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2005年7月30日 (土)

抱擁のすべての意味を消してゆくそののち胸に恋ほしきさくら

                『なよたけ拾遺』

 「さくらながれて」という一連には、<鬼>のイメージを基調にしたしずかな激しさみたいなものが感じられる。そのなかで<こひびと>という言葉が二度出てくる。恋愛というかそういう情念みたいもの(永井さんにはめずらしいような・・)が感じられる一連でもあり、そこに「逝く父」や「故郷」のイメージも重ねられていて、私にはややわかりにくい一連でもある。表記の歌も調べといいことばのイメージといいきれいで好きな歌であるが、実のところはよくわからない。特に「抱擁のすべての意味を消してゆく」・・これがよくわからない。抱擁ののちにすべての意味が消えた、ならわかるけど。(ただそれだと、俗というかありふれているというか・・)そこには少し意志的なものも感じられる。なにかを知って、なにかと別れていくような感覚が感じられる。

すきとおる蝉を地中にねむらせて夕朱雲が閉ぢゆく故郷
こひびとは般若の面をして来ると萌黄の朝の夢にいふかな
たれを待つまたは待たるるゆふぐれの風の底なる耳冷ゆるとも
くるほしく季節を呼べる首すぢが脈打ちてゐよわがこひびとよ
糸杉のながるる谷に一足の沓をあがなひ鬼族といふ

 父や故郷の静明な世界と鬼の世界は対極に位置するのだろうか?
 しかし<こひびと>は般若の面をつけてやってくる。
 胸にくるほしいさくらを持ち、しずかな静明な世界から離れ、鬼の世界との境界を彷徨する。
 父や故郷や(いままでの)恋人といった自分にとって普通だった世界の意味が消えたのちのたましひのなかに満ち満ちるさくら。

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2005年7月26日 (火)

うちつけに地にさすあかりはごろもを着ればすなはち消ゆるこころよ

        『なよたけ拾遺』
 はごろも、などという言葉が出てきたら、もうすっかり「物語」で、子供の頃に読んだ絵本の天女の絵か何かを思い出して、なんだか少し面映いような感覚も持つ。

 ただ、<消ゆるこころ>という言葉にはたいそう引かれる。
 こころは、「地」のものである。「天」にかえるとき、それは消えてしまう。
 この地上での、かけがえのないよろこびも、血を吐くような思いも、すべてすべて、かき消えてしまう。
 月に帰る「物語」の主人公でなくとも、人間とて、そのこころははかない。
 すべてこの世の中のこと。
 いつかかき消えてしまうこころなのに、なぜ人はそのこころゆえに捕らわれて苦しむのか。
 はごろもをもたぬ地の人のこころを地にさすあかりは照らす。 

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2005年7月25日 (月)

人畜に踏みしだかるるたんぽぽを数へてゐたり野のされかうべ

     『なよたけ拾遺』永井陽子

 童話調でありながら怖い情景である。
 人畜という言葉にはっとする。人と動物が同列なのである。
 この世のことをどこかで怖ろしくフラットな視点で眺めている目がある。人も動物も人の心も世の情景もどこかに思い入れをするわけではなく、ただ眼のない空洞の穴のなかから、されこうべの視点で眺めている。
 しかし、一方で、そのフラットであり、かつどこかむごい情景の中で、やはり、情というか人へ帰っていく想いもある。
 同じ一連にこんな歌もある。
ほのぐらくたづさへあへるてのひらのあはひを星が流れてゆけり
身をやつしこころをやつしうつそみのひとを愛すと笛天に吹く
三界にかがやく羽根となるまでを飛べたをやかに君のオーボエ
かのひとのこころのすきま吹きぬけてなほ凛々と水に立てる木

 身をやつしこころをやつしうつそみのひとを人は愛さずにはいられない。されこうべになっても、なお。

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2005年7月24日 (日)

神々の死角にオオオニバス開く

  永井陽子『葦牙』。

 『葦牙』は永井陽子の処女歌集。といっても俳句もおさめられ、正式には句歌集の形をとっている。

 神々の死角にオオオニバス開く
 日記抱く夜 アンドロメダの息かすか
 水鉄砲は造物主への子供の謀反
 夕焼けをほうきの先で撫でて 秋
 二畳紀の森のロボクのごとひとり
 からっぽの酒瓶ばかり春ともし
 神もまた夢想癖持つ 帆が見える

