2005年8月14日 (日)

踏みつけて踏みつけられて帰り来るそのくつのみが月光に濡れ

 『なよたけ拾遺』

 「木霊」という一連に含まれるがここには他の一連よりは少し現実の影がさしているように読めなくもない。
 「踏みつけて踏みつけられて」というフレーズは俗的に読もうと思えばいくらでも読める。しかし、現実の影がさしているといっても、やはりどこか物語の衣をまとっているのであり、月光に濡れるくつは、物語の世界の淡い光をかえす。

なだらかに明日へとつづく橋を絶つそのみなかみに鶴は燃ゆるも
 一連最後に決然とした秀歌がある。
 私の好みとしては、表出歌のほうなのであるが。「なだらかに」の歌はかたちも調べも歌いきり方も確かに秀歌の趣がある。
 しかし、表出歌のどこか言い切っていないところには、とつとつとした陰影が感じられる。
 物語をつくろうとして、ふっとどこか洗練さがたわんで、ほつりと出てくるような影。
 「濡れ」と言いきりではない終わり方は基本的には現代短歌の中で使われるとほとんどの場合おもわせぶりで私は嫌いなのだけど、この場合は、上句の強さに対してバランスがとれているように感じる。

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ゆふぐれに櫛をひろへりゆふぐれの櫛はわたしにひろはれしのみ

 『なよたけ拾遺』より。

 有名で私も大好きな一首であるが、一連の中で読むとイメージが違う。
 というか、私自身が勝手なイメージをしていたのであるが。私はこの櫛はどこか現代の町角、道端で拾われたような印象をもっていたが、この歌を含む一連は古典的というか、作られた昔話風のイメージを持つ。(まあ、永井さんの古典的な物語調の一連でも、現代がさっと混じりこんでいる歌もあるのでそういうイメージもまるきりないとは言い切れないが)

ちちははのくにへとつづく夜をなべてさびしからずや水に棲むひと
ごっそりとあなたの影をぬすみたくついてゆく夜のれんげ畑は
いっぽん足 されど背中をひからせてもみぢの渓へ入りてゆきたり
みみづくもめだかもかめもくすの木も月のしづくのくにへとかへれ

 一連には上記のような歌が並ぶ。昔なのか現代もしくは少し前のどこか田舎のほうなのかわからないが、そんな「れんげ畑」や「渓」のある光景。みみづくやめだかの世界。拾われた櫛は、ゆうぐれの雑踏もしくは人通りの少ないくすんだ道端にあったわけではないのだ。
 私はたちまちこの櫛のイメージの置き所に困る。みみづくやめだかの世界にある櫛ではかなしみの質がまったく違うようにも思う。あらためて、この場合の「わたし」ってなんだろう?よくわからなくなってきたのである。
 いずれにせよ、ひどく単純な歌でありながら(と言ってもこの歌の作り方は相当に巧いからこその単純さなのであるが)櫛のくっきりした印象と、それでいながら全体の淡い印象が不可思議である。

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2005年8月12日 (金)

黄蝶ゐてつはぶきの黄に脣觸りつ それは記憶のかたち

 『薫樹』より

 「それは記憶のかたち」・・こういうフレーズにはついひかれてしまう。こういう抽象的なというか概念的なフレーズにふっと惹かれてしまうのは自分の「甘さ」かなあと思う。でもやはりキマッていると思う。
 これは蝶とつはぶきの「黄」が重なっている。その場面がかつて見た記憶の中の場面と重なっているんだろうか?あるはデジャブのようであるということであろうか。
 「黄」の重なりとか、「脣觸りつ」-唇が触れるというあたり 少しばかりエロチックな気がしないでもない。それはいわゆる性的なものを暗示しているというより、もう少し根源的な生につらなるエロスである。
 ただそういうエロス的なところにとどまらず、ある小さな世界を覗き込むような感覚。覗き込みながら、こちらの世界が照らし返されるような(少し前の「かなかな」の歌のような)感覚というのはおもしろいと思う。
 記憶は呼び起こされたり、眼前のイメージによって重ねあわされたのではなく、いま、あらたに造られてたちあがってきた記憶である。

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道端に樹を立てかけて賣りをれり賣りものの樹の何となく人を呼ぶ

