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2005年6月29日 (水)

とろとろと瓦斯燃えてゐて夕方の軽き目まひをわが踏みしめる

 森岡貞香『白蛾』。

 瓦斯という言葉・表記にどうしてもレトロな新鮮味を感じてしまうというのは、今の感覚でこの歌を読んでいるということで、正しい感じ方ではないのかもしれない。
 しかし、現在のガス機器の火と、むかしの瓦斯の火は、何か違うような気もする。自分自身が子供の頃の、台所の瓦斯の火。たしかにあれはとろとろと燃えていたように思う。
 いまのガスの火というのは、もっと強く、ばっという感じで燃えているような気がする。
 どこかはかなげなそれでいて火というものの根源的な力を感じさせるような瓦斯の火。
 その傍らで目まいを踏みしめる。目まいの歌はたくさんある(たぶん)。女性の目まいというと、どこか生活にしみついている感じがある。この歌も、ある意味、瓦斯の火、ということで台所の歌であり(お風呂ということも考えられるが・・女性の家事と関わるという点では同じ)生活のなかの歌といえるのだが、どこか、日常から離れている感覚もある。
 それは瓦斯と目まいしか言っていないからだと思う。そこによぶんな「事情」が介入していないぶん、道具立て的には充分生活じみているはずなのにどこか非日常な感覚が感じられる。「踏みしめる」という言葉も日常性から離脱するような強さをもっている。言い回し的には私は好きではないけれど、この言葉があるから日常的な「事情」から違うところへ飛べたのかもしれない。

 

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2005年6月28日 (火)

人気なき路へ曲らむとせるわれの嗚咽を聞きしと思ふよ

 森岡貞香『白蛾』。

 嗚咽というのは、かなり強い感情の表れで、日常の生活においてはなかなかありえない状況である。
 そのありえない状況が、ふと路をまがったときに、あらわれてくる。
 瞬間的に「聞いた」というのであるから、記憶というのとはちがって、かなり臨場感があるのである。
 視覚的なフラッシュバックというのはイメージしやすいが、音が瞬間的によみがえってくる感覚というのはふしぎであり、その「音」の主は自分であるというのもかなり不思議である。
 この嗚咽は、過去のあるときの自分の嗚咽なのか、あるいは潜在的にある嗚咽なのか。
 自分にとっては感覚ししづらい感じなのだけど、印象的な一首。

 

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2005年6月27日 (月)

馳せ帰り走りいでけり汝の置きし熟梅はにほひあかねさす昼

 森岡貞香『白蛾』より。
 <帰り>、<昼>は歌集表記は旧字。

 馳せ帰り走りいでけり・・・というのは、いかにも子供、少年が、外から走って帰ってきて、またあっという間にでていった感じがよくわかる。家の中にいる親としては、「あ、帰って来た」と気づいたとたん、「あれ?もういない」とあっけにとられる感じがある。
 もっともこの前後に子供を詠んだ歌が並んでいるから、馳せ帰りの主語が子供だというのはわかるのであるが。この歌一首だけでそれがわかるかどうか・・。ただその点を差し引いても、少年の様子と、熟梅の生命感が相関して印象的な歌である。
 すでに子供のいない空間に残された熟梅のにほひ。そこに昼の光のひろがりがある。
 熟梅のにほひには、少しばかり過剰な母の思い入れがある。しかし、結句のあかねさす昼、で熟梅と空間の感じが決まって、かっちりとした一首になったと思う。
 

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