2018年12月13日 (木)

佐世保の海~死で終わりではない

20181213_083107 facebookで便利なのは、「過去の今日」の自分の投稿を教えてくれることだ。「ああ、去年の今日は、こんなことしていたんだ。」「ええっ?三年前こんなことがあったの?」と自分の記憶のあてにならなさを痛感して新鮮だ。

 写真は6年前の今日の写真。

 故郷の佐世保駅裏手の海。この翌日から博多に出張で、前日に佐世保に寄ったのだ。教会の伝道者として献身することを決意し、会社を退職する直前の在職中最後の出張だった。

 その日、グループハウスに住んでいた母を訪問した。母は重い認知症だった。息子(母の孫)の幼いころの写真を見たら思い出すかも、と大阪から持参したが、写真を見ても「かわいかねー。これはあなたのお子さんですか?」という反応。

 「晩御飯は、あんた、どこで食べるとね?」と母が聞くので「これから博多に行くけん、博多で食べるとよ」と答える。でもすぐ同じことを聞かれる。

「晩御飯はどこで食べるとね」

「博多で食べるとよ」

 何回も繰り返した。これが母と最後の会話になるとはそのときは思わなかった。

 その二か月後、母は急死した。

 母とは、確執があった。認知症になる前の数年は音信を絶っていたこともあった。

 それだけに母が認知症になったとき、そして亡くなったとき、私は動揺した。取り返しのつかないことをしたように思った。

 母の葬儀を控えたとき、ある牧師が私に言った。

「あなたはすでに神に召されて、佐世保にいる。だからそこでなすべきことをしなさい。

死で終わりではないのだから。」

 <死で終わりではない>、それはクリスチャンとして、よくよく知っていたことだ。まして伝道者として立とうとしている私がそれを信じていなかったわけではない。

 しかしその時、改めて思った。<死で終わりではない>それは単純に<天国でみんな幸せになる>ということではない。人間の肉体の死では終わらない神の恵みがあるということだ。この地上での時間を超えた神の祝福があるということだ。

 この地上で和解できなかった母の死は私にとって痛恨のことだった。しかし、<死で終わりではない>神の恵みはまだ続いている、そう信じる。

 そして<死では終わらない>ということが伝道者としての根本を今、支えてくれている。

(facebook投稿に加筆掲載)

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力づけてくださる神

バイブル・アワー イン ザ モーニング 今朝の聖書の言葉 2018.12.13
主はわたしのそばにいて、力づけてくださいました。 テモテへの手紙Ⅱ4:17
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 神様がそばにいて力づけてくださる、そう語っているのはキリスト教の草創のころの伝道者パウロです。神様がそばにいて力づけてくださるなんて、素晴らしいことです。そんなことはありえない、と思われますか?
 たしかに神様のお姿は目に見えませんし、声も聞こえません。落ち込んでいるとき肩をポンポンと叩いて励ましてくださることもありません。洗礼を受けてすぐのころ、不遜なこともかもしれませんが、私は「神様とお酒でも飲んで気楽に話せたら良いのに」なんてことも考えたことがあります。もちろん神様と居酒屋に行って愚痴を聞いてもらうようなことはできません。
 でも、神様はすでにそばにおられるのです。力づけてくださるのです。この言葉を語ったころ、パウロは仲間から見捨てられていました。迫害を受けて取り調べを受けたのに仲間は助けてくれなかったのです。でも、神様はそばにおられました。ですからパウロはむしろ見捨てた仲間のために祈ることができました。
 とても気持ちが沈んでいたとき、アメリカに出張に行くことがありました。アメリカに行ったのはその時が初めてでした。その日、サンブランシスコの夕暮れは、土砂降りでした。しかし、小高い丘の上に来たとき、雨がやみました。そして雲が切れて、その雲の間から美しい夕日が見えました。ああアメリカの夕日だと思いました。(太陽は一つですから、アメリカの夕日も日本の夕日も本当は変わらないのですけど)それまでの一年、本当に公私ともにたいへんなことがありました。しかし、その時、神の励ましを感じたのです。夕日を見ながら、今日だけではない、この一年神に守られていたことを感じました。
 だれも助けてくれない、孤独に戦ったいる、そう思っていても、神に心を向けるとき、すでに神が共にいてくださり助けてくださっていることが分かります。神は今日も私たちを力づけてくださっています。神に心を向けるとき、それは聖書のイエス・キリストを知るということでもありますが、神がたすけてくださっていることが、とてもよくわかります。


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2018年12月11日 (火)

