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2013年1月

2013年1月24日 (木)

受洗before・after(架空インタビュー)

以下、「わたし」へのインタビュー形式で受洗before・afterを探ってみます。


Q:受洗のときって上から光がどーんと降ってくるとか、全く生まれ変わったような体験はありましたか?
A:ありませんでした(きっぱり)。そういう感じを持たれる方もおられるでしょうし、いろんな体験をされる方もおられるかもしれませんが、私にはありませんでした。
Q:では洗礼の時の感想ってどんなものでしたか?
A:不信仰みたいにとられるかもしれませんが、当日、一応、私としては上等な服であるワンピースを着ていったんです。洗礼は滴礼(頭に水を垂らす)だったんですが、水はちょっとだけ頭にふられると思っていたら、自分の感覚ではザバザバかけられる感じで、え!?こんなにかけるの?ワンピース濡れちゃうじゃんって焦りました。
Q:全然、感動的じゃないですね(-_-;)それ以外に印象的なことはなかったんですか?
A:洗礼式の最初に牧師先生が「吉浦玲子、しっかりしなさい。あなたの罪は赦された」っておっしゃったんです。ひょっとしたら「吉浦玲子、安心しなさい」だったかもしれませんが。でもその罪の赦しの宣言が忘れられません。<吉浦玲子、しっかりしなさい>という言葉がどんなときでも自分が帰っていける原点だと今でも思っています。あそこで洗礼を受けたから罪が赦されたから、現実的にはしっかりできないときも不安なときでも、しっかりできるし、安心できると思っています。
Q:ほお、、。では受洗後、なにか変わったことはありましたか?
A:ないです(きっぱり)。受洗の翌日も普通に出勤して仕事して夜は飲みに行きました。生まれ変わったような感覚も風景が違って見えることもありませんでした。生活自体はまったく同じでした。私自身も相変わらず短気でいい加減な奴のままでした。
Q:えー、じゃあ何にも変化なしですか?
A:私は変わりませんでしたが、神様が生活に入ってこられました。
Q:じゃあ、祝福や恵みがばりばりで、めっちゃ良いことがあったとかですか!?
A:まったく逆で、個人的にも家庭的にもトラブル続きでした。さらに会社生活の中で最大級に不本意な望まない転勤をすることにもなりました。
Q:ぜんぜんダメじゃないですか(T_T)
A:ノンクリスチャンの友人からも「あなた、クリスチャンになってから、全然良いことがなかったね」って言われる始末でした。
Q:とほほ。
A:でもふしぎなことにその友人に私は「うん、そうだけど、でもクリスチャンになってたから耐えられたと思う。なってなかったら耐えられなかった」って、さくっと答えたんです。実際はずいぶん神様に「なぜ?!」って不満やら怒りで一杯だったんですけど(笑)。なぜか反射的に友人にそうこたえていたんです。別にノンクリスチャンの友人に見栄をはるつもりでも、嘘をついたわけでもなくて。言ったあと、自分でも変なんですけど、たしかにそうだったなって改めて気づいたんです。
 たしかに納得できないというか神様に異議申し立てしたいところはあったんですけど、でもやっぱり以前の私だったらもっと落ち込んで恨みつらみのなかに沈んでいたと思うんです。でも、気がついたら乗り越えられていたのは、神様のお陰だったと、そのとき本当に思いました。