 樹に呼びかけられるというのはあるように思う。
 よく樹は「気」を出している、というようなことをいうが、私自身は「気」はわからないが、若い頃などは、樹のそばにいるとなんとなく、ふっとイメージが湧くというかインスピレーションがあるというか、そういう感覚があった。
 このうたの<人を呼ぶ>感じは、そういう感じよりもう少しやわらかい感じ。
 樹の姿かたちがいいとか、葉が風にそよぐようすがなんとなく好ましい、ということで、そこはかとなく人が注目するような感じを人を呼ぶと表現しているのかもしれない。
 しかし、この樹と人の関係はなかなかによい。
 樹と人の間には、なんとなく通っているものがある、そんな感じをもたせる。
 樹に開いている人の感性というのも好ましい。

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樹の下の泥のつづきのてーぶるに かなかなのなくひかりちりぼふ

  『薫樹』巻頭の一首であるが、「泥のつづきのてーぶる」というのがよくわからない。樹のしたに泥があって、そことさほど距離をおかず「てーぶる」がある。この「てーぶる」はほんとに木かなにかでできている「テーブル」と思っていたが、今つくづく読むと、それは泥がこんもりとしてテーブル状になっているごく小さな「てーぶる」かなあ、という気がしてきた。今までほんとに普通のテーブルと思っていたが。
 そのミニチュアの「てーぶる」のうえでかなかなが鳴いているのである。晩夏のひかりをうけて。
 「てーぶる」とかなかな、とても小さな世界である。
 しかしその世界には、ひかりがちりぼひ、こちらの世界を照らす。
 
                   

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2005年8月 1日 (月)

「ただ泳ぐ 日に日を継ぎてとこしへに哀しみのうた満ちくる海を」

                     『なよたけ拾遺』

 前後の歌からすると、「」内はいうれい(幽霊)の言葉ということになる。

その稚きこころさながらみささぎのみづのあかりに咲く黄水仙
ながきながきねむりのはてのゆめにさへわたくしを呼ぶこゑもこころも
丑満つのほしの流れをうつしつつかさねてゐれば稚きてのひら
あさあけのみどりのもやを身にまとひまだ消えのこる麦の中のいうれい
大きな扉背後にあるを意識して旅の歯ブラシ手ばやく洗ふ

 一連の中にみささぎという言葉も見えるから、この幽霊は、かなり昔に若くして亡くなった高貴な人、ということになる。
 川上弘美の短編に、何年も何十年もさまよっている女の幽霊のたましいの話があるが、あれを読んだときにはどうにもやりきれなかった。この歌とはぜんぜん違う感じなのだけど、ただ気が狂うほど長い長い時間をさすらっていく思いという点では似ている。そういう永遠にさすらう思いというものを想像しただけで、どうにも胸が苦しい。
 ただ一人の海。とこしへにひとり。哀しみが満ちる海ではなく。哀しみそのものが形象化した海。
 そういう孤独な哀しみというものと感応してしまうこころというものは、また哀しくとても危険だと思う。

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2005年7月30日 (土)

抱擁のすべての意味を消してゆくそののち胸に恋ほしきさくら

                『なよたけ拾遺』

 「さくらながれて」という一連には、<鬼>のイメージを基調にしたしずかな激しさみたいなものが感じられる。そのなかで<こひびと>という言葉が二度出てくる。恋愛というかそういう情念みたいもの(永井さんにはめずらしいような・・)が感じられる一連でもあり、そこに「逝く父」や「故郷」のイメージも重ねられていて、私にはややわかりにくい一連でもある。表記の歌も調べといいことばのイメージといいきれいで好きな歌であるが、実のところはよくわからない。特に「抱擁のすべての意味を消してゆく」・・これがよくわからない。抱擁ののちにすべての意味が消えた、ならわかるけど。(ただそれだと、俗というかありふれているというか・・)そこには少し意志的なものも感じられる。なにかを知って、なにかと別れていくような感覚が感じられる。

すきとおる蝉を地中にねむらせて夕朱雲が閉ぢゆく故郷
こひびとは般若の面をして来ると萌黄の朝の夢にいふかな
たれを待つまたは待たるるゆふぐれの風の底なる耳冷ゆるとも
くるほしく季節を呼べる首すぢが脈打ちてゐよわがこひびとよ
糸杉のながるる谷に一足の沓をあがなひ鬼族といふ