 私は俳句はよくわからないが、おそらく、この集におさめられた俳句は、形は俳句であるけれど、俳句という様式には本質的にはおさまっていないものだろうと思う。言葉と思いと抒情の質が俳句という様式にそぐわない印象がある。実際、この集以降、永井陽子は俳句をやめ、短歌に専念していく。

 同じ集に収められた歌には、上記の俳句と相関したようなものもある。こういう句や歌を読むと、表現への、あるいは言葉への噴出するような思いを納めるべき器を模索していた時期であることがよくわかる。

 寂しいひとみと寂しい肩を寄せ合えばあんどろめだの息が聞こえる
 からっぽの酒瓶ばかり 遠い野にあれは原始の火かもしれない
 
 
 俳句にせよ短歌にせよ、私自身は短歌をはじめるのが比較的遅かったので、こういう青春句・青春歌というものに対しては非常に羨しい思いがある反面、早くから言葉にとらわれてしまった人のある種のくるしさというものも感じてしまう面もある。本来、真裸でぶつかっていく若い季節を、言葉によって反芻検証していかざるを得ないというのはいかなるものであるのか。季節の前に、言葉により屹立せられた苦しい<意識>が対峙している光景はけっして輝かしいだけのものではない。

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2005年7月16日 (土)

人ひとり恋ふるかなしみならずとも夜ごとひそかにそよぐなよたけ

  永井陽子『なよたけ拾遺』より。

 このたび、永井さんの全歌集を購入した。永井さんの歌集はほとんど持っていたから、全歌集を購入することに正直、少し抵抗があったけど、持っていない歌集や、索引等を考えると資料的価値は大きいと思うし、なにより、一冊になったすべての作品を手元に置いておきたいと思ったし、置いておくべき歌人であろうと、おこがましいけど思う。
 もっとも・・同じ結社であったけど、わたしは永井さんのいい読者ではなかった。永井さんは優れた歌人であったと思うけど、ごく単純に歌の相性というかそういうものが私とは多少合わなかった。相性は相性であって、これは運命的なものでもあり、いたしかたない。歌会などの批評を聞いていても納得できないときが何回かあった。もう少し自分に力があったのであれば、突っ込んで議論をしたかった、そんな心残りもあるけれど、私などと議論をするというより、もう少し遠いところに永井さんはいて、違うところを見ていた人という気がする。議論や批評という喧騒から、すっと、きびすを返して去っていってしまいそうな強さとはかなさを持っていた人でもあった。

 この『なよたけ拾遺』は、まだ初心の頃、短歌人の先輩からいただいた。自歌集の謹呈とかでもなければ、それなりに評価されている歌集、それも昔にでた歌集というのはとても貴重で、そんな歌集をもらうなんてことはめったにないことで、これはめずらしいことだった。そんなめずらしい経緯で入手した歌集を読んで、初心者の私はごくごく素直に、二十代半ばでこれだけ洗練された完成された作品をつくれるものなんだなあと驚嘆した。

 永井さんの歌には、どこかメルヘンチックであったり、中世的なイマジネーションがあったり、というような良くも悪くも現実社会からどこか離れたような感じがある。たとえば表出歌にある「恋」にしても、現実の恋愛とか性愛とはクロスしない。
 ただそれでも私はやはりこの歌の「恋ふ」という言葉の響きにはこころ惹かれてやまない。
 「恋ふ」は「愛する」とも違う。
 
 いさよひの月掻きいだく手のなかにひとのやうなる影あるばかり
 一首前にこの歌があるけれど、「恋ふ」というのは、まさに影のような月を掻きいだくような心情であり、けっして、影ではない「実」へいたるものではない。掻きいだいても掻きいだいても、影あるばかり。
 表出歌の「恋ふ」はある種、概念としての「恋」であり「恋ふ」であるけれど、みずからの影とともにそよぐなよたけのイメージに普遍化された「恋ふことのかなしみ」が感じられる秀歌だと思う。

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