« 人ひとり恋ふるかなしみならずとも夜ごとひそかにそよぐなよたけ | トップページ | 人畜に踏みしだかるるたんぽぽを数へてゐたり野のされかうべ »

2005年7月24日 (日)

神々の死角にオオオニバス開く

  永井陽子『葦牙』。

 『葦牙』は永井陽子の処女歌集。といっても俳句もおさめられ、正式には句歌集の形をとっている。

 神々の死角にオオオニバス開く
 日記抱く夜 アンドロメダの息かすか
 水鉄砲は造物主への子供の謀反
 夕焼けをほうきの先で撫でて 秋
 二畳紀の森のロボクのごとひとり
 からっぽの酒瓶ばかり春ともし
 神もまた夢想癖持つ 帆が見える

 私は俳句はよくわからないが、おそらく、この集におさめられた俳句は、形は俳句であるけれど、俳句という様式には本質的にはおさまっていないものだろうと思う。言葉と思いと抒情の質が俳句という様式にそぐわない印象がある。実際、この集以降、永井陽子は俳句をやめ、短歌に専念していく。

 同じ集に収められた歌には、上記の俳句と相関したようなものもある。こういう句や歌を読むと、表現への、あるいは言葉への噴出するような思いを納めるべき器を模索していた時期であることがよくわかる。

 寂しいひとみと寂しい肩を寄せ合えばあんどろめだの息が聞こえる
 からっぽの酒瓶ばかり 遠い野にあれは原始の火かもしれない
 
 
 俳句にせよ短歌にせよ、私自身は短歌をはじめるのが比較的遅かったので、こういう青春句・青春歌というものに対しては非常に羨しい思いがある反面、早くから言葉にとらわれてしまった人のある種のくるしさというものも感じてしまう面もある。本来、真裸でぶつかっていく若い季節を、言葉によって反芻検証していかざるを得ないというのはいかなるものであるのか。季節の前に、言葉により屹立せられた苦しい<意識>が対峙している光景はけっして輝かしいだけのものではない。

|

« 人ひとり恋ふるかなしみならずとも夜ごとひそかにそよぐなよたけ | トップページ | 人畜に踏みしだかるるたんぽぽを数へてゐたり野のされかうべ »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/66828/5131183

この記事へのトラックバック一覧です: 神々の死角にオオオニバス開く:

« 人ひとり恋ふるかなしみならずとも夜ごとひそかにそよぐなよたけ | トップページ | 人畜に踏みしだかるるたんぽぽを数へてゐたり野のされかうべ »