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2010年1月

2010年1月17日 (日)

疲れた者、重荷を負う者は

P1001211

 12月28日、日曜日、ついに教会の礼拝に行った。

 ちなみにその前の週がクリスマス礼拝だったのだが、

「クリスマス礼拝のときに初めて教会に来られる方は多いですが、クリスマス礼拝の翌週に初めてこられる方は珍しい」

と、あとから言われた。でもノンクリスチャンはクリスマスが12月25日というのは知ってても、プロテスタントの多くの教会でその直前の日曜にクリスマス礼拝をしていることなんて知らないわけで、「珍しい」と言われたって、なんだかなあと、当時は思った。

 で、当日は、初めて降りる駅、初めての町の教会訪問で、ちょっとした旅行気分だった。駅からの道は、ややわかりにくかったけど、ちゃんと電柱に案内があって、無事辿り着けた。住宅街のなかのこじんまりとした建物。

 ・・・で、初めての礼拝は、どうだったかというと、、、、実はあんまり印象がない(^^ゞ。なんとなく立ったり座ったりしてたら、終わっちゃったなあという感じ。

 最初にいきなり牧師さんが「主に向かって喜び歌おう!」と声を張り上げたんで、いったい何?と思ったのと(詩編95・・あとからあれは招詞という招きの言葉だと知った)、交読詩編を牧師さんと信徒が交互に読むところが「あ、なんか宗教っぽい・・・」と若干引いたくらいで、めっちゃ嫌だったということもないかわり、感動したってこともなく、終了。

 でもまあ嫌ではなかったので、なんとなく、続けて礼拝には行ってみた。

 当時、子供の昼ごはんの心配もあったし、なんとなく「宗教」に引っ張り込まれないようにという警戒心もあって(礼拝自体、まさしく宗教行為で、すでにそれに参加していることとは矛盾しているが)、礼拝後はそそくさと帰っていた。「お昼ご飯でも?」とお誘いされても、「いえ、結構ですっ!」と、ダッシュして教会を出た。たぶん当時の私の背中からは「誰も私に話しかけないでください」オーラが出ていたと思う。

 そんな感じで始まった礼拝生活の何回目かのこと。

 礼拝の中の讃美歌として、讃美歌21の18番「心を高く上げよ!」を皆で歌った。その2番の歌詞に目が留まった。

 霧のようなうれいも

 やみのような恐れも

 みなうしろに投げすて

 こころを高くあげよう。

 まあ、なんということもない他愛ない歌詞といえなくもない。

 でも「霧のようなうれいも」「闇のような恐れも」・・・というところを歌いだしたとき、私は感情の深いところを、どっとなにかに掴まれたような感じを持った。うれいも、おそれも投げすてなさい・・・。

 本当に投げすてていいんですか?

 いや、そもそも私に、うれいやら恐れなんてあっただろうか・・・

 歌いながら、どうにも考えがまとまらなくなってしまった。

 ああ、でもやはり・・捨てたい、捨てたかったうれいや恐れはあった。そういうものはできるだけ見ないようにしていたのだった。

 でも本当は捨ててしまいたいことは山ほどあった。

 離婚して、母一人子一人の生活。ちゃんと専門職の仕事はあって、それなりに恵まれてはいた。でもやはりしんどかった。本当にしんどかった。

 しんどいと言ってはいけない。もっとたいへんな人はたくさん世の中にいるじゃないか。私ごときが、しんどいなんて言ったらバチが当たる。そう思って生きてきた。弱音を吐くなんて弱い人間のすることだ。

 でも、やっぱりしんどかった。

 数年前、転勤をした。望まない転勤だった。小さな子供を抱えて一人で引越しの準備をした。不動産屋で、「母子家庭ですか?」と嫌な顔をされた。

 慣れない町で本当に子供と二人で生きていけるのか。下見に来た町で、茫漠とした不安を感じた。本当に心細かった。

 子供が不登校になった。相談する人もなく、市の不登校相談窓口に電話した。職員は淡々と言い放った。「そもそも不登校はお宅の躾けの問題ですから・・」

 ・・・いろんなことが頭を巡った。

 神様、ほんとうに投げすてていいんですか?それは無責任じゃないんですか?弱い人間のすることじゃないですか?