Q:なるほど。でもやっぱり嫌なことは無い方がいいんじゃないですか?キリスト教っていわゆる御利益みたいなものはないんですかね?
A:キリスト教は御利益宗教じゃない!ってことは良く言われますけど、もちろん嫌なことや試練にはできる限り遭遇したくはないです。でも嫌なことや試練と思えることでも、あとから考えると、むしろ「益」になったと思えるのがクリスチャンの歩みだとだんだん気づくようになりました。
Q:そういう風に考えて生きていけること自体は良いことだと思いますが、それって、単に自分で結果的に「益」だったんだと納得してるだけではないですか?
A:他の人からはそう見えるかもしれません。でも神様から与えられるみことばを味わったり、祈りを繰り返していくとき、やはり神様は生きて働いておられると実感します。そのなかで、試練に見えることも、それまでの自分の生き方に対して神様が方向転換せよって教えてくださっている場合もあります。方向転換しないと、気づかないまま、もっと悪い方向に自分がいってしまうような時、神様がガガッと生活に介入されて、いろんなことを変えていかれる時もあります。もちろん試練や嫌なことにもいろんなものがあって、一概にはいえませんが。
Q:はあ、そうなんですか。。。。試練や嫌なことの話ばかりですが(笑)でも、受洗してやっぱり良いこともあったんではないですか?
A:それはもちろんです(^^)v
 いろんなことがありますが一例で言うと、以前には考えられなかったことを始めたり、大胆な決断ができるようになりました。クリスチャンになるとお行儀良くしないないといけないとか、縛られるんじゃないかと思われる人も多いようですけど、むしろ自由になって行動の幅が広がりました。さっき、私自身は変わらなかったと言いましたが、それは受洗当初のことで、やはり徐々に自分自身も変えられていきます。たとえば、もともと体育が大の苦手で体も強い方でなかった私がマラソン始めたり。。。
Q:そうそう、最近聞いたところによると会社も辞めたとか!?
A:はい、早期退職しました。迷いがなかったといったら嘘になりますが、神様に背中を押されました。
Q:なるほど。
 でもやっぱり受洗して後悔したこともあるのでは?
A:ないです(きっぱり)。自分自身の信仰が弱まったりいい加減になったりすることはあっても、受洗したことそのものを後悔したことは一度もありません。
Q:では、まだ受洗していない人に一番言いたいことは何ですか?
A:うーん、いろいろありますが。。。
 一言だけ言うとするなら、
 神様のプレゼントはめっちゃ大きいってことです。
 自分がこうしたい、ああなりたいと願っていることより、もっともっと大きなプレゼントを神様はくださいます。大胆に図々しく神様からすごいプレゼントを受け取ってください。そのプレゼントは単なる精神的な安心とか(もちろんそれは大きいですが)だけではなく、現実生活の中で具体的な力を持つ豊かなものです。ぜひとも一人でも多くの人にそのプレゼントを受け取ってください!って伝えたいです。
 しかもそのプレゼントはタダです。無料です。修行や勉強も要りません。
Q:そんなうまい話はあるんでしょうかねぇ、、、
A:あるんですよ~。まずは教会にいってみるか聖書を手に取ってみてくださいね。プレゼントを受けとる方法がわかりますよ。
Q:なるほど、ちょっと興味がわいてきました。。。。

