2005年8月12日 (金)

黄蝶ゐてつはぶきの黄に脣觸りつ それは記憶のかたち

 『薫樹』より

 「それは記憶のかたち」・・こういうフレーズにはついひかれてしまう。こういう抽象的なというか概念的なフレーズにふっと惹かれてしまうのは自分の「甘さ」かなあと思う。でもやはりキマッていると思う。
 これは蝶とつはぶきの「黄」が重なっている。その場面がかつて見た記憶の中の場面と重なっているんだろうか?あるはデジャブのようであるということであろうか。
 「黄」の重なりとか、「脣觸りつ」-唇が触れるというあたり 少しばかりエロチックな気がしないでもない。それはいわゆる性的なものを暗示しているというより、もう少し根源的な生につらなるエロスである。
 ただそういうエロス的なところにとどまらず、ある小さな世界を覗き込むような感覚。覗き込みながら、こちらの世界が照らし返されるような(少し前の「かなかな」の歌のような)感覚というのはおもしろいと思う。
 記憶は呼び起こされたり、眼前のイメージによって重ねあわされたのではなく、いま、あらたに造られてたちあがってきた記憶である。

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道端に樹を立てかけて賣りをれり賣りものの樹の何となく人を呼ぶ

 樹に呼びかけられるというのはあるように思う。
 よく樹は「気」を出している、というようなことをいうが、私自身は「気」はわからないが、若い頃などは、樹のそばにいるとなんとなく、ふっとイメージが湧くというかインスピレーションがあるというか、そういう感覚があった。
 このうたの<人を呼ぶ>感じは、そういう感じよりもう少しやわらかい感じ。
 樹の姿かたちがいいとか、葉が風にそよぐようすがなんとなく好ましい、ということで、そこはかとなく人が注目するような感じを人を呼ぶと表現しているのかもしれない。
 しかし、この樹と人の関係はなかなかによい。
 樹と人の間には、なんとなく通っているものがある、そんな感じをもたせる。
 樹に開いている人の感性というのも好ましい。

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樹の下の泥のつづきのてーぶるに かなかなのなくひかりちりぼふ

  『薫樹』巻頭の一首であるが、「泥のつづきのてーぶる」というのがよくわからない。樹のしたに泥があって、そことさほど距離をおかず「てーぶる」がある。この「てーぶる」はほんとに木かなにかでできている「テーブル」と思っていたが、今つくづく読むと、それは泥がこんもりとしてテーブル状になっているごく小さな「てーぶる」かなあ、という気がしてきた。今までほんとに普通のテーブルと思っていたが。
 そのミニチュアの「てーぶる」のうえでかなかなが鳴いているのである。晩夏のひかりをうけて。
 「てーぶる」とかなかな、とても小さな世界である。
 しかしその世界には、ひかりがちりぼひ、こちらの世界を照らす。
 
                   

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