あがない

バイブル・アワー イン ザ モーニング 今朝の聖書の言葉 2018.12.11
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キリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。 コリントの信徒への手紙Ⅰ1:30
 「贖い」という難しい言葉が出てきます。「贖い」は「償い」と似ているようにも感じます。「償い」は自分の故意や過失で起こした悪いことに対してをお金や行動で埋め合わせする、賠償するということです。それに対して「贖い」というのは、親族が失った財産をお金を払って取り戻したり、奴隷に対してお金を払って解放することをいいます。ざっくり言いますと、償いは自分自身で行うものですが、贖いは当事者ではない第三者が行うものです。
 キリストは贖いとなられました。私たちの贖いとなられたのです。私たちを買い取ってくださったのです。取り戻してくださったのです。私たちは奴隷だったのです。え?私は奴隷だったことなどない?そうでしょうか。私たちは皆罪の奴隷だったのです。もちろん、多くの人は犯罪は犯さず、きちんと社会生活、日常生活を送っておられます。しかし、なお人間には根源のところで罪があります。神と共に生きていない、神から離れているという罪があります。そこからさまざまな悪が生じてきます。罪という根っこから良くないものが起きてくるのです。神に対する罪は罪を犯している人間が償うことはできないのです。罪は神に対する借金のようなものです。その借金を返済できるのは罪のないキリストだけです。ですからキリストは贖いとなってくださり、罪人である私たちを救ってくださいました。罪の借金を返すには命を差し出さねばなりません。罪というのはそれほど重いことなのです。キリストは十字架に命を差し出して贖いとなってくださいました。
 クリスマスはキリストのこの世界での誕生を祝うものですが、実際のところ、キリストはこの世界に、十字架にかかりに来られたのです。私たちを贖うために来られたのです。街には華やかなイルミネーションが輝いています。クリスマスの装飾はロマンチックな雰囲気や、牧歌的な雰囲気にあふれています。しかし、クリスマスの出来事は、十字架へと向かって神がその御子を世界へと送り出された出来事です。そこにこそ神の愛があったのです。その神の愛に感謝してクリスマスを迎えましょう。


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2018年12月10日 (月)

祈りこそ力

バイブル・アワー イン ザ モーニング 今朝の聖書の言葉 2018.12.10
そこで、まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝をすべての人々のためにささげなさい。 テモテへの手紙Ⅰ2:1
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 よく万策尽きたとき「もう祈ることしかできない」と言います。この言葉は、人間が何もできない状態、人間の力や努力が及ばない状態において、否定的なニュアンスで語られます。しかし、神への祈りには力があります。祈りほど力があるものはないのです。私たちは神という存在に祈ることができます。そして祈りは神によってかならず聞かれます。
 「困ったときの神頼み」と言います。普段は神や仏のことなど考えていなくても、どうにも困った状態になったとき、神に頼んでしまう。この言葉も否定的に使われますけれど、困ったとき、どんどん神に頼んだらいいのです。
 ただし、その祈る先の神が聖書に記されている神であることは意識なさるべきでしょう。この世界の唯一の神であり、この世界を創られた全知全能の神に対して祈ることが大事です。ボールを投げるとき空(くう)に向かって投げません。受け止めてもらえる相手に向かって投げます。神は必ず受け止めてくださいます。私たちの投げ方がどんなに下手でも受け取ってくださいます。
 祈った瞬間、変わっていくのです。その変化は私たちにはすぐには感じられないかもしれません。いやそれどころか、祈っても祈っても何の変化も起こらないとすら感じられるときもあります。しかし、祈りは100%聞かれているのです。そして現実は変えられていくのです。神はもっとも良き時にもっともよい形で私たちの願いを聞いてくださいます。そのことを信じて祈りましょう。


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2018年12月 7日 (金)

