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2013年9月

2013年9月17日 (火)

【聖書の話】必要なことははただ一つ

P1000038 一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。 マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」 主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。 しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」 ルカ10:38-42

 マルタとマリアの話は、クリスチャンにとっては、たいへん有名な話です。イエス様やら他の客をもてなすので精いっぱいのマルタ、その傍らで手伝いもせず主イエスの話に聞き入るマリア。マリアに少しは手伝うように主イエスに頼むマルタに対して主イエスは「マリアは良いほうを取った」と諭されます。

 なんとなくマリアのほうが分が良さそうです。たしかに主イエスのお話を聞くこと、それ以上に大切なことはありません。ひたすら熱心に聴いているマリアは立派です。

 それはわかりながら、多くの人は「自分はマルタだわ」と思っているのではないでしょうか。実際、みんながみんなお客様放りだしてもてなしをしなかったらどうなるんでしょうか?

 私たちは、いえ少なくともわたしは、いつもいつもマルタのような気分で生活しているようなところがありました。教会で役員として仕えていた当時を思い起こしましても、教会が大事、礼拝が大事、奉仕が大事、ともすれば自分自身が奉仕に疲れ果てて礼拝に喜びを感じることすらもできないほどに、働いていました。どこの教会でも働き人は多くはないのです。奉仕者はともすれば、私がやらなければ誰がやるのだ?という強迫観念にとらわれる時すらあります。

なかなかマリアのようにはできないのです。頭では分かっているのです。どこかで自分の抱えているものを離さないといけない。でも、それでも、一生懸命働いてへとへとになりながら、マリアのほうが立派だと言われたらなんだか嫌になってしまうところもないでしょうか。

「わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。」

この言い方は、いかにも腹を立てている女性が言いそうな言い方で、その素直な物言いに少しほほえましくなります。

まるで私が文句を言っているのではないかとわたしは思ってしまいます。<何ともお思いになりませんか?>という言葉は、すなわち何か思ってよ!鈍感ね!という非難が込められています。

マリアに手伝ってもらいたいのなら、率直に「手伝ってちょうだい」とマリア本人にはっきり言えばいいんですけど、マルタの心の中にあることはそうではないのです。手伝ってもらうもらわないより先に、まず「自分のことを思ってほしい」のです。えてして、がんばっている人は、その自分ががんばっていることを、一生懸命働いていることをわかってほしいという思いがあります。具体的な手伝い以上に、まずわかってほしい。さらにいえば、わかって当然じゃないか、という思いも深層心理にはあるのではないかと思います。だから、「お思いになりませんか?」という少し皮肉な言い方にもなるのです。

このように言われますと、主イエスならずとも言われた方は困るわけです。しかし主イエスはお答えになります。

「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している」

これは、けっして主イエスがマルタを非難はなさっていないことは、おわかりかと思います。このマルタ、マルタと2回繰り返して呼びかけてくださっているところに、主イエスのマルタへの思いやりやねぎらいの気持ちは現れています。

そしていうまでもなく、ここでマルタの問題とされているのは、彼女が多くのことに「思い悩み」、「心を乱している」ということです。

これは日々を生きる私たちの姿にも重なるものです。悩み事は多いのです。思い悩みます。心も乱れます。私たちはさまざまなトラブルや心配事と直面します。平静ではいられません。いつもいつも岩のように揺らぎなく生きていくことはなかなかできません。

ここで思い悩みといわれている言葉は、口語訳では「思い煩い」と訳されている言葉です。思い煩っている、あなたは思い煩っているのだと主イエスはマルタにおっしゃっているのです。この「思い煩い」、そして新共同訳で言われています「思い悩む」という言葉で私たちが思い起こしますのは、ルカ12章22節からにあります「命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようか思い悩むな」というくだりであります。またマタイによる福音書の6章34節「明日のことまで思い悩むな」という言葉です。

私たちは明日の命もわからない。将来的に何を着る、何を食べる、そのようなことも、すべて神様の領域なのだと。だからそのことを思い悩むのことは意味がないことなのだと。神様に委ねるしかないのだと主はおっしゃいます。

 それは理解できます。私たちは明日の命を主にゆだねないといけないことは頭で理解できます。でも、今日、やらなくてはいけないことは目の前に、現実的にたくさんあるのです。マルタもそうでした。客人のもてなし、これからの主イエスの宣教のための旅を支える準備、さまざまなことがありました。

