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2012年6月

2012年6月25日 (月)

おいしい話

  聖書の学びを始めてから、特に「十戒」のことがあって以来、正直なところ、すでに心の奥では「受洗」の二文字がかなり意識されていた。

 もちろん、頭では「わたしは信者になるつもりはない」「宗教にのめりこむつもりはない」という思いはあった。

 熱しやすい性格である自覚はあったし、あんまり深入りしちゃいかん、とブレーキをかけたい思いもあった。

 しかし、気がつくとネットで「受洗」とか「洗礼」とか検索していたりした。

 ネット上には受洗体験記みたいなものがたくさんあった。そういうのを読むのは楽しかった。ほんとうに受洗にいたる経緯は人それぞれであった。

 またいろんな教派・教会の受洗までのプロセスの説明もネット上に掲載されていた。

 基本的には、イエスキリストの贖いの業を理解し、イエス様を救い主として受け入れ信じれば洗礼を受けることはできるということがわかった。

 ただ受洗のシステムというのは教派や教会によってさまざまであって、「イエス様を信じます~」と告白すれば比較的すぐ洗礼をさずかれるような教会もあれば、一年以上いろんな勉強をしたのち受洗となる教会もあるようであった。

 と、そんなことを調べながら、「別に受洗したいわけではなくて~、あくまでもこれは聖書やキリスト教の勉強の一環だから」となぜか自分で自分に言い訳したりしていた。

 そんななか、聖書の学びで、イエス様の贖いについて学んだ。基本的なことはすでに私は知っていた。でも牧師先生と一緒に聖書を読み、先生から説明を受けた。

 「吉浦さんがね、借金を背負っていたとしますよ。借金を帳消しにするには、だれかが吉浦さんの代わりに借金の金額だけお金を払ってくれないといけませんよね。吉浦さんには借金を返す力はないんだから。

 その借金を返してくれる人に借金があったら、やっぱりその人にも吉浦さんの借金を肩代わりすることはできないですよね。

 借金のない人が肩代わりをしてくれないといけないですよね。

 借金を、罪とすると同じことが言えますよね。

 吉浦さんの罪をなかったことにしようとしたら、まったく罪のない人が吉浦さんの代わりに、罪を担って贖ってくれないといけない。

 罪の報酬は死ですから、贖う人は吉浦さんの代わりに死なないといけないわけです。

 イエス様はまったく罪のない方で、吉浦さんの代わりに罪を担って、死んでくださった。それが十字架です。まったく罪のない方が吉浦さんの罪を肩代わりしてくださったわけです。

 吉浦さんはイエス様によって罪が贖われたことを受け入れ、イエス様を信じれば、罪赦された人として、神様と新しい祝福されたつながりをもって生きていくことができるわけです。」

 ほっほー。

 2000年前の人であるイエスという、私とは何の面識もない人が私のために死んでくれたと?そして私の罪が贖われたと?

 いや私のみならず、全人類の罪が贖われたと?

 それはどういう根拠、どういうロジックで証明されることなのか?

 どういうつじつまが合う説明があるのか?

 ・・・・と、一応、理学部出身の私としては疑問に思うのが自然であるとも思うが、なぜかそのとき、私の頭に最初に浮かんだのは

 「え、イエス様を信じるだけでわたしの罪がチャラになるわけ?

 それって、めっちゃ、<おいしい話>じゃん」

 ということだった。

 そんな良い話があるのなら、ぜひ乗っかりたい。

 それこそ坊主丸儲け(宗教がちょっと違うが)、棚からぼたもち、なんてラッキー。でも虫が良すぎないか?

 本当に信じるだけいいのか?あまりにも話がうますぎないか?

 でもうまい話には乗りたいものだ。信じるだけでいいなんて。

 信じたい。信じられたらどんなにいいだろうか?

 こんな良い話、ほんとうのことかなあ。

 かつて理学部に在籍経験のあった自分の中の理性とかぜんぜん関係なく(よく考えたら現実的には人生において、理性的な判断はあまりしてない、割と行き当たりばったり直情的な私であったが)、なんだか「良い話」「乗らなきゃ損」みたいな変な損得勘定にとらわれてしまった。

 こんないい話、ぜひ乗りたい。乗ってみたいものだ・・・。

 信じたい、信じれたらどんなにいいだろう?

 心からそう思った。

 当時もいまもすっごくいい加減なわたしだけど、イエス様の贖いのことを「めっちゃ良い話」とあのとき感じたのは正しい感覚だったと今でも思う。

 「めっちゃよい話」「虫のいい話」は、すなわち「良き知らせ」、福音にほかならない。<それに乗らないと損しそう>って漠然と思ったのも、感覚的に正しかった。

 乗って損は絶対にしない「虫の良い話」。本当に損はしなかった。

 いや損しないどころの話ではなかった。あれから8年たった今、確信している。

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2012年6月18日 (月)

光あれ

 なんと二年ぶり以上の更新である・・・・(とんでもね(ー_ー)!!)