自分探しは不要

20171122_103634_2バイブル・アワー イン ザ モーニング 今朝の聖書の言葉 2018.12.7
主よ。あなただけが地上のすべての王国の神であり、あなたこそ天と地をお造りになった方です。列王記下19:15
 神は天と地を創られました。天と地とは空と地上というのではなく、全宇宙ということです。この世界は神によって創られました。偶然によってできたのではなく、神によって創られました。その宇宙の中の一人一人の人間もまた偶然生まれてきたのではありません。神によって創られたのです。神が目的を持って創られました。私たち一人一人には生きる意味があり、生きる目的があるのです。
 最近ははやらないのかもしれませんが、「自分探し」というような言葉がありました。なぜ自分が生きているのか?生きている目的は何なのか?自分は何をしたらよいのか?それらは基本的には自分で探しに行く必要はないのです。神が一人一人に備えてくださることです。神が私たちに使命を与えてくださいます。その使命に生きるとき私たちは本当の生きがいや心からの喜びを感じるのです。
 それでは、神の使命に生きていれば、つらいことや悲しいことはないのか?そうではありません。やはり私たちの日々には困難はあるのです。八方ふさがりにみえるようなときもあります。神がおられるならなぜ困難があるのか?それは人間には理解できないことです。しかし、どのような困難やつらいことにも意味があるのです。その意味をすべて私たちが理解できることはできないかもしれません。しかし、神の使命に生きるとき、私たちの日々には無駄なこと、不要なことは何一つありません。
そしてまた、困難な時、わたしたちは神に助けを求めることができます。天と地を創られた、全宇宙を創られた神であるからこそ、私たちは助けを求めることができるのです。人間が勝手に作り上げた神ではありません。ですから私たちは信頼して助けを求めることができるのです。


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2018年12月 6日 (木)

バリバリ感

20181204_074609 私は若く見られる方だ、、、と自分でそう思っているだけかもしれない。たいていの人は、年齢を聞いても相手を前にしたら「もっと若いかと思った」と愛想で言うものだし(-_-;)

 実際の年齢は、会社員で言えば定年を控えた年代。しかし、高齢者が多い教会の中にいると、それがピンとこない。だが、たまに「外」に出ると、自分の年齢を考えてしまう。先日も役所で打ち合わせをしたが、どんな渋いおやじが出てくるかと思ったら、どう見ても、一番上の役職の方でも私より10歳程度若そう。ああ、現実の世界で中心となって働いているのは30代40代の人々なんだなあと感じた。もちろんそれ以上の年齢の方も上級管理職として、あるいはベテランの実務職として存在感を放っておられるだろう。 しかし、30代40代の人々の「バリバリ」感をなにか遠いものを見るように私はまぶしく見てしまった。

 私自身は、この世の「バリバリ」世代を抜けた頃、牧師になった。牧師としてはまだまだ新米だ。その新米感と非バリバリ感のはざまで、どうにも妙な感覚を覚えるときがある。

 わたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。 コリントの信徒への手紙Ⅱ4:16

 そうそう「日々新た」である。でもこれは単に肉体は衰えても精神は若々しくあるということではない。人間は肉体も精神も衰えていくのだ。意欲も気力も衰えていくのだ。もちろん90歳になろうが、100歳になろうが、元気で若々しくあるに越したことはない。生き生きとやりたいことができ、意欲的に生きていけたらよい。実際、そういう方もおられるだろう。でも、自分たち自身の体や精神の若さを自分たちの力で「新た」にする必要は必ずしもないし、それは無理なことだ。

 「新た」にしてくださるのは神なのだ。肉体も精神も衰えても、なお神が私たちを「新た」にしてくださる。そういう意味で衰えというのも、信仰のひとつの冒険だといえる。神に委ねていく信仰のプロセスにおける冒険。

 そう、それは分かっている。でも、やっぱり「バリバリ」感はまぶしく思う。自分が今、あとせめて10歳若かったら、もっと神学を学べて、もっとバリバリ伝道できたのに、と思う。

 いやいやだからダメなんだよ。神が求めておられるのはあなたのバリバリではない。

 そんな声を聞きながら、庭に落ちた花びらを見る。寒い冬が来る。部屋の中で丸まって、今、できること、与えられたことを、感謝してやっていく季節。


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あなたを支える言葉

20181204_115059バイブル・アワー イン ザ モーニング 今朝の聖書の言葉 2018.12.6
シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょう。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。」ヨハネによる福音書6章68節
 どんなに素晴らしい人であっても、尊敬できる人であっても、完ぺきな人はいません。不完全で欠けたところを持っています。この人についていこう、と思ってついて行っても、ある時、幻滅することも往々にしてあります。今日の聖書箇所でイエス・キリストの弟子であるペトロは「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょう。」、つまり、私たちはほかの誰にもついてはいかない、ただ、あなたと共にいます、と答えています。その理由は、「あなたは永遠の命の言葉を持っておられ」るから、というのです。
 イエス・キリストはその生涯において、多くの奇跡をなされました。病人を癒し、困った人を助けられました。しかし、そのような人間離れした能力や力を持っているから、あなたについていきます、とペトロは言っているわけではないのです。
 「永遠の命の言葉を持っておられるから」なのです。病気が治っても、人間はいつかは死にます。トラブルが解決できても、人生にはまた新たなトラブルがやってきます。根本的な解決、救いには至らないのです。もっとも大事なことは、あなたの命を根本的に支えてくれる言葉なのです。あなたが絶体絶命のピンチにあるとき、あなたを決定的に支えてくれる言葉が必要なのです。現実的な解決はそのあとに来るのです。あなたが仮に死の床にあるときであっても、もう残された時間が少ない時でも、なおあなたを支え、平安を与えることのできる言葉があるのです。それがキリストの語る言葉であり、聖書の言葉です。永遠の命をもった言葉です。肉体の命を越えて、湧き出でる水のようにあなたの心の深いところから渇きを癒してくれる言葉です。
 癒しとか、リラクゼーションと言った言葉をよく聞きます。マッサージとか、温泉とか、気の合った人と食事をするとか、そういうことでほっとできるというのはたしかにあります。わたしももちろんそういうことはします。しかし、人間の深いところからあなたを癒し平安を与えてくれるのは、永遠の命の言葉だけです。イエス・キリストの言葉によって、私たちは今日もまことの生き生きとした命に生かされます。