ところで、今年の二月にわたしはおそらく物心ついて初めてインフルエンザにかかりました。一月末に母が心筋梗塞で倒れてまして、自分自身、2月末に補教師試験を控えていました。会社を退職した後でさまざまな手続き関係もありました。あれこれバタバタしていたのですが、インフルエンザになってしまったんでは外出もできませんし、高熱ですし、まあ仕方なく寝ていたんです。初めてのインフルエンザだったせいか、いったん下がりかけた熱が再度ぶり返したりして、回復まで時間がかかりました。やりたくてもバタバタしたくても何もできず寝てるしかありません。皮肉なもので、恥ずかしながら、そういう状態になってとき、やっと私は心を落ち着けることができました。そういう時に祈りながらわかるのは、やっぱり今日のことも明日のことも神様にお任せするしかないという単純なことです。熱がいつ下がるのか、試験がどうなるのか、母の容態がどうなるのか、私自身でコントロールできることは最終的にはないんです。神様にお任せするしかないことなのです。

しかし、いっぽうでどうにかしないといけないことがあると主イエスはおっしゃいます。

「必要なことはただ一つだけである」

この一つとは、主イエスと共にあること、主イエスの言葉を聞くということです。

今日の聖書箇所を含みますルカの10章は、まず72人を派遣したというところから始まります。72人が福音を伝えて帰ってくる。喜びにあふれて帰ってくる。その弟子たちに対し、主イエスはおっしゃいます。「あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」

そしてまた主イエスは23節の終わりの所では「あなた方の見ている者を見る目は幸いだ。言っておくが、多くの預言者や王たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなた方が聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである」ともおっしゃっています。

つまりここで言われているのは、主イエスが来たのだ、私が来たのだ、新しい世界が始まったのだ、ということです。預言者や王が見ることのできなかったものをわたしたちは見ているということです。主イエスを信じる者、主イエスに聞く者、主イエスを見る者は天に名を書き記されるのだということです。

その喜びの知らせの中で有名な良いサマリア人のたとえ話が語られます。これは単に隣人に親切にしなさいという道徳の訓示ではないのです。そもそもわたしたちは良い隣人になれなかったのです。まして通りすがりの、もともと仲の悪かった国も違う人になんて親切にできないのです。

しかし主イエスが来られた。主イエスご自身がまずわたしたちの隣人になってくださった。主イエスの十字架と贖いによって、私たちは新しい者にされた。本来隣人になれない私たちがそれぞれの隣り人と隣人になれるのです。

私たちはまず主イエスを見て聞いて、良き隣人となれるのです。マルタもこの場面で良き隣人として客人をもてなそうとしています。主の働きのために奉仕をしています。そしてそれは勿論とても良いことです。しかし、まずそこに、主イエスを見る、主イエスに聞くということがなければ、それは本当の意味での奉仕になりません。良き隣人としての働きにはなりません。

マルタの働きはたいせつなものです。しかし、その根底に良き隣人としてのあるべき姿が必要です。そのためにはまず主イエスに聞かねばなりません。

私たちは現実生活の中であたふたします。手におえないようなことがたくさんあります。マリアのようにゆっくりと主イエスの足もとにすわって主イエスの言葉を聞く余裕のない時もあるでしょう。しかしなお、聞かねばいけません。主イエスから離れてしまった時、私たちの行い、それが奉仕であれこの世の働きであれ、自分自身の力の業となってしまいます。良き隣人の業とはなりません。私たち自身にとってもせっかくの働きがただ心煩わすもの心乱すものでしかなくなっていきます。

ゆっくりと座ってきくことができなければ、一瞬でもたちどまって、主に聞きましょう。ひとときでも今手に抱えているものを置いて、主に向かいましょう。御言葉に聞き、一言でも祈りましょう。もちろん、日曜の礼拝はまさにマリアのように主の足元に座り主の言葉を聞くことです。

しかし、日々の中にあっても、なお、ほんのひととき、わずかな時間でも主に聞き祈る時、私たちはほんとうに大事なことがわかるでしょう。いま抱えている多くのことがほんとうに私が今やらないといけないことがどうかも示されるでしょう。そしてなお、本当に必要なことはただ一つであることもわかります。

(2013年9月15日 初芝教会主日礼拝説教より再構成)

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