちにとって、やがてくる「終わりの日」の先取りして覚えておくべき物語です。

 「この日、大いなる深淵の源がことごとく避け、天の窓が開かれた。」とあります。その時から40日間、洪水は地上を覆い、さらに150日間、水は引かなかったのです。この大洪水を描いた絵画はたくさんあります。それらには、たいへん生々しく人々の様子が描かれています。神に祝福されて造られたはずの人間が、ノアとその家族以外はすべて取り去られ、また箱舟に逃れなかった動物もすべて取り去られました。たいへん恐ろしい話です。

 神は完全に聖であり、義であり、悪を赦されません。その絶対性の前から私たちは一人として逃れることはできません。

しかし、この大洪水の物語はまた大いなる慰めの物語でもあります。5章でも書きましたように、ノアと共に箱舟に逃れた人間、生き物はその裁きを逃れたのです。

 「悪いことをしたらバチが当たるよ」「悪人は地獄に落ちるよ」、私たちは子供のころからこのような言葉で不道徳を戒められてきました。合わせて、私たちが本来持っている良心のゆえに、自らの内の悪や罪に対しての罪悪感があり、漠然と「罰」や「地獄」という概念をもって怯えてきました。しかし私たちは来るべき「終わりの日」に対して、いたずらに怯える必要はないのです。「罰」や「地獄」、さらには「破滅」といったイメージをもち、いたずらに恐怖を覚える必要はありません。

 神は悪を赦されない裁きの神でありますが、同時に愛と憐れみの神でもあります。本来は逃れることのできない「終わりの日」の裁きから、私たちはノアたちのように逃れることができます。主イエスの到来ののちの世界に生きる私たちは、主イエスを信じる信仰によって(ただ信じることのみによって!)逃れることができます。

 「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。(ヨハネによる福音書317節)」とあるように、神の御子、主イエスによってすべての人々が救われます。

主イエスとともにあるとき、私たちは「終わりの日」の裁きを怖れ、おびえつつ生きる必要はありません。特別な修行をしたり、徳を積まないといけないということもありません。聖書は、救われている者として、伸び伸びと神と共に歩む人生へと私たちを招きます。

主イエスとともに、明るい神の光を中を、豊かに私たちは生きていくことができます。

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2013年10月25日 (金)

神との関係回復のために(創世記6章)

「神は地をご覧になった。見よ、それは堕落し、すべて肉なる者はこの地で堕落の道を歩んでいた。」創世記6章12節

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日本人にとって分りづらいのは聖書における神の絶対性です。「神の義」、あるいは「聖(きよ)さ」というべきものです。日本人は、「清濁合わせ持つ」というような、ある種、多少の悪や毒も呑み込むような鷹揚さを大人の態度とします。

 善か悪か、正しいか正しくないか、それを突き詰めることを単純な二元論として排除し、中庸を良しとします。

 しかし、聖書における神の前にあって、やはり悪は悪なのです。罪は罪なのです。事の大小にかかわらず神の目には悪、罪は裁かれるべきものです。私たちはたとえ子供といえど、罪の心を持っています。この罪の本質は、人間が被造物でありながら創造主である神にとってかわろうとする心であり、「神から離れた」状態です。私たちは祝福されて良き者として造られたにもかかわらず、アダムとエバやカインを引き合いに出すまでもなく、その内に一人残らず神より自分を上位に置こうとする心、「神から離れる性質」=罪を抱えています。神は最終的にその罪を裁かれます。最終的に、というのは裁きの日に、終わりの日にということです。私たちはいつか神の裁きの場、法廷に立つことになるのです。ノアの時代の人々への審判は、いずれ私たちが受けるべき審判の先取りでもあります。

私たちは大きく法律を犯すような犯罪は犯さないかもしれません。英語では犯罪を犯すような罪をCRIMEと言います。もう一方で、宗教的な違反をSINと言います。聖書で書かれている罪は後者のSINです。

 日本人は罪というと英語で言うところのCRIMEと考えます。だから混乱します。キリスト教はやたらめったら人を罪人といって、犯罪人呼ばわりすると。でも聖書でいう罪はSINなのです。

 一方で、CRIMESINから派生する影とも言えます。CRIMEの根底にはSINがあります。聖書はそのSINを問題とします。犯罪とは言えなくても、人間の根底にある、神から離れた心、それを問題とします。

