2005年8月12日 (金)

樹の下の泥のつづきのてーぶるに かなかなのなくひかりちりぼふ

  『薫樹』巻頭の一首であるが、「泥のつづきのてーぶる」というのがよくわからない。樹のしたに泥があって、そことさほど距離をおかず「てーぶる」がある。この「てーぶる」はほんとに木かなにかでできている「テーブル」と思っていたが、今つくづく読むと、それは泥がこんもりとしてテーブル状になっているごく小さな「てーぶる」かなあ、という気がしてきた。今までほんとに普通のテーブルと思っていたが。
 そのミニチュアの「てーぶる」のうえでかなかなが鳴いているのである。晩夏のひかりをうけて。
 「てーぶる」とかなかな、とても小さな世界である。
 しかしその世界には、ひかりがちりぼひ、こちらの世界を照らす。
 
                   

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2005年6月28日 (火)

人気なき路へ曲らむとせるわれの嗚咽を聞きしと思ふよ

 森岡貞香『白蛾』。

 嗚咽というのは、かなり強い感情の表れで、日常の生活においてはなかなかありえない状況である。
 そのありえない状況が、ふと路をまがったときに、あらわれてくる。
 瞬間的に「聞いた」というのであるから、記憶というのとはちがって、かなり臨場感があるのである。
 視覚的なフラッシュバックというのはイメージしやすいが、音が瞬間的によみがえってくる感覚というのはふしぎであり、その「音」の主は自分であるというのもかなり不思議である。
 この嗚咽は、過去のあるときの自分の嗚咽なのか、あるいは潜在的にある嗚咽なのか。
 自分にとっては感覚ししづらい感じなのだけど、印象的な一首。

 

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2005年6月27日 (月)

馳せ帰り走りいでけり汝の置きし熟梅はにほひあかねさす昼

 森岡貞香『白蛾』より。
 <帰り>、<昼>は歌集表記は旧字。

 馳せ帰り走りいでけり・・・というのは、いかにも子供、少年が、外から走って帰ってきて、またあっという間にでていった感じがよくわかる。家の中にいる親としては、「あ、帰って来た」と気づいたとたん、「あれ?もういない」とあっけにとられる感じがある。
 もっともこの前後に子供を詠んだ歌が並んでいるから、馳せ帰りの主語が子供だというのはわかるのであるが。この歌一首だけでそれがわかるかどうか・・。ただその点を差し引いても、少年の様子と、熟梅の生命感が相関して印象的な歌である。
 すでに子供のいない空間に残された熟梅のにほひ。そこに昼の光のひろがりがある。
 熟梅のにほひには、少しばかり過剰な母の思い入れがある。しかし、結句のあかねさす昼、で熟梅と空間の感じが決まって、かっちりとした一首になったと思う。
 

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