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2012年7月

2012年7月10日 (火)

天に喜び、地にサタン

 役員さんから、牧師先生に私の受洗の意志は伝えられた。

 その後の経緯は、結構淡々としたものだった。その日の礼拝が終わった後、役員さんからだったか、牧師先生からだったか、

「ペンテコステに受洗ということで準備しましょう。聖書の学びの時間に、また、お話ししましょう」

と伝えられた。ペンテコステに受洗ができることになったという安堵と、なんだか拍子抜けしたような物足りなさがあった。

 「悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。ルカによる福音書15章7節

 天には大きな喜びがあるようだけど、私の周囲はいつもと変わらなかった。教会の人と付き合いがあったわけでもないから、

「えー、洗礼を授かること、ついに決心されたんですね、おめでとうございます!」とか

「良かったですねぇ。ずっと待ってたんですよ、私もうれしいです~(涙)」

ってな反応も当然なく・・・。

 ま、いいか・・・。

 受洗までの準備といっても特別なことはなかった。これまで通り牧師先生との聖書の学びは続けていた。

 当時、新約聖書は全部読んでいたけど、旧約聖書は、歴史書の最初のほうと、詩編や預言書やその他興味のあるところをつまみ読みで読んでいただけだった。牧師先生から「まず第一ステップとして列王記まで通して読んでみると、イスラエルの歴史がだいたいわかりますよ」と言われたので、受洗に間に合うように、列王記までは通読した。

 そうして徐々に洗礼の日が近づいてきたが、どうも気分がすぐれない。

 あんなに盛り上がってキリスト教関係の本を読んだり、受洗したいと思っていたのに、なんとなく、気合が入らないというか、どんよりするというか・・・

 そんななか、定例の聖書の学びに行った。

 珍しく先生はうきうきという感じで私を迎えられ最初に聞かれた。

「いやあ、吉浦さんのこの世での人生、古い人としての生活も、あと2週間ですねぇ。あと2週間で新しい人になるんですよ。新しい人生になるわけですけど、どうですか、最近の調子は?」

 うれしそうな先生に水を差すようで申し訳なかったが、私は正直に、「なんだか最近熱意が冷めて、どんよりしてるんです」と答えた。

 そしたら、先生は、ほっほーという感じで、なんだかさらに嬉しそうに

「そうですかー、ついに来ましたねー、吉浦さんにも」

と、おっしゃる。

「は?」

「サタンですよ、サタン」

と、答えて、先生はさらに嬉しそうに、「そうですかそうですか、吉浦さんにも来ましたかサタンが・・」と一人でもぶつぶつ言っておられる。

「いやあ、サタンというのはね、人間を神様から離そうとするものですからねぇ、これから洗礼受けて神様のもとに行こうって人に対しての攻撃は強いんですよ。そうはさせまい、神様からぜったいに引き離そうとするんですよねぇ。」

 サタンというのは読んだことがある。確かに人間を神様から引き離そうとするものらしい。頭では分かっていたが、いきなり目の前で、「いやあ、来ましたか~サタンが」なんて言われると変な気分である。

「サ、サタンっすかー」

 と答えつつも、自分の頭の上をバイキンマンみたいなものがブンブン飛んでるようなイメージがわいてきて、どうにもバカらしいようなおかしいような、なんだかなあって気分だった。

 目の前で、「サタンですよ、サタン」って嬉しそうに話をしている先生を見ても、なんだかこの人おかしいんではないか、バイキンマンみたいなものを大の大人がサタンだなんて言うなんて・・・って気にもなり、受洗しても大丈夫かなって心配にもなってきて、ますますどんよりしてきたのであった。

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2012年7月 2日 (月)

ここに水があります

 キリストの贖いについて「めっちゃおいしい話」と感じた以上、もはや洗礼は切実な問題となった。

 それにしても、前回も書いたように、なぜたった一人の人が死んだことによって、私の罪が贖われたことになるのか・・・

 その論理的根拠とか、エビデンスなんてものは、ごく普通の意味においては、ないのである。

 「聖書に書いてある」ったって、普通の人間の感覚ではそれを「証拠」とは肯い難い。

 しかし、結局「信じる」って、根拠があるから、とか、ロジカルに理解できるというところとは別の問題である。キリスト教的に言えば、「聖霊が働いた」ともいえるし「神様に捉えられた」ともいえる。

 でもどういっても、信仰のない人からみたら、胡散臭く、「ああ、あっちにイッちゃったのね」と感じるものだろう。

 関連して印象深かったことがある。受洗した後のことであるが、あるノンクリスチャンの知人と話をした。クリスチャンの私などより、よほどまじめでストイックな女性である。

 「わたしはほんとーに自分が汚くて、どーしようもない人間だと思ったとき、教会に行こう、クリスチャンになろうと思ったんです」と私が言ったら、彼女は答えた。

 「私は以前は、少しは宗教に興味があったんだけど、やはり、あるとき、本当に自分が汚くて、どーしよーもないと気が付いた瞬間に、すべての宗教に興味を失ったの」

 「ええー!?自分が汚いと感じて、救われたいとは思わないんですか?」

 「思わない」

 「なんでですか?」

 「うーーーん、そりゃ救われなかったら、大変なことになるのかもしれないけどねぇ・・・。そのときが来たら慌てふためくかもしれないけど・・・。でも、今は救われたいとも思わないし・・・宗教に興味はないの・・・」