 父や故郷の静明な世界と鬼の世界は対極に位置するのだろうか?
 しかし<こひびと>は般若の面をつけてやってくる。
 胸にくるほしいさくらを持ち、しずかな静明な世界から離れ、鬼の世界との境界を彷徨する。
 父や故郷や(いままでの)恋人といった自分にとって普通だった世界の意味が消えたのちのたましひのなかに満ち満ちるさくら。

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2005年7月26日 (火)

うちつけに地にさすあかりはごろもを着ればすなはち消ゆるこころよ

        『なよたけ拾遺』
 はごろも、などという言葉が出てきたら、もうすっかり「物語」で、子供の頃に読んだ絵本の天女の絵か何かを思い出して、なんだか少し面映いような感覚も持つ。

 ただ、<消ゆるこころ>という言葉にはたいそう引かれる。
 こころは、「地」のものである。「天」にかえるとき、それは消えてしまう。
 この地上での、かけがえのないよろこびも、血を吐くような思いも、すべてすべて、かき消えてしまう。
 月に帰る「物語」の主人公でなくとも、人間とて、そのこころははかない。
 すべてこの世の中のこと。
 いつかかき消えてしまうこころなのに、なぜ人はそのこころゆえに捕らわれて苦しむのか。
 はごろもをもたぬ地の人のこころを地にさすあかりは照らす。 

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2005年7月25日 (月)

人畜に踏みしだかるるたんぽぽを数へてゐたり野のされかうべ

     『なよたけ拾遺』永井陽子

 童話調でありながら怖い情景である。
 人畜という言葉にはっとする。人と動物が同列なのである。
 この世のことをどこかで怖ろしくフラットな視点で眺めている目がある。人も動物も人の心も世の情景もどこかに思い入れをするわけではなく、ただ眼のない空洞の穴のなかから、されこうべの視点で眺めている。
 しかし、一方で、そのフラットであり、かつどこかむごい情景の中で、やはり、情というか人へ帰っていく想いもある。
 同じ一連にこんな歌もある。
ほのぐらくたづさへあへるてのひらのあはひを星が流れてゆけり
身をやつしこころをやつしうつそみのひとを愛すと笛天に吹く
三界にかがやく羽根となるまでを飛べたをやかに君のオーボエ
かのひとのこころのすきま吹きぬけてなほ凛々と水に立てる木

 身をやつしこころをやつしうつそみのひとを人は愛さずにはいられない。されこうべになっても、なお。

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2005年7月24日 (日)

神々の死角にオオオニバス開く

  永井陽子『葦牙』。

 『葦牙』は永井陽子の処女歌集。といっても俳句もおさめられ、正式には句歌集の形をとっている。

 神々の死角にオオオニバス開く
 日記抱く夜 アンドロメダの息かすか
 水鉄砲は造物主への子供の謀反
 夕焼けをほうきの先で撫でて 秋
 二畳紀の森のロボクのごとひとり
 からっぽの酒瓶ばかり春ともし
 神もまた夢想癖持つ 帆が見える

 私は俳句はよくわからないが、おそらく、この集におさめられた俳句は、形は俳句であるけれど、俳句という様式には本質的にはおさまっていないものだろうと思う。言葉と思いと抒情の質が俳句という様式にそぐわない印象がある。実際、この集以降、永井陽子は俳句をやめ、短歌に専念していく。

 同じ集に収められた歌には、上記の俳句と相関したようなものもある。こういう句や歌を読むと、表現への、あるいは言葉への噴出するような思いを納めるべき器を模索していた時期であることがよくわかる。

 寂しいひとみと寂しい肩を寄せ合えばあんどろめだの息が聞こえる
 からっぽの酒瓶ばかり 遠い野にあれは原始の火かもしれない
 
 
 俳句にせよ短歌にせよ、私自身は短歌をはじめるのが比較的遅かったので、こういう青春句・青春歌というものに対しては非常に羨しい思いがある反面、早くから言葉にとらわれてしまった人のある種のくるしさというものも感じてしまう面もある。本来、真裸でぶつかっていく若い季節を、言葉によって反芻検証していかざるを得ないというのはいかなるものであるのか。季節の前に、言葉により屹立せられた苦しい<意識>が対峙している光景はけっして輝かしいだけのものではない。

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«人ひとり恋ふるかなしみならずとも夜ごとひそかにそよぐなよたけ