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2018年12月 4日 (火)

冒険が始まる!

20181204_114925_2バイブル・アワー イン ザ モーニング 今朝の聖書の言葉 2018.12.4
天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」ルカによる福音書1章28節

 少女マリアのところに天使ガブリエルが来て語りました。天使と聞いただけで何かおとぎ話のような、神話のような印象を持たれるかもしれません。皆さんや皆さんの周りにはおそらく天使と話をしたことがあるとおっしゃる方はおられないでしょう。
そしてこの場面は絵画などでも良く描かれている「受胎告知」の場面です。おとめマリアは処女でイエス・キリストをみごもったと聖書に記されています。その懐妊を知らせる場面の言葉なのです。浮世離れした作り話のように聞こえてしまう方もおられるでしょう。現実にあり得ないことだと感じられるでしょう。

 たしかにそうなのです。神の出来事はあり得ないことなのです。人間が思いつくようなこと、常識的なことではないのが神の出来事です。聖書には非科学的と思われる多くの奇跡物語が記されています。それらの奇跡を科学的に辻褄が合うように説明しようとする人々もいます。しかし本来、人間からは説明のつかないこと、それが神の出来事です。

 そんなとんでもない神の出来事と遭遇したマリアとは、聖母マリアとかアベ・マリアと言われる女性です。このときマリアは現代でいうと中学生くらいの少女でした。イスラエルの田舎町の少女でした。天使は「おめでとう」と言いましたが、少女にとっては実はおめでたいことではありませんでした。というのは、当時、マリアは婚約をしていましたが、まだ結婚をしていませんでした。結婚をしていない女性が妊娠するということは、当時はありえないことでした。もし妊娠が発覚したら、死刑になるようなことでした。ですから天使の告げたことはマリアにとって命の危険を伴うことでした。

 しかし、マリアは、天使のお告げを受け入れます。天使は神の使いですから、否応なく受け入れるしかなったから、ではありません。神は人間の自由意思を尊重される方です。ですからマリアはここで天使に断ることもできたのです。しかし、マリア断りませんでした。天使ガブリエルがいった「主があなたと共におられる」という言葉を信じたからです。「主が共におられる」つまり神が共にいてくださる、そのことを信じたのです。

 しかし、神が共にいてくだされば、何一つ不自由はなく、毎日幸せで平和か、というとそうではありません。神が共におられる時、神は私たちの日々に介入なさいます。もちろん、神は悪いことをなさるわけではありません。しかし、神のなさることは人間には理解できないことが多いのです。人間から見たら、「なぜこんなことが起こるのだ?!」というようなことも起こるのです。

 クリスマスが近づいています。クリスマス前の4週を教会では「アドベント」と言います。「アドベント」は「到来する」というラテン語ですが、英語の「アドベンチャー」、冒険という言葉も同じ語源を持つと言われます。つまり神の御子であるイエス・キリストが到来するということは、新しいことへ踏み出す冒険の始まりも意味します。イエス・キリストが到来する、神が共にいてくださる、それは冒険なのです。マリアはその冒険を受け入れたのです。平坦な道ではない、でも喜びに満ちた神と共に歩む冒険の日々を受け入れたのです。私たちにもアドベントがやってきました。冒険の季節がやってきました。神と共に歩むのです。喜びの内に歩むのです。困難はあるでしょう。ハラハラドキドキ、絶体絶命と思えるときもあるでしょう。しかしなお、神が共にいてくださるとき、それは大いなる喜びの歩みなのです。


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2018年12月 3日 (月)