 この決定的なことを認識していない時、社会において倫理性の欠如が顕著となり、さまざまな腐敗がはびこるようになります。神の存在を無視して、人間の目だけを気にして、人に気づかれないなら何をしてもいいということになります。そのときどきの利益だけを求め、誰でもやっていることだからいいじゃないかというような不正が積み重ねられ、ひいては人間関係の崩壊や犯罪行為にまで至ります。

 私たちは裁きの日までに罪の問題を解決しないといけません。罪の問題を解決するためには私たちは神との関係を正しいものにしないといけません。もっとも神との関係が正しくないことそのものが罪の本質でもあります。  

 でも、私たちはどのように努力をしても自分自身の力で罪を克服することはできません。神はそのことをよくご存知です。どのように修行をしても功徳を積んでも私たちは神の前で完全に正しい者とはなりえません。

 そのような私たちのために与えられたのがイエス・キリストです。私たちが罪を克服できない者であることを心から自覚し、キリストを信じるとき、キリストが神の前で仲介者となってくださいます。本来、罪人である私たちはキリストのとりなしのゆえに神の前で正しい者とみなされます。にわかには信じがたいことかもしれません。しかしその信じがたいことを、神の人類への愛と救いの歴史として記述されているのが聖書です。神との関係が回復され、救いと恵みに満たされたおびただしい人々の、真実の証言がそこにはあります。

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2013年10月24日 (木)

慰めの人ノア(創世記5章)

彼は、「主の呪いを受けた大地で働く我々の手の苦労を、この子は慰めてくれるであろう」と言って、その子をノア(慰め)と名付けた。

 

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この章にはアダムからノアにいたる系図が記述されています。延々とだれが何歳になったときにだれをもうけ、その後何年生き、計何年生きた、ということが書かれています。

その系図に先立ち、「神は人を創造された日、神に似せてこれを造られ、男と女に創造された。創造の日に、彼らを祝福されて、人と名付けられた。」とあります。つまり、人間が神に似せて造られたこと、男と女に造られたこと、そしてその人間がその創造の日に神から祝福されたことが書かれています。これは12728節と同じ内容でもあります。創造されたときの人間の本来の姿が、ここでもう一度、確認されています。

そしてアダムの息子セトも「自分に似た、自分にかたどった男の子」であり、以下、連綿と続く系図に現れる人間たちが皆、神にかたどられたものであることがここで示されています。

しかし、神に似た、神にかたどられた人間はその系図の始まりのアダムから罪を犯しました。人間の罪により、「土は呪われるものとなった(創世記317節)」。神に祝福されて創造された人間であるはずなのに、その自らの罪ゆえに苦しみながら生きる者となりました。

したがって、この系図は人間の罪が連綿と連なり、人間が増え広がることにより、世界に罪が満ち満ちていくことを表す系図でもあります。

その系図の最後にノアは「慰め」という意味の名前を持つ人として登場します。有名な「ノアの箱舟」のノアです。アダムの罪によって呪われた土地で労苦して働かなければならない人間の慰めとなるノア。ノアは神と共に歩んだ人でした。

ノアの時代、神はついに地に満ち満ちた罪への怒りを発し、厳しい裁きを行います。慰めという名を持つノアと共に箱舟に乗った者だけが裁きから免れました。

現代を生きる私たちもまた裁きを免れることはできません。私たちもまた、アダムの系図に連なる者です。一人一人、神から背く罪を持つ者であり、この地上で苦しみながら生きる者です。しかし、そのような私たちにもまた「慰め」があるのです。大いなる「慰め主」が私たちには与えられているのです。その「慰め主」はイエス・キリストです。

ノアは神と共に歩んだ人でしたが、罪によって神から離れている私たちとも、神は再び私たちと共に歩んでくださる方となってくださいます。慰め主である主イエスのゆえに。

このアダムの系図は、その大いなる「慰め主」へ至るプロローグとしてあります。新約聖書の冒頭にはまた違う系図があります。それはノアの子孫であるアブラハムからイエスキリストにいたる系図です。

このアダムの系図は、人類すべてを慰められる完全なる慰め主としてのイエス・キリストへ至る神の壮大なご計画の扉でもあります。

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2013年10月22日 (火)

カインのしるし(創世記4章)

 「主はカインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインにしるしを付けられた」

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 楽園を追放されたアダムとエバには二人の息子、カインとアベルが与えられました。カインは土を耕す者にアベルは羊を飼う者となりました。ある時、ふたりはそれぞれ神に捧げものをしました。