 そのとき私は、まだ次のみことばを知らなかった。

 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。

 休ませてあげよう。(マタイによる福音書 11-28)

 神様は私を招いておられた。暗闇の中にいた私を、糾弾するためでもなく、矯正するためでもなく、ただ休みなさい、と。その重荷をわたしにゆだねなさい。と。

 もう強がらないくてもいい。弱いそのままで私の元に来なさい、と。

 そのときは、なにがなんだかわからなかった。そして私は「心を高く上げよ」を2番以降、歌うことができなかった。ぐちゃぐちゃに涙が出てきて、止まらなかったからだ。(つづく)

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2010年1月 9日 (土)

あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ

「退け、サタン。「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」と書いてある」マタイ4-1

P1001209  「何がなんでも教会に行ってやる~」と決心した私が最初にしたことは、インターネットの検索であった。

 まずは、キリスト教や教会一般に関する情報を調べた。なんせ前提知識がなかったので、繰り返し、何日かかけてあれこれネットサーフィンをした。これはなかなか楽しいことだった。

 それで、カトリックとプロテスタントの違いとか、おおまかな教派教団のこととか、教会の雰囲気とか、集会の様子とかいったことを、ある程度は頭に入れることができた。

 そして、いよいよ、行くべき教会の検索をしてみた。

 大阪市内在住なので、当然「大阪にある教会」を検索したのだが、妙なことに、大阪市内には教会がなかった!

 検索エンジンで検索したとき、単純に検索語かなにかを間違っていたと思うのだが、そのときは丹波篠山の教会とか神戸の三田の教会とかしか出てこなかった。

 私は、二十年ばかりも職業としてソフトウェアの開発をやってて、まあそれなりにパソコンやネットワークには詳しいはずなのに、なぜかそのときは検索を間違えてしまったのだ。でも間違えたとは思わずに

「ああ、私の出身地の長崎と違い、大阪には教会がないんだ」

となぜか納得してしまった。たしかに長崎はカトリックの教会が多く、町を歩いててもシスターさんとすれ違ったりするくらいだったのに比べると、大阪では教会が目につかない。でも、人口比からいっても、教会が全然ないなんてことはありえないし、なにより、「大阪」で検索しているときに、篠山や三田が最初に出てきた時点で、おかしいことに気がつけよ!と、普通に考えたら突っ込むところなのだが、その時の私は、なぜか全然気がつかなかった。

 唯一、家から通えそうな教会が検索結果の中にひとつあり(それでも45分くらいかかる)、そこのホームページを見てみた。

 教会紹介に<プロテスタントの教会です>と書いてあり、ちゃんとした正統的な教会のようである。ここなら壺を売りつけられたりしなさそうだと思った。また、牧師先生の説教が過去何年分も掲載されてて、ためしにそのうちのひとつを読んでみた。

 それは「退け、サタン!」という題で、イエス様の荒野の誘惑の箇所だった。

 ここに出てくるサタン=悪魔は、断食して空腹のイエスに対して「石をパンに変えろ」といったり「高いところから飛び降りても天使が助けてくれるだろう」といったりする。普通、悪魔の誘惑と言ったら、みずからの欲望のために良からぬことに手を染めるよう囁くような印象があるのに、なんだかこの悪魔の誘惑はみょうちきりんである。言葉や文意は理解できるが、なんだかどうも釈然としない感じがあった。

 最後の誘惑だけは<世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」>というもので、これは何となく悪魔っぽく感じた。実際、牧師先生の言葉にも、「三つの誘惑の中で最も悪魔らしいし、分かりやすいもののように見えます。」とあり、私は思わず「うんうん」とパソコンの前で相槌を打っていた。

 そして、その誘惑へのイエスの答えは「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ、と書いてある」であった。これがまたわかったようなわからないような不思議なものだった。<主を拝み、主に仕える>というのは、単純に悪なるものに魂を売らず、善なるものに従うということでもなさそうに感じた。

 そのとき漠然と感じたのは、聖書というのは一筋縄ではいかない、なんだか妙なことが書いてあるものだということだ。でも、その<妙な感じ>に魅力を感じたのも事実だった。

 聖書自体は妙でわかりにくいと思ったが、牧師先生の解説には、明快で論理的な印象を受けた。うーん、こんな説教なら私にもわかるかもしれない・・・。と、いうことで、私はその教会に行くことに決めた。

 あとからわかったことだが、その牧師先生はもともと理工学部の出身でプログラミングのバイト経験もある方だった。いま思えば、理学部出身でソフト開発の仕事をしていた私が、<最初に出会う牧師先生>としては、ある種「相性の良い」の先生だったのではないかと思う。だから、検索間違いも、今思うと、あの先生に導かれるための神様の計らいだったのだと思う。

 ということで、いよいよ教会へ行くことにしたが、それは年も押し迫った12月28日のことであった。(つづく)

 (なお、そのとき読んだ牧師先生の説教はたしかコレ→牧師の説教

  今読むとなんだかよくわかります(^^ゞ

  この先生はいまは東京の教会で牧会されています)

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2010年1月 3日 (日)