もっともへりくだってくださった方

20181202_1010431バイブル・アワー イン ザ モーニング 今朝の聖書の言葉 2018.12.3

「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

マタイによる福音書2312

 高ぶる者、偉そうにしている者は、低くされる、とあります。最近、大企業の有名なトップが逮捕されましたが、地位や権力に溺れる者はその座を失い、謙虚な者は道が開かれるというような、人生訓のようにも聞こえる言葉です。人間は謙虚でなくてはいけない、それはたしかにそうでしょう。しかし、現実はどうでしょうか?高ぶる者は結局、高ぶり続け、へりくだる者は、へりくだり続けなければならないのが現実なのではないでしょうか?ガンガン自分を押し出してアピールした方が上に行き、へりくだっていたらずっと下でくすぶっている、そんな世界ではないでしょうか。良い意味でも悪い意味でも、高さを求めるとき、そこには過酷な戦いがあります。生き馬の目を抜くような戦いがあります。戦いに負けた者でも、本当のところは高ぶりたいという心があります。へりくだるより高ぶりたいというのが多くの人間の心です。

 聖書はそのようなこの世界のことを語っているのではありません。神のことを語っています。神の前で高くされることを語っているのです。神の前で安らかな心を持つことを語っているのです。私たちはただ神の前にへりくだって、その恵みを受ければいいのです。神の前で自分の正しさや立派さをアピールする必要はないのです。神は何もかもご存知です。私たちの良いところも悪いところも。でも安心してください。悪いところを断罪したり、査定されるわけではありません。自分の弱さも欠点もそのままに神の前にへりくだるとき、本当の平安が与えられます。そして本当に私たちにとって大事なことは何かということがわかります。

 世間はクリスマスシーズンです。クリスマスはイエス・キリストという方がお生まれになったことを祝うものだということはご存知でしょう。イエス・キリストは、神の御子でした。その神の御子のこの世界でのその生涯の最後は、犯罪者としての死刑でした。十字架という、当時ではもっとも恥ずべき刑罰をお受けになり亡くなられました。犯罪者の中でももっとも悪質な犯罪者として死なれたのです。王や権力者になられたのではありません。もっともこの世界の下の者として死なれました。神の御子であられた方が、天の高みからへりくだってこの世界に来られた、それがクリスマスの出来事です。そしてその生涯の最後にさらにもっともへりくだってくださった。そのへりくだってくださったお方はただ、何の意味もなく殺されたのではありません。へりくだることのできない私たちを救うために死なれました。

世界でもっともへりくだられた方は、今はもっとも高くされ、父なる神のもとにおられます。そして私たちが自分自身のへりくだることのできない罪によって父なる神の前で滅びることのないようにとりなしてくださっています。だから私たちは安心していいのです。もっともへりくだってくださったお方のゆえに、私たちはかならず父なる神のみ前で高くしていただけるのですから。


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2018年11月30日 (金)

20181122_111853バイブル・アワー イン ザ モーニング 今朝の聖書の言葉 2018.11.30
「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。」
ヨハネによる福音書10章9節
 門というのは内側と外側をつなぐ入口です。開いているときもあれば閉じているときもあります。「狭き門」という言い方もします。固く閉ざされて人の入ることを拒むときもあれば、開かれて多くの人が入ってくるときもあります。
 人間には閉ざされていた門がありました。神への門です。アダムとエバの話を聞かれたことはないでしょうか?アダムとエバは神に逆らいました。神に対して罪を犯したのです。アダムとエバの出来事は昔話や神話ではありません。私たち一人一人のことです。私たち一人一人が神から離れ、神に背いていたのです。ですから神と私たちの間には断絶がありました。神と私たちの間の門は閉ざされていたのです。
 2000年前、イエス・キリストは「わたしは門である」とおっしゃいました。イエス・キリストが神と私たちの間の門となってくださったということです。イエス・キリストという門を通れば、私たちは神と出会えるのです。閉ざされた門を力づくでこじ開けるのではありません。門を開けるために特別な修行や訓練をするわけでもありません。ただイエス・キリストというお方を知り、その方を通じて私たちは神と出会うことができるのです。
 キリストという門を通って入る者は救われるのです。神と出会うとき救われるのです。私たちの日々のさまざまな苦しみや悲しみの根っこには「神から離れている」という原因があります。しかしいまや神への門は開かれました。それが2000年前のクリスマスの出来事です。神から離れていた私たちに神への門は閉ざされていました。しかしいまやキリストご自身が門となってくださいました。私たちはその門を通って神と出会います。そのときすべてのことが変わります。私たちはキリストの門をくぐるとき、まったく新しく生きていくことができるのです。


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