神はアベルの捧げものに目を留め、カインのものには目を留められなかった、とあります。そこで、カインは激しく怒って顔を伏せました。神はなぜカインの捧げものに目を留められなかったのでしょうか?それははっきりとはわからないのです。アベルは「羊の群れから良く肥えた初子を捧げた」とあり、カインは「土の実りを捧げた」としか書かれていませんが、ここから神へ捧げる姿勢においてアベルの方が立派だったと解釈する説もあります。わざわざ良く肥えた初子を捧げたアベルに対してカインはそれほど心を込めて捧げなかったのだと読む人もあります。新約聖書の中でも正しい人アベルに対して悪人カインという引用がされている箇所もあります。

どちらの説であったにせよ、この章に書かれていることは、人間の罪の在り様です。かつてカインの両親、アダムとエバが楽園で、神から食べてはいけないと言われていた木の実を食べた後、彼らは神を恐れて隠れていました。そしてその息子のカインもまた神から顔を伏せたのです。「もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか」と顔を伏せたカインに神はおっしゃいます。

神の意志、つまり「<この木の実から食べてはいけない>という命令や「アベルの捧げ物に目を留められた」という選びに対して、私たちは不条理さを感じるときがあります。

実際、この世界は不条理なことで満ちているといえます。神がおられるのなら、なぜこのようなことが起こるのかというようなことが起きます。しかし、被造物である私たちにはなぜそういうことが起こるのかということを知ることはできません。神のなさることは人間には理解のできないことなのです。

理解のできないことに対して、素直な気持ちで神に問うことは可能です。さらに言えば、祈りにおいて異議申し立てすることも良いと思います。

神に顔を向けている姿勢であれば、神は神ご自身の判断で問いに答えてくださることもあるかもしれません。しかし、カインはこのとき「顔を伏せて」いたのです。自分の中の怒りに呑み込まれていたのです。

怒りという感情はけっしてそれ自体は悪いものではありません。不条理なことに対して怒りの感情を持つということは自然なことです。でも、その感情が他者への嫉妬や憎しみに転化していくとき、それは「罪」となっていきます。神に顔を向けて異議申し立てをするのではなく、顔を伏せたカインの中の怒りはアベルへの嫉妬という歪んだものに変質していきます。

結局、アベルに嫉妬したカインはアベルを殺しました。アダムとエバが罪を犯し、また、その子供が罪を犯してしまう。旧約聖書には、そのような人間の悲惨な罪の現実が描かれています。

神は罪を犯したカインをその両親と同様に追放されました。カインは「さすらう者」となったのです。しかし、そのカインを神はけっして見捨てられたわけではありません。「カインのしるし」を刻み、罪を犯してさすらう者となった彼が撃たれることのないようにされました。カインをも神はその配慮のなかに置かれています。私たちもまたこの地上をさすらっている者です。しかし誰一人として神の配慮からこぼれる者はいないのです。

不条理と感じられる出来事、不公平な処遇、あるいは悲惨と思える現実の中でも、そこには一人一人に豊かな神の配慮、恵みが必ずあるのです。だからこそ私たちは、どのような現実の中でも、ひとときは途方に暮れていてもやがて立ち上がることができるのです。

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2013年10月19日 (土)

エデンの園(創世記3章)

「主なる神は、彼をエデンの園から追い出し、彼に自分がそこから取られた土を耕させることにされた。創世記3章23節」

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 エデンの園という言葉はクリスチャンでなくても良く知っている言葉です。豊かな果樹が実り、そこでは人間はあくせく働く必要もなく、好きなだけ食物を得ることができる。満員電車での通勤も住宅ローンも教育費もない。人間関係に消耗することもない。そのような世界に、かつて人間は住んでいたのだと聖書は語ります。

 なぜそこから人間は追い出されてしまったのか?

 「食べてはいけないと言われていた木の実を食べてしまったから」

 え?それだけの理由で?

 そもそも食べてはいけない実のなる木を人間の目に付くところになぜ神様はお植えになったんでしょう?食べるなと言われると余計食べたくなるのが人間ではないですか?

 それなのに、食べてしまったら「永久追放」。

 神様、それはちょっと厳しすぎませんか?