以上で、湖蓮日日ー黙想編 受洗への道 終了です。
今後はその後の歩みを折々に掲載させていただきます。

あなたの天を、あなたの指の業を
わたしは仰ぎます。
月も、星も、あなたが配置なさったもの。
そのあなたが御心に留めてくださるとは
人間は何ものなのでしょう。
人の子は何ものなのでしょう
あなたが顧みてくださるとは。 詩編8:4ー5
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2013年1月22日 (火)

教会生活は凹むけど、、、

 うきうきと「サタンですよ、サタン」と牧師先生に言われたときは「へ?」って感じだったけど、帰る道々、なんとなく笑いたいような気分になった。私の頭の上に飛んでるかもしれないバイキンマンみたいな奴に「残念ながらひとまず受洗はするからね」とお伝えして少し元気になった。

 でも一難去ってまた、、、である。
 役員試問である。たしか受洗の二週間くらい前の礼拝後にあったと思う。
 牧師先生からは何も難しいことはないので気楽に素直に聞かれたことに答えたらいいです、としか言われてなかった。その通りお気楽に構えていたら、けっこうこれがキツかった。別に役員さんに悪気はなかったんだろうし、逆に今現在、私自身教会の役員をしている立場からすると余計、当時の役員さんの悪気の無さはよくわかるのだけど、、、でも敢えて言いたい。
 これから受洗しようという人間にいきなり教会生活のあるべき論を問いただすな!教会生活を知らんのやから。。。。
 で、その役員試問。
 ずらっと並んでいる役員の前に座った。
 相当気の強い私ですら、けっこうびびる。会社の昇格面談みたいな気分になる。で、質問開始。五人くらいの役員さんがだいたい一人ひとつずつくらい質問された。
 まあ最初の何人かの方は当たり障りのない(というか何聞かれたか覚えてないくらいの淡い(^_^;))質問をされた。
 で、そのいくつかの質問のあと、満を持したかのようにある方が聞かれた。
「あのね、受洗希望者がいるからみんなで祈ろうと思ってもね、誰もあなたの名前聞いてもあなたのことを知らないんだよ。教会ってのは交わりが大事なんだけど、あなたは第二礼拝に出てるんだね。第三礼拝に出ないと誰とも交われないよ。君は教会の交わりをどう考えてるの?」(当時、第二礼拝は9時10分から10時くらいまで、第三礼拝がメインの礼拝で10時半から1時間くらい)
 え、交わりですか、あ、交わりですね、大事なんですね。交わりできない人は受洗したらダメなのかしら?息子が家にいるんで早く帰って昼御飯作りたいけど、だめ?やっぱり交わり?と頭の中で考えつつ、ちょっと泣きそうになりながら、ここで受洗断られてもなあと考えて「受洗したらできるだけ交わるようにします」とかモソモソ答えた。すると、さらに追撃。
 「あなた、お子さんいるんですってね?家族への伝道についてどう考えてるの?あなた、お子さんを教会に連れて来る気あるの?」
 家族への伝道もなにも、今私自身が伝道されて、ようやく受洗しようかって時なんですけどぉ、、、と、さらにマジで泣きそうになる。そりゃ子供を連れてこれたらどんなに良いかとは私だって思う。責められてるわけでも非難されてるわけでもないけど、なんだか頭の中が緊張もあってパニック、、子供連れてこないと受洗できないんですか?信徒として半人前なんですか~(T_T)
 そもそもその子供はようやく不登校から回復したばかりで、教会来るより何より、まず学校続けて!って状態だった。そんな家庭の親では受洗できないんですか~等々、オロオロ考えながら、かろうじて「いつか子供も教会に連れてこれたらと思います。」と答えた。
 で、別にそれでなんてことはなく試問は終わったのだけど、かなり凹んだ。

 でも思えば、教会生活って、折々に凹むものである。ことに人との関わりにおいて凹むものである。良く言われることだが、教会にいる人は神様でも天使でもない、自分も含めてみんな「罪人」。洗礼授かったクリスチャンだって思いやりのない言葉を吐いたり悪口いったり人を恨んだりしてしまう、残念ながら。だから教会生活はけっしてパラダイスではない。
 そのあたりのことが、ことに受洗したてのころはわからなかった。自分のことは高い高い棚に上げて「クリスチャンなのになぜあの人は?!」「教会なのになぜこんなことが?!!」って、あれこれ思っていた。
 恥ずかしながらいまも思うことがある。

 そういう意味でけして悪気がなかった役員さんの質問になんだか勝手に自分が責められているように感じて凹んだ試問は教会生活の第一歩として良い経験だったと思う。

 しかも神様のなさることは不思議である。私を責めた(わけではないが(^_^;))役員さんとは8年後、すでに私もその方もそれぞれ別の教会で教会生活を送っていたが、あるところで再会した。それも、また「面談」の場で。しかも、またまたその方は面談官の中の一人でわたしが質問される人。そのとき、その方は場を盛り上げてくださり、私の応答のまずいところもフォローしてくださった。その面談でその方からどれほど助けられたかわからない。

 人につまずき凹むクリスチャン生活。しかしなお、その人間の間に立ち、驚くような良きことをしてくださるのは神様。

二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。(マタイによる福音書18:20)

 まだそんなことは何も知らなかったけど、オタオタ、よろよろしながら2004年5月30日ペンテコステの日に私の信仰生活は始まった。

わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それはキリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。(ローマの信徒への手紙6:4)
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