 そうこうして・・・って二年ぶり以上前からの続きですが・・・教会に行くようになった私。

 なにがなんだかわからないけど、教会に行かねば!と思って教会には行くようになったし、漠然と救いみたいなものは望んでいたのだけど、いわゆる「宗教」には距離を置きたいという気持ちがあった。礼拝は心地よかったが、「信者」になるつもりは、さらさらなかった。

 だから礼拝後の「昼食でも?」のお誘いもさっくり断り、速攻、帰宅していた。

 ところがある日、礼拝後、速攻帰宅体勢となっていたわたしの背中に声がかかった。

ふり返ると教会の役員さんだった。

 「礼拝に続けてこられてますね。どうですか、牧師先生と聖書の学びをごいっしょになさいませんか?」

 ほお・・・聖書の勉強?しかも、タダ(*^_^*)

 聖書の勉強はほんとうにしたかったので、<聖書のプロ>の牧師先生がおしえてくれるなんて渡りに舟って感じで、すぐにお願いした。なんといってもタダである。

 平日は仕事なので土曜日の午後に設定していただいた。(今思うと、礼拝前日の土曜日の午後なんて、牧師にとって一番たいへんな時間帯・・・その当時はそういうことも知らずラッキーと思っていた)

 最初の時は、ほんとにタダでいいのかちょっと不安で、バレンタインの時期でもありチョコレートを買っていった。(でもほんとにタダでした)

 最初の学びでは創世記を一緒に読んだ。神様がすべてを創られたこと、人間が創られたわけ、聖書が書かれたわけ・・・、ほお、面白い。以降、二週に一回くらいの割で、だいたい聖書箇所を二か所ずつくらい旧約から新約まで勉強した。

 学びだすと、もともとのめりこみやすい性質でもあるので、さらに熱心にキリスト教関係の本を手当たり次第に読むようになった。読めば読むほど、キリスト教は奥深く興味が尽きなかった。

 何回目かの学びの時、「十戒」についてがテーマだった。聖書の十戒の箇所はそれまでも自分で読んでいたし、いろんな本で知識も持っていた。

 でもそのとき、十戒のある箇所が目について、離れなくなった。初めて読んだ箇所でもないのに気になる・・・

 うーん、この箇所は・・・・どうにも自分の身に覚えがあることだ。

 わたしは十戒を破ってるってこと?わたしはそんな悪いことをしてるの?

 いや世間でもそういうことは良くあることだ。これは昔の慣習の、昔の戒め・・・自分に言い聞かせた。

 そう思いつつも、悩みこんでしまった。わたしは十戒を破っているのか・・・思わず牧師さんに、「わたしはこれこれこういうことをしてますが、これは十戒にひっかかりますか?」と聞いた。

 牧師さんは、びっくりして、しばらく絶句された。そのあと、うつむいて、

「うーーん・・・わたしは牧師ですから・・・」

と苦しそうに答えられた。

「うーーん、わたしは牧師ですからねぇ」と再度繰り返され、

「それを良いとは言えません」

とおっしゃった。そのあとも、「いろいろな事情もあると思うんですけど・・・わたしは牧師ですから・・」と、苦しそうに言いあぐねておられた。

 その

「うーーん、わたしは牧師ですから・・・」

とうーーん、うーーんと牧師先生が悩んでおられる様子を見て、わたしは、ひどく悲しくなってきた。

 ああやっぱり十戒破っていたんだ、罪だったんだと思った。

 涙が出てきた。

 先生とそのことについてしばらく話をして、最後に先生が祈ってくださった。

 わたしのなかで、なにかが変わった。あのときはまだそうはっきりとは意識してなかったけど、あの日、わたしは、はじめて「みことばから問われる」という経験をしたのだと思う。神から問われた、といってもいい。

 聖書は客観的に読んだり研究したりすることもできるけど、聖書の側から強い力でわたしに問いかけてくることもある。そのとき、聖書の言葉は歴史書を越え文学を越え、まさに「みことば」として人間の存在そのものを捉え、根底から揺さぶるものとなる。

 聖書がわたしにとって違ったものになった。

 でもそれと合わせて、忘れられないのは、「うーーん、わたしは牧師ですから・・」と呻くように言いあぐねていた牧師先生の姿。「そんなん全然だめじゃないですか」って断罪することなく、「うーーん」と答えあぐねておられた姿。

 キリストもまた、罪の中にある一人一人とともに苦しんでくださる方であることを、あの日のことと重ね合わせて思う。共に苦しんでくださるキリストゆえに、創世記1章の「光」がわたしたちの上に降り注がれることを、学びの日の教会の二階の小さな部屋の光景と共に思う。

 

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