 しかし、ここには「食べた」「食べない」ということ以前の重大な問題があるのです。それは神と人間の関係の崩壊、と言えます。造ったものと造られたもの、つまり創造者と被造物の関係です。被造物は創造者のことを理解することはできないのです。創造者のなさることをすべて人間が理解できると考えるのは被造物であることをわきまえない傲慢です。なぜその木の実を食べてはいけないと神は言われたか、その真意のすべてを私たちは知ることができません。被造物は創造者ではなく、まさに2章でも述べたように「土の塵」から作られたものです。その被造物が創造者を越えてこの世界のことを知り、支配することはできないということです。

 木の実を食べるように蛇から「それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなる」とそそのかされた女の様子が36節にこう書かれています。

「女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。」

 女は賢くなることにあこがれた、神のように善悪を知るものとなりたかった、言ってみれば神の座に着きたかったのです。神と自分が取って替わりたかったと言えます。

 これはわかりにくいことかもしれません。賢くなることのどこが悪いのか?善悪を知るのは大事ではないか。そう思われるかもしれません。しかしここで言う賢さというのは、神を不要とする、人間がなんでも自分で判断するという意味での賢さです。人間が神を超えた賢さを持てると思い上がった状態なのです。女はその賢さを求めたのです。

 これは多くの現代人の姿でもあります。なんでも自分で頑張って自分で判断をする、そのなにが悪いのか?大人は自分で責任をもって考えて、一人で自立して生きていかないといけないではないか、たしかにその通りです。

 たしかに社会生活を自立して行うということは大事です。しかし、人間という存在を謙虚に見つめたとき、私たちは決して神ではないということを知らねばなりません。人間がはかなく弱く限界のあるものであるということを忘れてはならないのです。

 それは消極的なこと、暗いことではありません。自分の限界をわきまえたとき、私たちは初めて頼るべきもの信じるべきものを見出すことができます。神を信じるなんて弱い人間のすることだと思う人は多いでしょう。それはまったくその通りです。人間は弱いのです。弱さを鞭打って強くなろうと努力をしても限界があるのです。

 神の目から見たら私たちは小さな無力な子供にすぎません。どんなに才能や力を持っていたとしても幼子のようなものです。でも愛すべき、いやすでに愛されている子供たちです。エデンの園に、今、私たちはいませんが、神は私たちを招いておられます。その招きに応じたとき、私たちはふたたび神と共に喜びに満ちた日々を送ることができるのです。

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2013年10月18日 (金)

命の息(創世記2章)

「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」創世記2章7節

20131018_103005  人間が粘土細工のように土から作られたというのは、いかにもばかばかしい話のように聞こえるかもしれません。

 でも一方で、私たちは人間が死を迎えたとき、その肉体がまさに<土に還ってゆくこと>を自然に、あるいは否応なく受け入れざるを得ません。

私たちは自分たちの肉体がいかにもろく儚いものかをよく知っています。たしかに精巧な秩序だった組成を持ち、すばらしい器官や調節機能をもっています。主なる神は実に丁寧に私たち人間を造ってくださったのです。そのことは、上記の神が手ずから人間を造られたという創造の記事を読むとき、よくわかります。神は人間をお造りになるとき「光あれ」のように「人間あれ」とおっしゃって造られたのではなく、みずから手をくだし大事に造ってくださったのです。  

でも、人間の肉体自体はけっして物理的に頑健なものではありません。傷つきやすく壊れやすい有機体です。だからといって神が欠陥品を造られたというわけではありません。

 聖書は、神が「その鼻に命の息を吹き入れ」たとき、人は「生きる者」となったと書かれています。逆に言えば、土から作られた肉体がその肉体のままだけでは<生きていない>とも聖書から読むことができます。

 「命の息」の「息」には「風」という意味もありますし「霊」という意味もあります。つまり「命の息」とは神が吹き入れられる風であり、神の霊とも言えます。つまり、私たちは神の霊によって、ただの肉体としてではなく、神とつながった精神と心と魂を持った人間として生きるようになったのです。

 この儚い壊れやすい肉体を持った私たちは、同時に神の命の息を吹き入れられた存在です。神と共にある者として特別に造られました。そんな私たちは、神と離れたとき、死にます。   

「神なき時代」と言われて久しいですが、存在の根源の部分に私たちは「神の息」をいただいています。「神はいない」「神は死んだ」と叫んでも、私たちは神から逃れることはできません。私たちの生と死、そして存在のすべてを支配されているのは神です。

「神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。 コヘレトの言葉3章11節」と美しく記述されているように、神はその創造の業において、私たちに「永遠を思う心」を与えられた。神の息を吹き入れられた私たちは、本来、有限な者なのに永遠を思うことができます。永遠とは神に連なる事項です。