わたしが救い出す

P1000908 わたしはあなたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す イザヤ46-4」

 前の記事にあるように、神様から呼ばれた私だが、すっとそのまま神様のもとに行ったのかというと、そうでもない。

 「教会に行こう」と思ったといっても、なんせ周りにクリスチャンはいない。どこの教会にどうやって行っていいものかよくわからない。

 ただ、実はぼんやりと「あそこに教会がある」というのは知っていた。だから「あそこ」に行きさえすれば良いと安易に考えていたところもある。「あそこ」は家から徒歩10分ちょっとのところで、通勤や買い物で通常は通るエリアではないのだが、たまたま何かのはずみでその近所を通りかかったとき、教会を見かけた記憶があったのである。

 「あそこ」に行きさえすれば良いと思いつつ、当時は仕事も忙しく、週末もばたばたしていてなかなか「あそこ」に行く機会がなかった。機会がないというより、正直、躊躇していた面もあった。教会といえば、なんといっても「宗教」である。漠然と「宗教って怖い」という警戒心もあったのである。「洗脳される」とか「壺を買わされる」とか(^^ゞ、今思うと、正統な宗教ならそんなことはないよって言えるのだが、当時はあれこれ心配していた。

 そうこうしているうちに、私はある高名な歌人Oさんを囲む短歌の会に出席した。当時、京都で月一回例会を開いてて、私も出席させていただいていた。ちょうどその月に出席した会では、そのOさんの近著の批評会を行った。私は皆さんの批評に先立ちレポート発表をする役だった。

 Oさんの本の中に「齋藤茂吉は何よりアニミズムを信奉していた」というくだりがあり、私はレポーター役であるにも関わらずその点について、Oさんに直接質問した。

 「茂吉はアニミズムを信奉していたと書かれていますが、O先生ご自身は何を信奉されていますか?」

 その回答は

 「私は、創造主なる神を信奉しています。」

 だった。

 Oさんがクリスチャンであることは有名で、その場にいた歌人は、皆、知っていた。もちろん私も知っていた。でも、目の前で「何を信奉していますか?」と伺い、まっすぐに「創造主なる神です」と回答されたのには、ひどくびっくりした。

 周囲の人も、一瞬息を呑んでいた。もっともOさんと親しい直弟子の方すら、驚いている雰囲気があった。ふたたび、Oさんは言った。

 「私は神を信じています。」

 私はレポータであることを、一瞬忘れ、「あ、私ってそういえば教会に行こうと思っていたんだった。いま、目の前で、Oさんが<神を信じる>とおっしゃっているのは、これは、ひょっとして、神様が、早く教会に行け、と言われているのでは!?」と思った。

 で、その会のあとの週末、私は「あそこ」に行ってみた。

 そして、驚愕した。

 「あそこ」は更地になっていた。

 たしかにここに教会があったはず・・。動揺して、通りかかりの方に聞いてみた。「ここに教会がありませんでしたっけ?」その方は、ああというようにそっけなく答えた。「そう・・ありましたけど、ちょっと前になくなりましたよ。」

 あとから調べてわかったのだが、そこはカトリックの教会だった。数ヶ月前に、ひとつ隣駅にある教会に合同して、その場所からはなくなったのだった。

 「教会がなくなるなんて・・・」。ひどくガックリしたが、しばらくして、逆に私はむらむらと腹が立ってきた。私が教会に行こうと思っているのに、教会がなくなるなんて、どういうこっちゃねん!絶対に許せん。こうなったら意地でも、私は教会に行ってやる!!

 私は、更地を見つめながら、なにがなんでも教会に行く決心を新たにした。

 今にして思うと、これも神様の計らいだったんだなあと思う。たぶん、私の性格では、「あそこ」に教会があったら、家から近いということもあり、教会の外側だけふらーっと見て、礼拝やミサといった本格的な集会には、「いつでもいけるからそのうち行こう」と思って、実際にはなかなか行かなかったんではないかと思う。また、一回行っても、やはりいつでも行けるということで、続かなかったかもしれない。

 ないものは猛然と欲しくなる、という私の性分を知り尽くされている神様が、私を「きっとなにがなんでも行ってやる」という思いにさせてくださったのだと思う。

 よく言われることだが、自分で選び決心して教会に行ったようでも、実際は、実に巧妙に(^^ゞ神様は私たちを導いてくださっている。その導きに、人間はただただ引っ張られて歩んでいただけ、ということが、あとになってよくわかる。

 なんせ、私を造ってくださった神様は、ずーっと神様のことなど知らん振りしていた私をも、担い、背負い、救い出してくださる神様なのだから。。。。

  (次回へ、続く)

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