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2013年7月

2013年7月27日 (土)

【聖書の話】壮大な和解

 ヨセフはまた別の夢を見て、それを兄たちに話した。「わたしはまた夢を見ました。太陽と月と十一の星がわたしにひれ伏しているのです。」
 今度は兄たちだけでなく、父にも話した。父はヨセフを叱って言った。「一体どういうことだ、お前が見たその夢は。わたしもお母さんも兄さんたちも、お前の前に行って、地面にひれ伏すというのか。」
 兄たちはヨセフをねたんだが、父はこのことを心に留めた。

                     創世記379節~11

 

 

 

Bara

 家族の問題というのはやっかいです。円満にいっている家族であったとしても、本人たちが気づいているかどうかに関わらず、なにかしらの問題を抱えているものです。そしていうまでもなく、家族の問題というのは私たちがその家族の構成員である期間のみならず、その家族たちの家を離れたのちも、私たちの心に大きな影響を及ぼすものです。

 上記の聖書箇所に出てくるヨセフは父ヤコブが年を取ってからの子供でした。ですから、他の兄弟たちより父親にずいぶんとかわいがられました。その愛は溺愛といっても良いものでした。上記の聖書箇所の少し前の部分には「イスラエル(ヤコブのこと)は、ヨセフが年寄り子であったので、どの息子よりもかわいがり、彼には裾の長い晴れ着を作ってやった、兄たちは、父がどの兄弟よりもヨセフをかわいがるのを見て、ヨセフを憎み、穏やかに話すこともできなかった」とあります。他の兄たちは家の外で羊の世話などの仕事をするので裾の長い服なんて着ていられません。しかし若いヨセフだけは特別扱いで裾の長い服を着せてもらっていたのです。そのヨセフの着せられた服は父の歪んだ愛情の象徴といっても良いでしょう。
 

そのように歪んだ愛を受けたヨセフ自身もまた歪んだ少年となっていきます。「ヨセフは兄たちのことを父に告げ口した」と聖書にあるように、父の溺愛の中で、困った性格の子供となっていったのです。 

 一方、そのヨセフを兄たちは「憎んだ」とあります。「憎む」というのはただごとではありません。この感情は、感情の向けられる対象への殺意にまで連なる「相手を抹消、抹殺したい」という思いをも含むものです。そして実際、のちのち、兄たちはヨセフ殺害を企てることになるのです。
 

 父の歪んだ愛情を受けたヨセフは、しかし、また神から特別な賜物を与えられた少年でもありました。ヨセフは不思議な夢を見る少年でした。そしてその夢は神から与えられた夢でした。のちのち、ヨセフはその夢に関わる、「夢を解く」という神から与えられた不思議な力によって、自らの窮地を脱し、神の大きな計画を推し進める役割を担う者となります。 

 しかし、ヨセフに限らず、神からの賜物、つまり才能であれ、この世的な富や名声・幸運であれ、それは神様の思いに適った使われ方をされるときにのみ、賜物の持ち主や周囲を益するものとなります。また逆に神はそれらのものを御自分の計画を進めるためにのみお使いになります。
 

 ヨセフは上記の聖書箇所の場面では、まだそのことがわかっていませんでした。ですから得々と兄たちに夢の話を語っています。夢の内容は、「家族がすべて自分に頭を垂れるようになる」ということを暗示するものでした。そのような話をされて兄たちは気分が良いわけがありません。ヨセフは無邪気といえば無邪気、天然といえば天然でありますが、要は人の気持ちのわからない子供だったのです。

 

 しかし、遠い将来、このヨセフの夢は実現します。ヨセフが得々と語り、兄たちが決定的に弟ヨセフを憎む発端となったこの夢が、神によって実現した時、それは家族の憎しみやいさかいではなく、素晴らしい和解の時となったのです。夢の通り、ヨセフに兄たちは頭を垂れることになります。その場面だけを見たら、まさにヨセフの得意の絶頂の場面です。しかしそうではないのです。

 その夢の実現からはまだ隔たった日々において、ヨセフは兄たちに憎まれた結果、殺害だけは免れましたが、エジプトに奴隷として売られました。 

 その後、ヨセフは、そのエジプトの国で不条理な苦労も重ねました。しかし、「夢を解く」賜物によって救われ、最終的にはエジプトの宰相にまで登りつめます。世界的な大飢饉が起こったときも、ヨセフの夢の賜物によってエジプトは被害から免れます。

 そしてそのエジプトで、宰相として、はるばる故郷から食料を調達に来た兄たちといよいよ対面することになります。 

 しかしそのとき、ヨセフはすでに神によって傲慢な心を砕かれていました。すべてのことを神が計画され、神によって、いま自分と家族たちが対面させられ、そして家族すべてが救われていることを理解したのです。ヨセフはまさに夢で見た場面と同様のシチュエーションにおいて、兄たちと和解するのです。もちろんそこにはかつて兄たちに受けた仕打ちへの複雑な思い、葛藤はありました。しかし、なお家族はそれぞれの思いを超えて、神の力によって和解を果たすのです。

 

最初に書いたように、このヤコブの一家ほど極端ではなくても、どこの家でも、また家庭以外のどんなところでも、人間の人間に対する気持ちというのは、多少ゆがんだところがあります。どこかゆがんでいたりヤコブがヨセフに対してしていたように過剰であったり、あるいは反対に愛情が欠けていたりします。それは人間の愛憎に因する日々の悲惨なニュースを見るまでもなく私たちの良く知るところです。
 

 そしてそれは私たちが人間である以上、仕方がないことでもあります。私たちは神のように完全に人を愛することはできません。私たちには欠けがあるからです。 

 そしてその欠けは私たちの努力だけでは、本質的にはどうしようもないのです。歪んだ愛情によって生み出された憎しみを完全に消し去ることは、私たち人間にはできません。

 

 しかし私たちはだからといってあきらめる必要はありません。この歪んだヤコブの家族に働かれたように、神はすべての家族の上に働かれます。欠けのある一人一人に働かれます。どうしようもない、希望もないようなところに神様は働かれます。

 いや痛むところゆがんだところにこそ神様は働いてくださいます。そして私たちは私たちが思いもよらないような和解へと導かれます。それはただ単に家族関係や人間関係の回復にとどまりません。私たち自身の神との関係の回復も含みます。逆にいえば、神の働かれないところには和解も回復もありません。
 

このヤコブの一家の物語は、この家族の回復の物語でありますが、これはさらに大きくこの家族を含む民族の回復、やがて全人類の回復へと連なるものです。 

私たちの家族の和解、一人一人の神との和解、それらもまた、そのような大きな物語の一こまとして、神の壮大な計らいの中に置かれています。

(上記は教会学校説教をベースに再構成しました)

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