 そんな永遠へ連なる種子のようなものを私たちはその存在の中にもっています。だからこそ、永遠へ向かってさまざまな美しいもの、たとえば芸術作品を生み出す力や人を大事に思う心を与えられます。しかし、私たちの中で種子が種子のままで置き去りにされているとき、やがてそれは枯れてしまいます。

 私たちは神を知らなくとも、自分の力で働き、家族を愛し、友人と共に生きていくことができます。多くの人は贅沢はできないかもしれませんが、それなりに幸せを感じることのできる生活が可能です。

 しかし、それは永続性のあるものでしょうか?今日と同じように明日が続くでしょうか?それなりに幸せな日々の先に、病や老いや突然の災難があるかもしれません。<そんな先のことはわからないから、クヨクヨ考えずに、できるだけの心づもりや準備はしておいて、今日を頑張る>それも、ひとつの生き方です。

 でももっと平安で活き活きとした生き方もあります。神の愛の支配を信じ、聖書の言葉と祈りによって、日々、「命の息」を神から受け取りながら生きていく生き方です。私たちの中の永遠への種子を日々さらに豊かに成長させながら生きていく、それは諦念を越えた希望に生きる生き方です。

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2013年10月17日 (木)

偶然なんてない(創世記1章)

「初めに、神は天地を創造された。」創世記1章1節

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 クリスチャンで医師である知人が、ある時、つくづく言われました。「解剖学的に人間の体を見ていると、神様はなんて美しく人間を、そして生き物を作ってくださったんだろうと思う。」

 

 この世界は美しい秩序によって成っています。生物の体組成も、星の生成も、数学の数式も。そしてこの世界には二種類の人たちがいます。この秩序を偶然の産物と考える人たちと、意志をもって創造されたものと考える人たち。

 

 聖書はいうまでもなく、後者の考えをとっています。この世界には偶然は、ない。すべてが神の支配、神の意志によってなっていると考えます。それは私たち自身の存在と日々のありようにも及んでいます。私たちひとりひとりもまた神によって創造された者であり、神の支配のもとに置かれていると聖書は語っています。

 

 旧・新約聖書全66巻の最初の1頁は神の壮大な宇宙創造の記事です。現代人の目から見たら、おとぎ話のような、はるかな神話のようなお話です。

 

 この創造物語を、科学的知見がなかった時代の古代人の神話や伝承をつなぎ合わせた幼稚なお話と考えて読むとき、私たちは自分たちの人生の核、命の中心点を失うことになります。

 

 この6日間の創造の出来事の美しいリフレイン―この記述そのものが美しい秩序のなかにありますが―を読むとき、私たちはなにより神が秩序を作られた、ということを感じます。原子核や電子の動きといったミクロの秩序から、銀河の生成消滅運行まで、秩序によって、この宇宙、世界を形あるものとされた壮大な意志を感じます。

 

 神の創造の業の前、「地は混沌であって、闇が深淵の表にあり、神の霊が水の面を動いていた。」とあります。霊は「風」とも訳せる言葉です。また「動いていた」という言葉には激しく動くというような意味があります。つまりここで描かれているのは、光のない混沌としたなかにただ暴風のような風が吹いていたという状況です。

 

 これはまた、神を知らない人間一人一人の状況でもあります。あなたが光と思っているもの、秩序と思っているもの、それは実はとてもはかなく虚しいものではないですか?人工物はもとより自然もうつろいゆくものです。努力の末に掴んだと思った栄光も地位も財産も絶対的なものではありません。光は失われ、形を変え、秩序もやがて崩壊するかもしれない。この宇宙が、世界が「偶然」できたと考えるのなら、そして創造主がいないと考えるのなら、「偶然」にまたすべてのものが失わる可能性も当然あります。「偶然」によって立つ世界観、宇宙観のなかにあるとき、人間は、はかなく虚しいものに取り囲まれます。家族の愛や友情はとても尊いものですが、それも永遠のものではありません。人間は真の平安を得ることはできません。

 

 しかしそうではないのだ、と聖書は語ります。宇宙は明確な意志のもとに造られ、私たち一人一人もまた大いなる意志によって造られました。それは単に宇宙観として世界観としてそう考えましょう、ということではないのです。それが真理なんだと聖書は語っています。

 

混沌とした闇の中ではなく、神の秩序のなかで生きるために私たちは造られました。神の秩序の中で生きること、それは言葉を変えると神の愛によって、神に愛されて生きることです。神の愛によって照らされるとき、世界は秩序を持ち、私たち自身も本来のあるべき人間として生きることができます。永遠へとつながる希望に生きることができます。

 

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