 その後、その彼女とそういった話をする機会がないので、それっきりなのだけど・・・。罪とか救いっていうことに関して根本的な誤解があるようにも思う。いやわたしが彼女の言わんとするところをしっかり理解してない面もあるのかもしれない・・・。ただ、別にわたしは、地獄に落ちたくないからクリスチャンになったわけでも天国に行きたいから神様を信じたわけでもない。

 ただ、今現在、どうしようもなく汚い自分、まあ言ってみれば腐った服を着ているような状態の自分としてはその服を脱がせてもらいたかったのだ。

 自分でその服を脱ぐことができるとは思えなかったし、その服を着続けていくことはある意味、将来地獄に落ちるより耐え難かった。

 ストイックに、そんな汚いどうしようもない自分を、自分の責任のもとに、自分で引き受けて生きていけるとは思えなかった。救いは必須であった。自分で自分に白旗を上げたのである。

 では誰が私を救えるのか?それは全能といわれる神だけではないのか?仮にわたしがどんなに汚くても、いや仮に宇宙一の超極悪人であったとしても、神様には救うことは可能だろう。たやすいことではないのか?

 わたしはわたしを救えないし、救われないと生きていけない。救ってくださるのはあの方だけである・・・そう信じた。

 ・・・さて、いよいよ受洗願望が顕在化してきたわたし・・・。

 わたしは、通っている教会の受洗のしくみというか段取りを知らなかった。牧師先生に相談しようかとも思ったが、まだ教会に通い始めて三か月くらいなもんである。聖書の学びも終わっていない。

 仮に「受洗したいんです」っていっても、ひょっとしたら、K牧師はにっこり優しく微笑んで「あ、そんなにねー、焦らなくていいですよー。ゆっくり準備しましょうね」とか何とか言って、やんわりと、「まだ早い」って言われそうである。そんなことになったらなんだか落ち込んで、二度と立ち直れないような気がする。

 そうこうしているうちにイースターとなり、三人の方が受洗された。そのときなぜか私は思った。ひょっとしたらこの教会は、イースターとクリスマスにしか洗礼式がないのかもしれない、だとしたら、次の洗礼式はクリスマス・・・えー、そんなに待てない~。(あとから知ったが、洗礼式は当然、イースターやクリスマス以外にも行われている。だが、その当時は勝手に推測して焦っていた)

 そんな時期の日曜日の朝、教会に着いて受付のところで週報(その日の礼拝の式次第とか連絡事項が書かれている)を見ると、連絡欄に「ペンテコステで受洗を希望される方は牧師までご相談ください」と書かれていた。

 その瞬間思った。「よっしゃあ、ペンテコステだ!」

 しかも<相談してください>と書いてある。条件として教会に何か月以上来てるとか聖書の学びを終えているとかは書いてないから、少なくとも相談はできるはずだ。これは相談しなくてはっ!っと盛り上がった・・・が、やはり思った。

 うーーん、でもまだ教会に来て日が浅いし・・・相談してもやはりK牧師はにっこり優しく微笑んで「焦らずゆっくり・・・」とか言われるのでは・・・

 そう思うと、躊躇した。

 すると、視界の中に教会の役員さんの姿が目に入った。当時、教会の方とはほとんど口をきいたことがなかったが、たまたまその役員さんとは何回か言葉を交わしたことがあった。温厚かつ気さくな雰囲気の60代の紳士であった。

 そうだ牧師先生に相談する前に役員さんに探りを入れよう。わたしはそう思って、役員さんのところに向かった。

 「あのー、すみません、洗礼ってどうしたら受けられるんですかぁ?」

 役員さんはおや?という感じで、にこやかに

 「いえ、別に特別な資格とか条件はありませんよー。イエス様を救い主として受け入れたら、誰でも受洗できるんですよぉ。」と言われた。

 いやいや・・・そういう一般的なことを聞きたいわけではなく、この教会のしくみというかプロセスというかそれを知りたいんだが・・・。でも役員さんは、にこやかにちょっとおどけたように、体の横に招くように両手を広げるオーバーアクションで答えておられる。

 うーーむ、まあいいか。

 私は答えた。

 「そうですか。イエス様を救い主として受け入れたいんです。受け入れます。だから受洗したいんです。」

 一瞬にして役員さんは真顔になった。

 「え!?わ、わかりました。あー、えと、牧師先生にすぐ連絡します」

と身を翻して会堂へ駈け込んで行かれた。

 私は、ぼーっと、そのおろおろした、でも大急ぎで駆けていかれる役員さんの姿を見送った。

     「ここに水があります。洗礼を受けるのに、何か妨げがあるでしょうか。

                                --使徒言行録8章36節」

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